鯉のぼりが五月晴れの空を気持ちよく泳ぐ季節がやって来た。
以前だったらそれを見ても自分の誕生日が近づいている事さえ思い出しもしなかったのに、今は『あの日』の決意を思い出させる風物詩となっているのだから皮肉なものである。
「……それでは江戸川君、続きを読んでくれますか?」
ふいに教師に声をかけられコナンはハッと現実に引き戻された。
「あ、はい……えっと……」
「25ページ、3行目」
隣の席の哀が小さな声で呟く。コナンは「サンキュ」と一言返すと教科書を手に立ち上がった。



 真 実



「ねえ新一、明日の誕生日は会えるよね?」
会話が途切れた瞬間、電話の向こうで蘭が呟いた。
明日は本来なら工藤新一19歳の誕生日だ。『本来なら』と注釈が入るのは、彼が未だ小学校三年生の『江戸川コナン』の姿のままでいるからに他ならない。
組織は昨年の秋、壊滅した。そして組織に残っていたデータを元に、哀が解毒剤を完成させたのがクリスマス・イヴの話だ。
一昔前のコナンだったら何の躊躇いもなくそれを飲み、蘭の元へ戻っただろう。しかし、皮肉にも解毒剤を飲むはずだったあの日に巡りあった事件がきっかけとなり、コナンの中に「本当に元の身体に戻ってすべて元通りなのだろうか……?」という疑問が生じてしまったのである。
工藤新一に戻ればまた名探偵ともてはやされ、事件に奔走するであろう事は容易に想像がついた。マスコミからも脚光を浴び、ファンレターの数も父、優作と肩を並べるようになるだろう。そして何より止まっていた蘭との時間も再び動き出すはずだった。
しかし、コナンとなって初めて気付き、考えさせられた自分と蘭の関係……そして気付いてしまった哀の自分への想い……
蘭にとって『工藤新一』はある意味ヒーローなのだ。常に強く、頼りになる、まるで映画の主人公のような存在である。それはコナンがかつて彼女の前では常にかっこつけの気障な男を気取っていた所以であり、自業自得に他ならないのだが、それをこの先も求められる事は今のコナンにとっては苦痛以外の何物でもなかった。実際、そんな自分の本音を自覚してからというものの、自分の帰りを信じて待ち続ける蘭の姿を目の当たりにする事さえ辛くなってしまい、結果、二月に阿笠が家を改築したのを口実に探偵事務所も出てしまったのである。
そして、それと同時に始まった哀との同居生活。元々哀を恋愛対象として見ていなかった事もあり、彼女の自分への想いを知っていたとはいえ変な気を使う事もなく過ごす事が出来た。哀の方もコナンが蘭との関係に迷いを抱いていると知りつつそれまでと変わる事なく接してくれた。しかし、同居した事により自然、哀と話す機会も増え、コナンは改めて彼女の博識ぶりに圧倒された。会話を交わす度に覚える快感……それは服部平次といる時の感覚に非常に似ているもので、飾らない自分でいられる開放感と知的興奮を刺激される日々に虜になっていくのにさほど時間はかからなかった。
「新一ってば…!」
蘭の声にハッと我に返り慌てて蝶ネクタイ型変声機を持ち直す。
「……あ、すまねえ、えっと…何話してたっけ?」
「何って……」
電話の向こうで蘭が溜息をつく。
「結局あのまま高校退学しちゃって……おまけに何にも言わずにアメリカへ行っちゃってたなんて……酷いじゃない」
「悪ぃ悪ぃ、例の組織の残党とか追ってたら学校どころじゃなくてさ」
「……」
「蘭…?」
「新一、いっつも二言目には組織、組織って言うけど……本当にそれだけ?」
「あん?」
「だって……電話をくれる回数もどんどん減っちゃったし……久し振りに日本へ帰って来たっていうのに会いにも来てくれないし……」
「それは……」
「じゃ、明日会える?」
「明日は……」
コナンの姿でいる以上蘭と会う事は出来ない。
「わ、悪ぃ、ちょっと先約が……」
コナンの言い訳は蘭の「ねえ新一、そろそろ……聞かせてくれない?」という言葉に遮られた。
「え…?」
「私……新一の真実が知りたいの。たとえそれで新一と未来が別れる事になっても……」
「蘭……」
「私ね、この前、新出先生に言われたの。『付き合ってくれませんか?』って……だから……もう待てない……待てないよ、新一……」
これ以上偽り続けても自分も蘭も傷つくだけだろう。コナンは意を決すると口を開いた。
「蘭……オレは……」



