サラブレッドのトラウマ



10月も半ば過ぎだというのに気温がやけに暑く感じられるのは自分の気のせいだろうか?
小嶋元太は強い日差しから顔を守るように制帽を深く被り直すと、ハアと大きな溜息をついた。
どういう訳か小学生の頃から様々な事件に遭遇し、いつの間にか刑事になる事が元太の夢だった。大学を卒業し、中学時代に始めた柔道の成績が良かった事もあり、警視庁に採用されたまでは良かったが、新人がいきなり刑事課に配属されるはずがなく、命じられたのは所轄の交番勤務。見習い時代に3ヶ月ほど刑事課での研修期間があるにはあったが、仕事の大部分は特捜本部の雑用で終わってしまい、とても幼い頃に夢見た刑事という仕事とはかけ離れた内容だった。異動希望提出の際、毎回『刑事課』と書いてはいるものの、交番勤務に落ち着き早2年の月日が経とうとしている。
勿論、刑事課が華やかなだけの部署ではない事くらい元太にも分かってはいるが、幼い頃から交流のあった佐藤刑事や高木刑事の活躍を思うと不満を感じるのも無理はないのかもしれない。
(まさかオレ、このままずっと交番勤務なんて事はねえよね……)
嫌な予感に自転車を漕ぐ足を止め、汗を拭ったその時だった。
「あの…お巡りさん」
オドオドとした小さな声に振り向くと、いつの間にか元太の傍にダンボール箱を抱えた小さな男の子が立っていた。名札を見るとどうやら帝丹小の二年生のようだ。
「どうした?ボウズ」
「実は……昨日、学校帰りに拾ったんだけど……」
少年がダンボール箱の蓋を開けると、生後2ヶ月弱と思われる子犬が顔を出した。首輪がない事からおそらく捨て犬だろう。
「ボクの部屋に隠してたんだけど、今朝お母さんに見付かっちゃって……『元の場所に戻してらっしゃい!』って怒られちゃったんだ。でも、このまま見放したらきっと死んじゃうよね?」
少年の言葉によくよく子犬を見ると、何かにぶつかったのか身体の右側部前方に大きな内出血が認められる。
「お巡りさん、何とかならない?」
「『何とか』って言われてもなあ……」
警察で犬を拾得物として受理しても保護した人間に引き取る意思がなければ保健所送りとなってしまっているのが実情である。特に東京は拾得物に関して集中管理を行っている事もあり、所轄で少し様子を見るなどという事も出来ない。
「せめてお医者さんに診てもらいたいんだけど、ボク、お金持ってないし……」
その時、少年の口から出た『お医者さん』という言葉に元太はハッとなった。
「ボウズ、心配いらないぜ。お巡りさん、実は凄い名医を知ってんだ」
「本当?でも……」
「お金の事なら心配いらないぜ。そんなケチな事を言う先生じゃないからな。どうだ?今から一緒に行くか?」
「うん!」
一瞬にして輝く大きな瞳に元太の顔もいつの間にか笑顔に変わっていた。



