墓穴を掘ったスーパーマン



「結婚!?」
工藤邸の居候、黒羽快斗が切り出した突然の話にリビングでくつろいでいた新一は驚きを隠せなかった。
「うん、マジシャンとして一応世間に名も通るようになったし、そろそろ身を固めようと思って」
「ほぉ、遂に年貢を納める気ぃになったっちゅう訳や」
快斗の真面目な話に茶々を入れるのは言わずもがな、もう一人の居候、服部平次である。
「ひどいな服部、それじゃ俺が遊び人みたいじゃん」
「実際せやろ。特にKID引退するまではストレス溜まる言うて色んな女に手ぇ出しとったみたいやしなぁ」
「よく言うよ、服部だって警察学校に放り込まれる度、『ストレス溜まってかなわんわ』って歌舞伎町をウロウロしてるくせに」
「な、なんでお前がそんな事知ってるんや!?」
「元天下の大泥棒、怪盗KID様の情報網を侮ってもらっちゃ困るな。その気になれば警察でも手に入らないような情報だって簡単にゲット出来ちゃうもんねv」
ケケケと笑う快斗に気が短い平次が「何やと!コラ、もう一回言ってみい!」と食ってかかった瞬間、「……どうやらせっかくのおめでたい話題もあなた達にとっては漫才のネタにすぎないようね」という志保の声が冷たく響く。
「あ……」
「そういう訳や…ないんやけど……」
一瞬にして借りて来た猫のように大人しくなる平次と快斗に新一は苦笑すると、「……で?黒羽、お前、もう青子さんにプロポーズしたのか?」と、その場にいる人間を代表して一番の関心事を快斗に尋ねた。
「実は今度のショーに青子を招待してさ、そのプログラムの中に組み込もうと思ってるんだ」
「相変らず気障な野郎だな」
「俺は気障を演じてるだけ。素で気障な名探偵には言われたくないね」
「おめーな……」
ジロリと快斗を睨み、喧嘩腰になりかける新一を志保が咳払いして諌めると「誰かさん達のせいですっかり遅くなっちゃったけど……おめでとう、黒羽君」とニッコリ微笑む。
「クールビューティーに一番に言ってもらえるとは光栄だね」
「この家はちょっと寂しくなっちゃうけど……」
志保のこの言葉に初めて気付いたのか、新一が「そっか、そうだよな……」と独り言のように呟く。いつかはそれぞれバラバラに暮らす日が訪れる事が分かってはいたものの、長い年月を共に過ごして来ただけに、それがいざ現実となると感慨深いものを感じずにはいられなかった。
「それはそうと……新居はどこに構えるつもりなんや?」
「実は結婚を機に生活の拠点をロスに移そうと思って」
「ロスって…ロサンゼルスか?」
「本当は日本へ来るにもヨーロッパへ行くにもニューヨークの方が便利なんだけど、将来子供が出来た時の事やラスベガスに近い立地条件を考えるとロスの方がいいんじゃないか、ってジイちゃんが言うからさ」
「せやなあ、ラスベガスいうたら世界一の興行都市やし……ところで彼女はその事知ってるんか?」
「青子の前じゃガキの頃から『世界一のマジシャンになるんだ!』って散々言ってたし、俺と結婚したら日本で生活出来ない事くらいアイツも分かってるんじゃないかな?」
「『世界一のマジシャン』……ここへ来てからも黒羽君の口癖だったものね」
「まあね。でも、これからが本当の勝負かな?」
快斗の真剣な口調にどうやら本気らしいと察した新一が「頑張れよ!」と彼の背中を叩いたその時、ふいに平次が「俺もそろそろやなあ……」と溜息をつく。
「服部…?」
「ずーっと言われへんかったんやけど、今度の異動で地方へ飛ばされるかもしれへんのや」
「考えてみれば採用以来ずっと東京だもんな」
「同期の連中はとっくに日本全国散らばっとるしなぁ……そろそろ飛ばされても文句言えへんねん」
「警察もエリート族は辛いな。けどよ、おめえの場合、相手がいないだけマシじゃねーか」
失礼極まりない新一の台詞にムッと顔をしかめた平次だったが、「姉ちゃんの尻に敷かれまくっとるどっかの誰かさんよりよっぽどマシや」と、すかさず嫌味を返して来る。
