宝石箱 〜小学3年生2月〜
 


「ケーキ?」
「うん、明日お母さんと一緒に焼くの。哀ちゃん、午後、歩美の家へ食べに来ない?」
ふいに歩美が切り出した話に哀は目を丸くした。
歩美達三人組が阿笠邸へ押し掛けて来るのは日常茶飯事だが、その逆のパターン、すなわちコナンや哀が彼らの家を訪れた事はほとんどなかったから無理はない。
少しの間考え込んだ哀だったが、たまには阿笠に静かな時間をプレゼントするのも悪くないだろうと判断する。
「私は構わないけど……いきなり四人も押し掛けて大丈夫なの?」
「四人?」
哀の言葉に一瞬首を傾げた歩美だったが、その意味を理解したのかケラケラ笑い出した。
「ヤダ、誘うのは哀ちゃんだけだよ。コナン君と光彦君はともかく、元太君を呼んだらケーキ全部食べられちゃうもん」
「え…?」
歩美の言葉に哀は困惑を隠せなかった。同時に深く考えずに肯定の返事をしてしまった事を後悔する。
てっきりあの三人にも声をかけたものだと思っていた。コナン達が一緒なら会話は彼らに任せ、自分は本や雑誌を読んでいる事も可能だが二人きりではそうはいかない。果たして歩美と二人だけで会話が成立するだろうか……?
そんな哀の複雑な心境に気付くはずもなく、歩美は「たまには女同士っていうのもいいでしょ?」とニッコリ笑う。
「でも……」
口にしかけた否定の言葉を哀はそのまま飲み込んだ。結局、この笑顔に弱いのだ。
「……分かったわ」
「じゃ、明日の三時!」
「ええ」
「あ……ケーキの事、元太君には内緒ね。食べ物の恨みは怖いって言うから」
確かに元太が聞いたら黙っていないだろう。哀は思わず苦笑すると「ええ」と返した。



歩美の自宅がある高層マンションへ到着したのは午後三時五分前だった。
入口すぐ横にあるインターホンを取り、部屋番号を押す。最近のマンションはセキュリティが厳しくなっている事は哀も知っていたが、歩美が住むマンションも例外ではないようだ。
三回ほどコールしただろうか。「はい、吉田です」という聞き慣れた声が耳に飛び込んで来る。
「吉田さん?私。今着いたわ」
「哀ちゃん?あ……ちょっと待ってて。すぐ行くから」
「わざわざ迎えに来てくれなくても……扉を開けてくれれば一人で行けるわ」
「そう?じゃ、開けるね」
インターホンを元に戻すと、ほぼ同時に自動扉が開けられ、哀は玄関ホールへと足を踏み入れた。
歩美の自宅がある階でエレベーターを降り、通路を歩いていくと『吉田』という表札が目に入る。緊張をほぐすように深呼吸すると、哀は玄関の呼び鈴を押した。
「……はい」
チェーンを外す音に続いてドアが開けられ、歩美の母が顔を出す。
「いらっしゃい、哀ちゃん」
一瞬、どう挨拶していいか迷った哀だったが、小学生の姿の自分があまりかしこまった挨拶をするのもおかしいと判断し、「こんにちは」とだけ言うと頭を下げた。
「寒かったでしょう。さ、中へ入って」
「お邪魔します」
通されたのは歩美の部屋ではなく大きなテレビがあるリビングだった。おまけに当の歩美の姿が見えない。戸惑いを隠せず哀は家の中に視線を泳がせた。
「……ごめんね、あの子、今着替えてるの。ちょっとこの部屋で待っててくれる?」
そんな哀の様子に気付いたのか歩美の母が声をかけて来る。
「え…?」
「あの子、おっちょこちょいだから片づけの最中に小麦粉をひっくり返しちゃって……服が真っ白になっちゃったの」
「そうだったんですか……」
その光景が目に浮かび哀も思わず笑顔になった。
「哀ちゃんは家で炊事とかお洗濯とか色々やってるんですってね」
「はい」
「偉いわね。歩美にも見習わせないと……」
「偉いだなんて……大層な事してる訳じゃありませんし……」
阿笠と自分が本当の親戚ではない事を知る由もない歩美の母に対し哀は曖昧に言葉を濁した。
「今日だって材料が足りなくて慌てて買いに行くは、包丁で指を切るは……本当、参っちゃったわ。本当、いつもいつもこんな調子で……哀ちゃんにも色々迷惑かけてるんじゃない?」
「いえ、そんな事……私の方こそ吉田さんには励ましてもらってばかりで……」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。これからも歩美の事よろしくね」
「……はい」
その時、ふいにパタパタと廊下を走る音が聞こえたかと思うと勢いよくドアが開き、歩美が姿を見せた。
「哀ちゃん、お待たせ!」
「……ケーキ作り、色々あったみたいね」
クスッと笑う哀の様子に母が喋った事に気付いたのだろう。歩美は「もう!哀ちゃんには黙っててって言ったのに……!」と、憮然とした表情で母親に抗議した。
「あなたが慌てん坊さんなのはいつもの事だもの。今更哀ちゃんも驚いたりしないわよ。それよりお客様をお待たせしちゃったんだからきちんと謝らなくちゃダメでしょ?」
「あ……」
母の言葉に歩美は顔を赤くすると「待たせてごめん!」と慌てて手を合わせた。
「どういたしまして」
「歩美、ケーキとお茶の準備が出来たら呼んであげるから。哀ちゃんと部屋でゆっくりしてなさい」
「うん」
歩美が「行こ!」と促す。哀はニコニコ微笑んでいる歩美の母に軽く頭を下げると子供部屋へ向かった。