「……小嶋君、あなた、私を一体何だと思っているの?」
幼い頃から散々元太達の遊び場と化していた阿笠邸の隣に住む『名医』は元太の話を聞くなり呆れかえったと言いたげに両手を広げて見せた。
「何って……灰ば…じゃなかった、江戸川、お前、アメリカでドクターまで取得してるんだろ?」
「いちいち言い直さなくても『灰原』でいいって言ったでしょ?」
「もう『灰原』じゃねえじゃねえか。そうかと言って『哀』って呼ぶとコナンが怒るし……」
「だったら『お前』だけで結構なんだけど」
「『お前』って……オレ、お前の旦那って訳じゃねーし。第一、『お前』だけで会話するのは限度ってもんが……」
どんどんずれていく話にげんなりしたのか、哀が小さな溜息を落とすと「小嶋君、私は獣医じゃないのよ」と腕み、元太に鋭い視線を投げる。
「そりゃ……けどよお、人間だって動物だろ?これくらいお前なら朝飯前なんじゃねえのか?」
「専門分野の境界線がない獣医と違って普通の医者は自分の専門外の事までそんなに詳しくないのが実情よ。中にはさっぱりって人もいるくらいだわ。第一、私の専門は薬学なんだから。外科系の知識なんかとても……」
「何言ってんだよ?昔、オレが怪我した時、お前、手当てしてくれたじゃねーか」
「日常生活で負う小さな怪我の手当てなんか私じゃなくても出来るわよ。その子犬、見た目はただの内出血だけど、もし内臓に影響があったらどうするつもり?」
「それは……」
返す言葉を失い、気まずそうな表情で少年の方を振り返る元太に哀はやれやれと言いたげに息をつくと「……仕方ないわね。取りあえず一旦預かるわ」と、ダンボールから子犬を抱き上げた。
「いいのか?」
「博士がこの前、何を思ったのかレントゲンの機械を購入したの。それで検査してみて私の手に負えないようなら同じ大学出身の獣医に相談してみるわ。彼女なら多少無理な頼みも聞いてくれると思うし……」
「そっか、ありがとな」
「ただし、怪我が治るまでに小嶋君、あなたが責任持って飼い主を探して頂戴ね。この犬、雑種だからなかなか引き取り手はいないかもしれないけど、怪我が治ったからって放り出す訳にはいかないでしょ?その子の家はダメみたいだし。いいわね?」
「飼い主かあ……」
途方に暮れたように空を見上げる元太だったが「この家はどうなんだよ?」と、ふいに思い付いたように哀を見た。
「え…?」
「お前、昔から動物好きじゃん。博士ん家で世話になってた時は遠慮もあったかもしれねえけどよ、今はそんな事気にする必要ねえだろ?コナンのヤツも別に動物嫌いって訳じゃねえし……」
「それは…そうだけど……」
「……?何だよ、お前にしては珍しく歯切れの悪い返事だな」
「実は……よく分からないのよ」
「分からない?」
「ペットショップの前を通った時、私が『可愛いわね』って言うじゃない?そうすると彼、決まって『お前が飼いたいなら飼えばいい』って言い方するの。なんか自分の意志は横に置いといてって感じの言い方が引っ掛かって……」
「コナンの事だ。事件が起きたらペットの世話どころじゃないからってだけの話じゃねえのか?」
「さあ……いずれにしても彼、今朝杯戸港で起きた轢き逃げ殺人の捜査に駆り出されてて、いつ帰って来るか分からないのよ。いくら何でも私の一存じゃ決められないし……」
「ああ、あの轢き殺した後、海に沈めたっていうアレか」
「ええ。酷い事するわよね」
「『害者がどこで轢かれたのか分からないんじゃ手の打ちようがない』って鑑識に行った同期がぼやいてたな……」
「さすがにあの探偵界のサラブレッドも手を焼いてるみたいよ」
哀の言葉に元太は肩をすくめると「……仕方ねえ。飼い主の方はオレが何とか探してみるからよ、それまでコイツの事頼んだぜ」と、子犬の頭を撫でると夕暮れの街を少年とともに歩いて行った。



子犬の怪我は思ったより酷いもので、結局、哀は大学時代の友人を頼る事となった。
「悪いわね、ただでさえ忙しいのに……」
「何言ってるの。同じゼミの仲間じゃない」
哀の大学時代の友人、望月花菜は悪戯っ子のような笑顔でウインクを投げると「……このレントゲンを見る限りではどうやら右前足を骨折してるようね」と、独り言のように呟いた。
「そうなの。こうなるともう私の手には負えないから……内出血の様子からすると何かにぶつかったような感じなんだけど、単純にぶつかっただけならここまでひどく骨折しないでしょ?」
「車にでも轢かれたんじゃないの?ほら、ここに塗料のようなものが付着してるし……とは言っても犬を轢いても罪にはならない…か」
花菜が不満そうに口をとがらかすと「とりあえず骨が落ち着くまでウチで入院ね。後はそちらでよろしく」と、哀の肩を叩く。
「やっぱりここでも飼い主を見付けてもらうのは難しいかしら?」
「最近のブランド犬ブームじゃ雑種はなかなかね。おまけにこの子、メスじゃない?」
「……」
好きで雑種のメスに生まれた訳ではない子犬と好きで組織の中で生まれ育った訳ではない自分が重なり、哀はやり切れない思いで小さな命を見つめた。



その夜。哀が一人、自宅で夕食を取っていると思いがけずコナンが帰って来た。
「随分早かったのね。事件解決したの?」
「バーロー、轢き逃げ現場の特定も出来ねえ状態で何が出来るって言うんだよ?」
「……でしょうね」
「そろそろおめえの美味い飯も食いたいし、一旦帰って来た」
「お世辞を言っても残り物しかないわよ?」
内心を見透かすような口調とともにキッチンへ向かおうとしたその時、「……おい、この動物の毛、一体何だ?」というコナンの声が哀を呼び止める。その目に光る輝きに哀はそれが事件に関わる何かであると直感した。
「小嶋君から預かった子犬の毛よ。骨折してて私の手には負えなかったから花菜の診療所に預けて来たの」
「この色……」
ビニール袋に入った数本の毛を真剣に見つめるコナンに哀は「……どうやら夕飯は後回しのようね」と呟くとパソコンを立ち上げた。
「ああ、ひょっとしたらすっげー手掛かりかもしれないぜ?」
ニヤッと笑うコナンに哀は肩をすくめると、彼の指示に従ってパソコンを操作していった。