「……誰が尻に敷かれてるって?」
「怒るっちゅう事はどうやら自覚しとるみたいやな」
「何だと、てめえ…!」
再び始まる漫才に志保が溜息とともに時計を見ると午前8時を回ったところだった。
「それじゃあ私、そろそろ出掛けるから……」
「志保、まだ早いんじゃねえか?」
新一の反応に志保が「……本当、あなたって人の話を全然聞いてないのね」と呆れたような視線を投げる。
「今日、明日、明後日と富山の学会に出席するからって先週話したでしょう?」
「え?おい、オレ、そんな話聞いてねえぞ?」
「覚えてないのも無理ないわ。あなた、私がこの話を切り出した時、手掛けている事件の事で頭が一杯だったでしょうから」
「……」
そういえば一週間前、帰宅早々志保から話があると切り出されたような記憶がある。が、久しぶりに暗号が絡んだ事件でワクワクしていた事もあり、ろくすっぽ聞いていなかったのは他ならぬ新一だった。
「スケジュールボードに日程表と泊まるホテルのパンフレットを貼り付けておいたわ。多分必要ないでしょうけど」
それだけ言うと志保は椅子から立ち上がり、用意してあったボストンバッグを手にするとさっさと玄関へ向かってしまった。
「あーあ、怒らせちゃった」
志保が工藤邸を後にした途端、快斗がからかうような視線を新一に投げる。
「……って、その一因はおめえにもあるだろーが!」
「クールビューティーは俺達の漫才なんか慣れっこだよ。問題は誰かさんが学会の話を全く聞いてなかった事だと思うけどなー」
「せやなぁ、宮野にとって工藤は『一応』私生活におけるパートナーなんやし」
「って、『一応』を強調するんじゃねえ!」
新一の反論も平次と快斗にとっては柳に風のようで、「今日の片付け当番、名探偵だったよね?」「ほな後はよろしく」と口々に言うと、さっさとダイニングを後にしてしまった。
「言いたい放題言いやがって…!」
片付けなんか放っておいて自分も部屋に戻りたい気分だが、当番をさぼれば三日連続強制的に当番が続くルールになっている。
「クソッ…!」
イライラと頭を掻き、椅子から立ち上がった瞬間、玄関のチャイム音が鳴り響いた。
「誰だ?こんな朝早く……」
志保ならチャイムなど鳴らすはずがないし、平次と快斗は2階の自室にいる。一番考えられるのは依頼人が探偵事務所が開くのを待ち切れず、ここまで押し掛けて来たといったところだが……
今すぐ仕事に取り掛かる気分にはなれないが、放っておく訳にもいかず、新一はインターホンの受話器を取ると「はい?」と不機嫌さを隠す事なく応答した。
「工藤ですが」
新一の応答にも相手は何も言わない。ピンポンダッシュかと受話器を戻そうとすると再びチャイムが鳴った。
「……ったく、何だってんだよ?」
志保を怒らせるは、平次と快斗にはオモチャにされるは、今日は朝からろくな事がない。おまけに早朝から来客とは厄日としか思えず、新一は溜息をつくと玄関へ足を向けた。
「どちら様ですか?」
チェーンを掛けたままドアを開けるが、周囲に人影はない。やはり誰かの悪戯かとドアを閉めようとした瞬間、上着代わりに羽織っていたシャツの端が強い力で引っ張られた。その小さな手の主にさすがの新一も驚きのあまり言葉を失う。
「コナン…!?」



「……ああ、無事ここにいるから。空港から?んなもんタクシー使って来たんだろ?どーせコイツにも父さんのカード持たせてあるんだろうし……ああ、なるべく早く帰すようにすっから」
母、有希子との通話を切ると新一はふうと大きく息をついた。
「……ったく、母さん、滅茶苦茶心配してたぞ!」
「……」
怒りを隠さない新一の態度にもコナンは頬を膨らますばかりで何も答えようとしない。
「まあいいじゃん。無事に辿り着いたんだし」
「せやせや。こんな小っさいのにロスからここまで一人で来るなんてたいしたもんやないか」