阿笠邸に帰ると哀は地下の自室でパソコンに向かっていた。
「おかえりなさい。随分遅かったのね?」
その台詞に時計を見ると夜の11時50分を過ぎている。
「博士は?」
「今日は学会の旅行で泊まりだって聞いてるけど?」
「……そうだったな」
コナンはカレンダーに書かれた阿笠の予定を確認すると「灰原、話がある。ちょっといいか?」と、彼女の背中に声をかけた。真剣な口調に哀も何かを感じたのか黙って作業を中断するとファイルを保存し、パソコンをシャットダウンする。
「どうしたの?急に改まって」
「オレ……このまま『江戸川コナン』として生きていこうと思ってさ」
思いがけないコナンの言葉にさすがの哀も一瞬絶句した。
「……あなた正気!?自分が言ってる事の意味が分かってるの!?」
「おめえな、そんな摩訶不思議な物を見るような顔すんなよ」
「だって……」
「皮肉な話だけどよ……オレ、コナンになってからの方が周りの事がきちんと見えてるんだよな。工藤新一だった時は世界的推理小説家と元人気女優の息子ってだけでチヤホヤされる面もあったし……何より自分自身が完璧な人間だと自惚れてたからな」
「でも……それが元の身体に戻らない理由にはならないでしょう?その反省を活かせばいいだけの話じゃない」
「人間なんて周りの態度が変わればそれに流されちまうもんさ。それに組織は壊滅したとはいえどこに残党がいてもおかしくねえ。このまま工藤新一はアメリカへ行っちまった事にした方がオレ自身も安全だしよ」
サバサバした口調のコナンに哀が「彼女の事は……どうするつもり?」と絞り出すように呟いた。
「蘭には今日、オレの気持ちを正直に伝えた。『今までと同じような感覚でオレを見るならお前とは付き合えない』ってな。それに『素のままのオレを受け止めてくれる女に出会った』とも伝えた」
「それって……」
「ああ。オレの強さも弱さも全てを理解し受け止めてくれるのは……灰原、オメーだよ。今のオレはまだオメーに恋愛感情を持っているとは言い切れねえが……そういう対象として見てもいいと分かっている以上、後は時間の問題だろうな」
「……」
「オメーも宮野志保に戻る気はねえんだろ?」
「え、ええ……」
「じゃ、決まりだ。解毒剤、処分してくれねえか?勿論データも」
「……後悔しても知らないわよ?」
「オレなりに散々考えて出した結論だ。後悔はしないさ」
「……強いのね」
「バーロー、ちっとも強くなんかねえよ。実際、オレの煮え切らない態度が蘭とオメーを散々振り回しちまったからな。オメーら女の方がよっぽど強いと思うぜ?蘭はオレの本音から逃げなかったし、オメーは確たる保障もねえのに解毒剤を保管してくれた」
「工藤君……」
何とも言いようのない表情で自分を見つめる哀にコナンは穏やかに微笑むと「それにしても……江戸川コナンの誕生日も同じとはな」と話を変えるように呟いた。
「え…?」
苦笑するコナンの視線の先を見ると時計の針が午前0時を少し回っている。
「『江戸川コナン』として生きていく事が決まった日も5月4日になるとは……皮肉だよな」
「あら?ただでさえも自分の誕生日を忘れるあなたにはちょうどいいんじゃない?」
「うっせーな……」
コナンは眉をしかめると「そういえば……おめえの誕生日っていつだ?」と思い出したように哀の方に振り返った。
「今の私は灰原哀よ。宮野志保の誕生日なんてどうでもいいじゃない」
「そりゃ……ま、いっか。灰原哀の誕生日は分かってるからな」
「え…?」
「オレと博士で勝手に決めたのさ。博士がお前を保護した9月10日にな」
「……」
確かにあの日、阿笠に諭され『灰原哀』と名前を決め組織と戦う事を決意した。それがもう一つの誕生日と言えなくはないだろう。
「そう……ね」
哀は一言呟くと引き出しからシャーレに入ったカプセルとメモリースティックを取り出した。カプセルを開け中の粉末をシンクに流し、同時にメモリースティックを破壊する。
「……オメーの努力、無駄にしちまったな」
「あなたを散々苦しめた事に比べれば……私の事なんて……」
「苦しくなかったって言えば嘘になるけどよ、オレは自分の真実を見つける事が出来た。これで良かったのさ」
「……」
きっぱりと言い切るコナンに哀はそれ以上何も言う事が出来なかった。



「……まったく。退屈なのは分かるけど教科書くらい目で追ってて欲しいわね」
授業が終わり教師が出て行くと哀は思わず苦笑した。
「悪ぃ、ちょっと思い出しちまったから……」
コナンの視線の先に青空を泳ぐ鯉のぼりを認め、哀もコナンの考えている事を察しそれ以上追求する事を止める。
「あれからもう4年か……早いよな」
「……ねえ、工藤君」
「あん?」
「後悔してない?あの日『江戸川コナン』の人生を選んだ事……」
「何だよ?急に」
「だって……毎年この時期になるとあなた辛そうだから……」
「そりゃ……そう簡単に忘れられる事じゃねえからな。けど……後悔はしてないぜ」
「本当に…?」
「ああ。今のオレは少なくとも自分の真実から逃げてねえからな」
自信たっぷりに言い切るコナンに哀は静かに微笑んだ。
「オメーはどうなんだ?」
「え…?」
「オレみてえな男に惚れた事、後悔してねえか?」
「さあ、どうかしら?」
「チェッ、可愛くねえの」
コナンの拗ねたような表情にクスッと笑った哀だったが、次の瞬間、耳元で囁かれた言葉に思わず顔を赤くする。
「……バカッ」
プイッとそっぽを向く哀に今度はコナンが勝ち誇ったように微笑んだ。
『オレ以外の男相手に可愛くなられても困るからな』
コナンが哀に囁いた台詞はどうやら二人だけの秘密になりそうだ。



あとがき



時間軸的には「現在」が小学校五年生、「回想」が小学校三年生というちょっと複雑な(?)お話です。「Plastic Flower」と「銀杏並木の下で」の間がこれでやっと埋まりました。短編においてもコナンが哀を選ぶ過程を書きたかったので良かったです。
誕生日ネタ、果たして皆さんはどちらを気に入って下さるでしょうか?