雛祭り 〜小学2年生3月〜



「ついこの間年が明けたと思ったのに……本当、月日が経つのは早いわね」
信じられないと言いたげに1月のカレンダーを破る哀の姿にコナンは読みかけのペーパーバックで自分の顔を隠した。
解毒剤開発が一段落した事もあり、今年の正月はのんびり過ごしたいと言っていた哀を連れ回したのは歩美達少年探偵団の面々に他ならないが、毎度のように事件に巻き込まれたのはコナンの事件吸引体質が原因としか考えられなかった。組織との長い戦いを終え、やっと静かに暮らせると思っていた哀にとって警察の事情聴取や現場検証に付き合わされる事は不本意だったに違いなく、『月日が経つのは早い』という台詞は自分に向けられた嫌味以外の何物でもないだろう。
分かっていながら知らんぷりを決め込むコナンに哀は「ねえ……一度きちんとお祓いしてもらった方がいいんじゃない?」と小さく肩をすくめた。
「仕方ねえだろ?事件に巻き込まれるのは探偵の性ってもんだからな」
「あのねぇ……私はともかくあの子達は正真正銘の小学生なのよ?そんな幼い子供達の貴重な時間をあなたが食い潰していいと思ってる訳?」
「食い潰すって……あのなあ、アイツ等が原因で巻き込まれた事件もあった事はおめえだって分かってんだろ?」
「それはそうかもしれないけど……」
なおも反論しようとする哀を遮ったのはオホンという阿笠の咳払いだった。
「全く……君達二人が口にするのは事件の話ばかりじゃな。若い者同士たまにはもっと明るい話題をしたらどうじゃ?」
「明るい話題ねぇ……」
「ま、工藤君相手じゃ無理な話ね。出掛ける度に事件に巻き込まれる人なんだから」
至極もっともな哀の言い分に苦笑する阿笠だったが、「出掛けると言えば……」と新聞の間から一枚の広告を引っ張り出して来た。
「博士、今日はどこのスーパーもセールなんて……」
呆れたように呟く哀だったが、何気なく受け取ったその広告に思わず言葉を飲み込む。
「近所の人形店の広告じゃからあんまり種類は載っておらんが……一度見に行ってみるのも悪くないと思っての」
「見に行くって……博士、まさか私に雛人形を……?」
「昨年は組織の事でゴタゴタしておって雛祭りどころじゃなかったからのう」
「……」
ニコニコ笑顔で言う阿笠に哀はしばし黙っていたが、「雛祭りなんて柄じゃないし……要らないわ」とだけ言うと興味なさそうに広告を放り投げた。
「柄も何も雛祭りは女の子の健やかな成長を祈る年中行事、形からと言われればそれまでじゃが、わしは哀君に幸せになってもらいんじゃ。だから……」
「博士の気持ちは嬉しいわ。でも、私はここで生活させてもらっているだけで充分幸せなの。それに……雛人形より先に必用な物があるでしょ?ここ最近、車の調子が悪いって昨日言ってたばかりじゃない。温水器のお湯もいまいち温度がぬるいし……」
「わしはこれでも発明家じゃぞ?車や温水器の故障くらい何とでもなる」
えへんと威張ってみせる阿笠にコナンが「……だったら博士のビートル、どうして出掛ける度にエンスト起こすんだよ?」と突っ込んだ。
「大体贅沢品買うならまず自分のスーツでも買ったらどうだ?灰原が嘆いてたぜ、フサエさんとのデートにいつもと同じような格好で出掛けようとしたってよ」
「それは……」
「そうね、同居人である私のセンスを疑われないためにも一着新調してもらいましょうか?」
「高級品を買えば嫌でも太れねえだろうし……カロリーチェックが益々厳しくなりそうだな」
「……」
コナンと哀の矢継ぎ早な攻撃にすっかりたじたじとなる阿笠だったが、「あ……そういえばポアロのマスターに先月のツケを払いに行かんと……」と苦笑いを浮かべると、そそくさと出掛けてしまった。



「……さっきはありがとう」
阿笠が家を出てから約30分が経過しただろうか。香ばしい匂いにペーパーバッグを閉じると哀がテーブルに二人分のコーヒーカップとクッキーを盛った皿を並べていた。
「あなたの事だからどうせ気付いているんでしょ?」
自分を正面から見つめる哀にコナンは「人形、嫌いなんだろ?」と、小さく肩をすくめた。
「おめえに雛人形を買ってやりたがる博士の気持ちも分からなくはないが……あのまま放っておいたら誰かさんが爆発しかねなかったからな」
「あなたの突っ込みがあと数秒遅れていたらと思うと……我ながら情けないわよね」
自分相手なら哀は遠慮なく『要らないって言ってるでしょ!』と一蹴していただろう。それだけ阿笠が彼女にとって大切な恩人であるという事実が理解出来なくはないが、面白くないのも事実だった。そんなコナンの心境を知る由もなく、哀は「本当、探偵って嫌な人種よね」と呟くとコーヒーを口に運ぶ。
「あなたの言う通りよ。嫌いなの、人形。だって……組織にいた頃の私みたいじゃない。命令されるがまま研究を続けていた『シェリー』は人形以外の何物でもなかったから……」
「実の姉さんが人質に取られてたような状況じゃ仕方ないさ」
「だからと言って私の罪が許される訳じゃないわ。APTX4869が多くの人の命を奪ってしまった事は事実だし……あなたの事だって……」
「ストップ、その先は言うんじゃねえぞ」
思いがけず強い口調で遮られ哀は思わず言葉を飲み込んだ。
「あ……悪ぃ、その……」
自分の中に芽生えつつある複雑な感情をどう表現していいか分からず、しどろもどろになるコナンに哀は「……工藤君、博士が帰って来たら適当にフォローしておいてくれない?私、地下にいるから」とだけ言い残すとリビングから出て行った。