お気楽極楽な悪友二人をジロッと睨むと、新一は「オイ、コラ!おめえ、家出なんて一体何考えてんだよ!?」と、コナンの背の高さに合わせるように屈み込んだ。が、コナンはそんな兄には全く関心ないようで、キョロキョロと周囲を見回すと、「……志保お姉ちゃんは?」と、たった一言口にする。
「残念だったな。志保は明後日まで帰って来ないぜ。富山で学会があるんだってよ」
「……」
「ま、誰かさんもついさっきまで『学会』の『が』の字も忘れてたんだけどね」
「お前の兄貴の機嫌が悪いんはそのせいやから気にする事ないんやで?」
口々に言いたい放題言う悪友達を「そこ!うるさい!」と一蹴すると、新一は「……で?なんで家出なんかして来たんだ?」と、同じ質問を繰り返した。
「……お兄ちゃんには関係ないもん」
「関係ねえ事ねーだろ!?いくら離れて暮らしているとは言えおめえはオレの弟なんだからな!」
「……」
相変らずだんまりを決め込んでいるコナンに平次が「工藤、まあそうカッカすんなや。責めてるばっかりやとコナン君かて言いたい事も言えへんで?」と、新一とコナンの間に割って入る。
「別にオレはカッカしてなんか…!」
「大体、お前、そろそろ事務所行かんとマズイやろ?」
「え…?」
正気に戻って時計を見るといつの間にか午前8時45分を回っていた。
「ヤべッ!9時に依頼人が来るんだっ…って、そういうおめえらはまだいいのかよ?」
「俺は今日は時差出勤やからな。12時に出れば充分や」
「12時か……黒羽、おめえは?」
「俺は夜しか仕事入ってないから。コナン君の事なら心配いらないよ」
「そっか、悪ぃな」
「気にする必要ないって。せっかく新しいマジックを披露しても反応の悪い誰かさんの相手してるよりコナン君と遊んでる方がよっぽど楽しいしv」
「……」
快斗の言い草に顔をしかめつつも、持つべきものは友である。新一はホッと胸を撫で下ろすと、「とにかく!事情は今夜きっちり聞かせてもらうからな!」と捨て台詞を残し、自室へと駆けて行った。
頭から湯気が出んばかりに怒る兄の姿が消えると同時にコナンがホッとしたように息をつく。
「平次お兄ちゃん、快斗お兄ちゃん、ありがとう」
「何や?何か困った事でもあるんちゃうんか?」
「俺達でよかったら相談にのるけど?」
「別にそんなんじゃないから。それより空いてる部屋で少し眠らせてもらってもいい?」
「何や?飛行機で眠れへんかったんか?」
「う、うん……まあね」
「居候の俺達と違ってここはれっきとした君の家だろ?遠慮なんかするなよ」
快斗の言葉にコナンは「ありがとう」とだけ言うとリビングを後にした。
「……第一次反抗期ってヤツやな」
肩をすくめる平次に「そんな単純なものじゃないと思うけど……」と、快斗が考え込むように顎に手を掛ける。
「単純なもんやないって…なんでや?」
「だってコナン君、最近は一応名探偵にも心を開くようになってたじゃん」
「まあ、宮野の姉ちゃんほどやないけどなぁ」
「それに……」
「あん?」
「……いや、これは俺の気のせいだよな、うん」
「何一人で納得してんねん?」
「何でもないって。そんな事あるはずないし」
なおも首を傾げる平次に「じゃ、俺、ショーの準備があるから」とだけ言い残すと、快斗は自室へと戻って行った。



午後3時。さすがに幼い弟を広い家に一人ぼっちにさせる訳にもいかず、新一は早目に仕事を切り上げ自宅へと引き返した。ガレージに車を入れ、玄関のドアを開けたその時、2階から階段を降りて来た快斗と鉢合わせする。
「おや?名探偵、今日はお早いお帰りでv」
「おめえが夜のショーって言えば大体この時間に出るのは分かってるからな」
「本当、変な事は良く知ってるよねー」
ケラケラ笑う快斗に「うるせー」と返すと、新一は「で…コナンのヤツは?」と、一番の厄介事について尋ねた。
「『少し寝たい』って言うから起きて来るまでそっとしておこうって服部と話してさ、コナン君にはパンとオレンジジュースを用意しておいたんだけど……」
「まさか……」
「そのまさか。コナン君、部屋から一歩も出て来ないよ」