それから約一週間後。少年が子犬を保護した場所、時刻を手掛かりに捜査範囲は徐々に絞り込まれ、轢き逃げ現場が特定された。現場には車両の欠片やブレーキ痕が残っており、それから間もなく轢き逃げ犯は逮捕された。
「ラッキーだったわね」
夕食の後、リビングで推理小説を読んでいるコナンに哀はコーヒーを差し出すとその横に腰を下ろした。
「ああ、まさか被害者と同時に犬を轢いてたとは犯人も思ってなかったみてえだな。轢き逃げ場所で採取した証拠品を突き付けたら素直に自白したって服部が言ってたぜ?」
「あんな珍しい色の車に乗ってた事も犯人にとっては不運だったわね」
「そうだな」
互いに苦笑しつつ、コーヒーカップを口に運んだその時、江戸川邸のチャイムが鳴る。
「誰かしら?こんな時間に……」
コナンは時計を見ると、立ち上がろうとする哀を制止し、自ら玄関へ向かった。
「はい?」
「コナンか?オレだ」
「元太!?」
慌てて玄関のドアを開けると、元太はコナンの背を通り越して家の奥を覗き込み、「えっと、その……江戸川いるか?」と、気まずそうな表情で呟いた。
「どっちの江戸川だよ?」
「お前に聞いてるんだから嫁さんの方に決まってるだろ?」
「……だから『灰原』でいいって言ったでしょう?」
呆れたように哀がリビングから姿を見せたその瞬間、元太が突然「悪ぃ、灰原!」と頭を下げた。
「……どうやら心当たりは全滅だったみたいね」
「あ、ああ……手は尽くしたんだけどよ……」
哀は困ったような表情になると「後は花菜だけが頼みの綱ね……」と溜息をついた。
「……何の話だ?」
合点がいかないと言いたげなコナンに元太が「子犬の飼い主さ。引き取り手がいなくて困ってんだ」と両手を広げてみせる。
「何だ。おめえら、そんな事で困ってたのか?」
「そんな事って……このままじゃあの子犬は保健所行き決定だぜ?そうなれば間違いなく殺されちまう!いくら犬の命だからって見殺しになんて出来ねーだろ!?」
興奮する元太にコナンは「誰が見殺しにするって言ってんだ?」と目を丸くすると、「なあ、オレ達で飼わないか?」と、哀の方に振り返った。
「え…?」
「ちょうど番犬でも飼おうかと思ってたんだ。オレがいない時、おめえ一人だし」
「でも…あなたいつもそんな事……」
「今回の事件が解決したのはあの子犬のお陰だからな。それに……」
「……?」
「『米粒一つでも残したら罰が当たる』…だろ?」
コナンの言葉に哀が嬉しそうに微笑むと、「花菜に電話して来るわ」と、リビングへ駆けて行く。
「おい、コナン」
「何だよ?」
「その……本当にいいのか?」
「あん?」
「あの犬、雑種だぜ?おまけにメスだし……」
「雑種、か……」
コナンは大きく息をつくと、「実は昔、オレも犬を保護して家に帰ろうとした事があったんだ。けどよぉ、当時のクラスメートに『有名人の子供が雑種を飼うのか?』って冷やかされて……結局、そのまま帰っちまったんだ。それ以来、どうも自分から進んで動物を飼う気にはなれなくてな」と苦笑した。
「そうだったのか……」
「哀のヤツには内緒だぞ。『あなた、案外ナイーブなところもあったのね』って笑われるのがオチだからな」
納得するように元太が笑ったその時、「もう怪我もすっかりいいみたい。『いつでも引き取りに来て』って言ってたわ」という言葉とともに哀が戻って来る。
「そっか。じゃ、明日にでも引き取りに行くか?」
「ええ」
嬉しそうな哀の様子に元太が「なんか……お前ら見てるとオレも結婚したくなってくるな」としみじみと呟いた。
「なんだ、お前、まだ歩美ちゃんにプロポーズしてねえのか?」
「仕方ねえだろ?だってよぉ……」
「……刑事課に異動出来るまで結婚しないつもりなんでしょ?」
「あ、ああ……」
「いい加減、はっきりさせないと知らないわよ?歩美、職場でも人気あるみたいだし、円谷君と東尾さんの結婚式の2次会でもナンパされてたから」
「まじかよ!?」
「さあ、どうかしら?」
クスッと笑う哀にそれ以上追求しても無駄だと悟ったのだろう。
「その話は今日はいいだろ?それより……あの犬、可愛がってやってくれよな」
それだけ言うと元太は逃げるように江戸川邸を後にしてしまった。



あとがき


180,238Hitを踏まれたレモンパイ様のリクで「哀と元太の話」です。この二人と言えば『天国へのカウントダウン』の『米粒発言』ですよね。で、当初はそこらあたりの話を書いていました。でも、結局落ち込んだ哀をコナンや少年探偵団が励ますという、ありがちなパターンに陥りそうだったので、思い切ってプロットの再構築を行った結果こんな内容に。
それにしても、『哀と元太の話』でありながらタイトルがコナンの事なんですよね。わはは@爆