それから約一時間後。コナンの想像通り阿笠が山のような雛人形のパンフレットを抱えて帰って来た。
「おや?新一君、哀君は……」
「アイツなら地下だよ」
「まさかまた機嫌を損ねるような事を言ったんじゃあるまいな?どうも君は哀君には無遠慮なところが……」
「親莫迦……」
「何じゃと?」
「博士、悪ぃ事言わねえからアイツに雛人形買うのは止めとけよ。変な薬盛られても知らねえからな」
「どうせ哀君に人形など似合わんと言いたいんじゃろ?」
頑なに自分の忠告を無視する阿笠にコナンは盛大な溜息を落とした。他人の心情をペラペラ喋るのはあまり好まないが、阿笠のためにも哀のためにもここは真実を話した方がいいだろう。
「アイツ……人形が嫌いなんだよ」
「何じゃと…?」
「昔の自分みたいで好きになれないんだってさ」
コナンの一言に阿笠も哀の心境を察したのだろう。「ワシは……」と言葉を失った次の瞬間、持っていたパンフレットが床に散らばる。
「落ち込むなよ、博士の好意はアイツだって充分承知してんだからさ」
すっかり肩を落としてしまった阿笠にどう接していいか分からず困惑するコナンだったが、拾い上げたパンフレットに踊るピンク色の文字に不敵な笑みを浮かべた。
「博士、3月3日、灰原に何かしてやりたいんだったらオレにいい考えがあるぜ?」



「残念だなあ、哀ちゃんが来られないなんて……」
「ごめんなさいね、本当に……」
「仕方ないですよ、博士が寝込んじゃったんですから」
「心配すんなよ。灰原の分のケーキはオレが食ってやるからさ」
「もう…!元太君ったら相変わらず食べる事しか興味ないんだから…!」
プウと頬を膨らませる歩美に哀は思わず苦笑した。
阿笠の好意を断った手前、歩美の家で開かれる雛祭りパーティーに出席する気にはなれなかったが、幼い少女の無邪気な誘いを無下に断るのは大人気ないと判断し顔だけ出して早々に帰るつもりだった。そんな哀にとって阿笠が体調不良でダウンしたのはまさに渡りに船である。
「それじゃ……」
「うん」
「博士に『お大事に』って伝えておいて下さい」
「早く元気になってくれないとオレ達も遊びに行けないもんな!」
コナンと三人組が信号を渡って行くのを見送ると哀は阿笠邸への道を一人歩き出した。



「ただいま……」
独り言のように呟きリビングのドアを開けた瞬間、哀は思わず目を丸くした。体調を崩してベッドで寝ているはずの阿笠が庭で何やら作業をしているではないか。
「おお、哀君、おかえり」
「何やってるのよ!身体の調子が悪いなら寝てなきゃダメじゃない!」
サンダルを突っ掛け、慌てて駆け寄る哀に阿笠が「心配せんでもこの通り元気じゃよ」とのんびりとした口調で応える。
「博士の事だからどうせ私に心配かけまいとしてるんでしょ?強がったところで……」
「強がってなどおらんよ。今朝身体がだるいと言ったのは嘘なんじゃから」
「嘘…?」
「ああ、おめえが学校から真っ直ぐ帰って来られるように博士が企てた悪戯さ」
いつの間にかコナンがリビングのソファに陣取りこちらを見つめている。
「図ったわね。一体二人で何を企んでるの?」
「そんな怖い顔するなよ。せっかく植えた木が枯れちまうぜ?」
「え…?」
思いがけないコナンの言葉に視線を戻すと庭の片隅に一本の木が植えられていた。
「一刻も早く君に見せたくての。残念ながら花が咲くにはまだ少々早いんじゃが……」
「これ……桃の木……?」
「今日は3月3日。桃の節句じゃろ?」
阿笠の言葉に哀は「……喋ったのね」とコナンを睨んだ。
「探偵には守秘義務があるんじゃなかったかしら?」
「そんな事分かってるさ。けどよ、話しちまった方が解決する場合があるのも事実だからな」
「……」
「桃は邪気を祓うと言われるそうじゃ。雛祭りも元々は厄除けが由来……人形を飾るのと同じ意味になると思っての」
「全く……慣れない庭仕事なんかしちゃって……腰痛で寝込んでも知らないからね」
憎まれ口を叩いても自然、笑顔になってしまう。
「ありがとう、博士」
感謝の言葉を口にすると哀は蕾を付けた桃の枝を愛おしそうに手の平で掬った。



あとがき



「お姉ちゃんは買ってもらった〜」発言から哀ちゃんは雛人形を買ってもらった事がないと思われます。娘のように可愛がっている博士が代わりに購入する姿は簡単に想像出来るのですが、だからと言って彼女がそれを素直に受け取るとは思えず、某所で得た「桃は邪気を祓う」という知識と相まってこんなストーリーが出来上がりました。
実は冷蔵庫にあったシャーベットを見て「白桃とメロン、どっちを食べようかな?」という幸せな悩みから浮かんだネタだったりします@核爆