「……」
「あかん、お手上げや」と、平次の声色で手を広げて見せる快斗だったが、すぐに「名探偵……コナン君、重症だよ」と、真剣な表情に戻る。
「あん?」
「今朝、コナン君、名探偵が依頼人に会うって言ってたのに全然興味示さなかっただろ?あの時は寝不足のせいかなと思ったんだけど……」
「だけど…?」
「コナン君、あれだけ好きだった推理小説に見向きもしないんだ」
「な…!」
さすがの新一も快斗のこの指摘には驚きを隠せなかった。ロスで同居している事もあり、ここ最近父、優作の新作を一番に読むのは専らコナンで、事件解決と日々の生活に追われ、本を読む時間すらまともに取れない新一はメールや国際電話で散々自慢されていた。そんなコナンの事だからどうせ自分が帰るまで書棚から適当な本でも取り出して読んでいるものだとばかり思っていたのだが……
茫然とする新一の肩を快斗はポンポンっと叩くと、「悪い、名探偵。俺、そろそろ行かないと間に合わないから」とだけ言い残し、工藤邸を後にした。



平次はとっくに出掛けたのか、家の中は水を打ったように静かだった。
新一は仕事用のバッグをリビングへ置くと、その足で快斗から聞いた小さな弟が陣取っている部屋へ向かった。ドアをノックするものの、返事は返って来ない。
「コナン、寝ちまったのか?」
ドアは内側から鍵が掛けられているようで、新一は溜息をつくとポケットからピンを取り出し、鍵穴へとねじ込んだ。
(あんまり黒羽みてえな事はしたくねーが……)
カチッという音とともにドアを開けた新一の目に映ったのは、布団に包まりベッドの上で猫のように丸くなっているコナンの姿だった。
「……おめえな、黒羽達がせっかく昼飯まで用意してくれたのに丸無視かよ?」
「……」
どう見ても狸寝入りの弟にイライラが募り、新一は「コラッ!」っと布団を乱暴に剥ぎ取った。
「おい、ロスで一体何があったんだ?」
「べ、別に何も……久しぶりにお兄ちゃん達の顔を見たくなっただけだよ」
「嘘つけ!だったら連絡の一本くらい寄越すはずじゃねーか!」
「それは…お兄ちゃん達を驚かそうと思って……」
「だったらなんで今日来た?」
「え…?」
「お前がこの家へ来る一番の目的は志保だからな。志保の予定も確かめずに飛んで来るなんて何かあったとしか思えねえだろーが!」
「……」
黙って頭を垂れるコナンにこれですべて白状するだろうと判断したのは新一の早合点だった。
「……偉そうに言わないでよ」
「あん?」
「お兄ちゃんにボクの気持ちなんか分からないよ!!」
次の瞬間、子供とは思えない強い力で新一は部屋から追い出されてしまった。



「……ったく、なんでオレばっかりこんな目に遭わなきゃならねえんだよ!」
誰もいない家の中で一人文句を吐くと、新一はリビングのソファへドカッと腰を下ろした。ただでさえ帰宅した際、志保が淹れてくれる美味しい珈琲にありつけなくてイライラしてるのに、小さな弟の家出騒動に振り回せれては堪らない。
平次は夜勤だと言っていたし、快斗が戻るのは一夜明けてからだろう。思わず溜息をついたその時、ポケットの中の携帯が鳴った。
「はい、工藤……」
「……随分不機嫌そうだけど名探偵さんにも解けない難事件でもあったのかしら?」
いつもはムッとさせられる志保の揶揄するような口調に逆にホッとしたのか、新一は「……ああ、全然解けそうもない難事件がな」と思わず苦笑した。
「どうしたの?あなたらしくないじゃない」
「実はロスから一人、家出して来たガキがいてさ」
「ロスって…まさかコナン君!?」
「ああ」
さすがの志保も驚いたのだろう。電話の向こうでしばらく絶句していたが、「……それで?コナン君、何て言ってるの?」と尋ねて来た。
「バーロー、理由が分かればオレだってこんなにイライラしてねーよ」
「なるほど?何を尋ねても答えてくれないのね?」
「あ、ああ……」
「それで?」
「『それで?』って……アイツが何も言わない以上、放っておくしかねーだろ?どーせ腹がすいて耐えられなくなったら何か言って来るだろうし……9時に依頼人と会う約束になってたからな、アイツの事は黒羽達に任せて……」
新一の答えを遮るように志保が「……つまりあなたはコナン君から話もろくに聞かずに出掛けちゃったって訳ね?」と、大きな溜息をついた。
「そりゃ…オレだって気になったけどよ、仕方ねえだろ?仕事だったんだからさ。これでも一応いつもより早く帰って来たんだぜ?」
「……」
「志保…?」
電話の向こうでしばし沈黙していた志保がふいに「……あなたとコナン君の場合、仕方ないのかもしれないわね」と呟く。
「あん?」
「小さい頃、私にとってお姉ちゃんはスーパーマンだったから……他の誰に言えなくてもお姉ちゃんには何でも打ち明けられたわ。『志保、どうしたの?』って見つめられると無性に頼りたくなって……考えてみれば同じ年頃のお姉ちゃんより周囲の大人達の方が解決能力がある事は明らかなのに……不思議な話よね」
「志保……」
「あなたとコナン君の場合、私とお姉ちゃんと違って年が離れ過ぎているからどうしても兄弟っていうより親子って感じになっちゃっうわよね……」
寂しそうに呟く志保に新一は「……そうだよな」と苦笑した。
「いくら年が離れているとは言えコナンにとってオレはたった一人の兄貴なんだ。ロスで何があったか知らねえけど、せめてオレだけはアイツの味方になってやるべきだよな」
しばし電話の向こうで沈黙を守っていた志保が「……頑張ってね、お兄ちゃん」とからかうようにエールを送る。その言葉に新一は「ああ」と力強く頷いた。



ドアをノックしても返事はなかったが新一はお構いなしにコナンがいる部屋へと入って行った。
「起きてるか?」
「……」
無言のままベッドに横たわる弟の傍らへ腰掛けると、「今朝は悪かったな」と、その頭を優しく撫でる。
「さっき志保から電話があってさ、おめえの事を話したら……怒られちまった」
珍しく志保の名前が出てもコナンは何の反応も示さなかったが、新一は構わず続けた。
「もう亡くなって随分経つが志保に姉さんがいた事はおめえも知ってるだろ?色々事情があって一緒に過ごせた時間は僅かだったはずなのに、アイツにとってお姉さんはスーパーマンだったって言うんだ。他の誰を頼れなくてもお姉さんだけは頼れたってな」
「……」
「オレ、ずっと一人っ子だったからさ……正直な話、兄弟ってどういうものか分からねえんだ。おまけにおめえとは随分年が離れてるだろ?多分、自分でも気付かないうちにおめえにとってオレは兄貴って言うより保護者じゃないといけないって思い込んでたんだろうな」
果たしてどう表現したら自分の気持ちが伝わるのか……途切れ途切れに言葉を続ける新一を気の毒に思ったのか、コナンが「もういいよ」と苦笑すると、ベッドから起き上がった。
「本当は志保お姉ちゃんに相談したかったんだけど、お兄ちゃんで手を打つから」
「『手を打つ』って……何だよ?オレ、そんなに頼りない兄貴か?」
「少なくとも志保お姉ちゃんよりは頼りない」
「……」
どこまでも正直な弟に眩暈を覚えるが、何とか堪えたのは少年探偵団の三人組と過ごした日々のお陰かもしれない。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
「お兄ちゃんっていくつ位から探偵になりたいと思ってたの?」
余程の難問を突きつけられると思っていただけに新一はコナンの口から出た質問に肩すかしを食らってしまった。
「そうだな……父さんの書斎にある子供向けのホームズ全集を一通り読み終わった頃かな?」
「お父さんみたいに小説家になりたいとは思わなかったの?」
「ああ、不思議とそれはなかったな。多分、父さんが締め切りに追われて苦しんでる姿を散々見てたし……何より謎を仕掛ける側に回るより解く方に回る方が面白そうだと子供心に感じたんだと思うぜ?」
「ふーん……子供の頃、一つしか夢がなかったっていうのも何だか寂しいけど、お兄ちゃんの場合、間違ってなかったから良かったよね。お兄ちゃん、作家なんて普段は地味な仕事より『名探偵、名探偵』っていつもキャーキャー騒がれてる方が自己満足出来るだろうし」
「おめーな……」
しかめっ面になる新一にコナンは悪戯っ子のようにクスッと笑うと「……実はボク、バークリーから誘われててさ」と呟いた。
「バークリーって……あの有名なボストンの音楽学校か!?」
「へえ、音痴のお兄ちゃんでも知ってるんだ」
「この場合音痴は関係ねーだろ!それより……一体どういうルートでおめえの事がバークリーに…?」
「ほら、以杏お姉ちゃんのコンサートでボク、バイオリン弾いたでしょ?あのDVDを観たって人がこの前ロスの家に来て……詳しい話を聞くと、どうやらバークリーは指揮者の小澤良輔さんの母校らしくて、時々学園のホールで演奏会を開いてるんだって。で、一ヶ月前、小澤さんが『お土産です』って置いていったのが以杏お姉ちゃんのライブDVDだったみたい」
確かにアメリカの音楽学校の関係者が日本のアイドルのDVDを観るとは思えず、小澤の名前が出て来た事で新一はようやく納得した。DVDは言ってみれば小澤から母校への遠回しの推薦状だったのだろう。
「お母さん、すっかり舞い上がっちゃって……ボクが何を言っても全然聞いてくれないんだ。お父さんが『少し冷静になったらどうだ?』って言っても『こんなチャンス、滅多にないのよ!』って騒ぐばかりで……」
女優という運と実力の両方が成り立って初めて成功する仕事に就いていた有希子にしてみればもっともな言い分だろう。新一は「……だろうな」と遠い目で呟いた。
「お父さんもお兄ちゃんもお母さんには頭が上がらないじゃない?でも、志保お姉ちゃんならどうかなと思ったんだ。女同士だし、少なくともお母さん、志保お姉ちゃんの言う事なら耳を貸してくれるんじゃないかな、って。それにボク自身、大きくなったら何になりたいのかお母さんの手の届かない場所でゆっくり考えてみたかったし……」
「『手が届かない場所』ってのは間違ってるぜ。父さんとちょっと喧嘩しただけで日本へすっ飛んで来た事が過去何回あったか分からねえからな」
「それでも12時間は確保出来るでしょ?」
「そりゃ……」
逆に言えば12時間しかないのだ。新一はコナンの瞳を真っ直ぐ見つめると、「おめえ、バイオリン、好きじゃねえのか?」と優しく問いかけた。
「……バイオリンは嫌いじゃないよ。ボクのバイオリンを聴いて心が和んだ、って言ってくれたお年寄りもたくさんいるし、何より同じ曲でも人によって解釈が全然違うから凄く面白い楽器だと思う。でも……探偵って仕事にも興味あって……」
「コナン……」
「お父さんやお兄ちゃんに比べたらボクなんか全然ダメだっていうのは分かってる。でも、『やってみたい』って気持ちがどうしても抑えられないんだ……」
新一は自分を責めるように言葉を飲み込むコナンの頭をポンッと叩くと、「……だったらやりたい事からやってみるってーのはどーだ?」と、ニヤッと笑みを浮かべた。
「え…?」
「とりあえず自分が一番やってみたい事からやってみろよ。おめえ、まだ7歳だろ?そんなに早く人生決めるんじゃねえよ」
「お兄ちゃん……」
「母さんにはオレや志保から上手く言ってやるからさ、一旦ロスに戻って安心させてやれ」
「……うん」
重い足枷から開放されたかのように無邪気に笑う弟に新一の顔からも自然、笑顔がこぼれた。



3月某日。工藤邸の前に二台のトラックが横付けされた。一台はいよいよアメリカへ渡る快斗が、もう一台はやはりこの春、大阪へ栄転する事になった平次が頼んだ引越しセンターのトラックである。
「クールビューティー、長い間お世話になりました」
かしこまって挨拶する快斗に「……おめーな、礼を言うなら家主であるオレにだろ?」と新一は思わず突っ込んだ。
「名探偵には世話になってないからね。どっちかって言えば俺が世話した方なんじゃない?」
「てめえ…!」
新一と快斗のやりとりに志保が「……本当、今日でこの漫才も見納めかと思うと寂しいわ」と苦笑する。
「せやなあ、なんだかんだ言うてもこの家は漫才が絶えへんかったからなあ」
「…って、服部!漫才の元凶はおめえだろーが!」
新一の指摘など平次にはどこ吹く風のようで、「ほんな事より工藤、これで遠慮なく姉ちゃんと夫婦生活も出来るんやから。はよ子供作るんやな」と冷やかすような笑みを浮かべた。
「なっ…!」
「服部君、人の心配をする暇があるなら自分の事を考えた方がいいんじゃない?今のところ相手がいないのはあなただけなんだから」
志保の冷静な指摘に平次が「あかん、一番痛いところを突かれてもーた!」と手で額を叩く。その姿に新一、志保、快斗の顔から思わず笑みが零れた。
「それじゃ名探偵、今度会うのは俺と青子の結婚式かな?」
「そういう事になるんだろうな」
「工藤、一気に同居人が二人もおらんくなってまったからちゅうて姉ちゃんに甘えてばっかりおったらあかんで」
「だ、誰が寂しがるって言うんだよ!?これでやっと志保と二人、静かに生活出来るんだ。清々するぜ」
憎まれ口を叩いていてもやはり共に過ごした長い時間は新一達にとってかけがえのないもので、いつしか会話も途切れ、それぞれが過ごした時間に想いを馳せる。
その時、そんな四人を一気に現実へと引き戻すかのように一台のトラックが工藤邸に横付けされた。派手な広告から嫌でもそれが引越しセンターのものだと分かる。
「何だ、黒羽。おめえ、トラック一台じゃ足りなかったのかよ?」
「え?俺は一台しか頼んでないよ?」
「俺も一台やで」
「じゃあ一体…?」
次の瞬間、トラックの助手席から弾かれたように飛び降りて来た人物に新一は驚きのあまり言葉を失った。
「コナン…!?」
やっとの思いでその名を口にする兄を見事にスルーしてコナンが志保に抱きつく。
「志保お姉ちゃん、久しぶり!この前は会えなくて寂しかったんだから…!」
「ごめんなさいね、ちょうど学会で留守にしてたの」
「謝らないでよ、志保お姉ちゃんが悪い訳じゃないし。それにこれからは毎日一緒だもん!」
「え…?」
「毎日って…おめえ、まさか…!?」
「うん!ボク、今日からこの家でお世話になる事にしたんだ!」
「何ィ!?」
「お兄ちゃん言ったでしょ?『自分が一番やってみたい事からやってみろ』って。ボク、前から日本の小学校に通ってみたかったんだ。お兄ちゃんとお姉ちゃんが小さくなってた頃の話を聞いてると面白そうだし、アメリカと違って飛び級制度ないから将来の事もゆっくり考えられるでしょ?」
「そりゃ…まあ……」
「お母さんも言ってたよ。『ちょうど服部君と黒羽君があの家を出るから新ちゃんもコナンちゃんが行ってあげれば寂しくないんじゃない?』って」
「……」
手のかかる年齢を過ぎた弟を自分に預け、そろそろ二人で外国を豪遊したいという両親の魂胆がみえみえで新一は思わず頭を抱えた。
「良かったなぁ、工藤」
「これなら俺達がいなくなっても寂しくないね、名探偵v」
口々に自分をからかう悪友をジロッと睨むが、肝心の志保には新一の気持ちは全く通じていないようで、「そうね」と嬉しそうにコナンに笑顔を向けている。
「工藤コナン、今日からお世話になります!よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
志保とコナンの仲睦ましい様子に新一は「ハハ…」と乾いた笑いを浮かべる事しか出来なかった。



あとがき



「宮野の日」の開催が近い事もあり、志保さんにとって明美さんがどういう存在だったのかな?と考えていたらこんなネタが浮かんでしまいました(さすがにあの企画にコレで参加は出来ないもんね^^;)
一応、天災シリーズの位置づけとしてはラストとなる作品ですが、このシリーズは肩の力を抜いて書けるので、また他の作品が煮詰まった時にでも書きたいですね。