歩美に対しては元々聞き役に徹する事が多かったせいか二人きりになっても思ったより会話が途切れる事はなかった。むしろ普段元太達といる時は控えている話題もあるのか歩美の話は尽きる事がなく、あっという間に時間は流れ去ってしまい哀の心配は杞憂に終わった。
「……そういえば今日コナン君は?」
チーズケーキの最後の一欠片を口に含むと歩美が思い出したように呟く。
「さあ……平次お兄さんに連れられてどこかへ出掛けたわ。どうせ事件絡みでしょうけど……」
東京の大学へ進学した服部平次は何かと言うと阿笠邸を訪れコナンや哀を事件に巻き込んでくれる。
哀は紅茶を一口飲むと「ところで……」と切り出した。
「なあに?」
「どうして今日、江戸川君達は呼ばなかったの?」
誘われた時から一番聞きたかった事を思い切って口にする。
「別に意味はないよ。ただ男の子に見せてもあんまり興味ないかなと思って」
「見せるって……何を?」
「エヘ」
ニッコリ笑って歩美が机の引出しから取り出した物はアンティーク調の木箱だった。
「これ、歩美の宝石箱なんだ」
鍵を開け中身をテーブルに並べていく。出て来る物はいわゆる子供向きのアクセサリーで、一般的に価値があるとは言えない物ばかりだった。しかし、歩美にとっては大切な物であり、それを収納する箱は宝石箱と言えるだろう。
「……綺麗ね」
「でしょ?」
次々並べられる品物をぼんやり眺めていた哀だったが、その中でもそれは異彩を放っていた。歩美がそれを手に取ると哀に見せる。
「これ、哀ちゃんに初めて貰ったプレゼントだよ」
「え?」
「一度きちんと見せたかったの。このボタン、歩美がこの箱に入れてる、って」
正確に言えばそれはプレゼントではなかった。学校でスカートのボタンが取れて無くなってしまい、困っていた歩美に哀が付けた臨時のボタンで、しかも哀自身は今の今までそんな事はすっかり忘れていたのである。
「バカね、そんな物……」
幼い親友の純真な心が眩しいような羨ましいような、複雑な感情に捉われる。そんな自分に哀は苦笑すると、「……これからはもっと綺麗なボタンを持ち歩くようにしなくちゃいけないわね」と呟いた。
「哀ちゃん……!」
哀の言葉に歩美は嬉しそうに微笑むと、「ねえ、哀ちゃんも宝石箱持ってる?」と目を輝かせた。
「宝石箱……ええ、持ってるわ」
「本当?ね、何が入ってるの?」
「大切な人からのメッセージよ」
「哀ちゃんの大切な人?ね、誰?」
「秘密よ」
「え〜!!じゃ、当ててみせるからヒントちょうだい!」
「そうね……あなたにとっても大切な人ってところかしら?」
「歩美にとっても……?」
首を傾げ考え込む様子の歩美に哀はクスッと微笑んだ。



歩美の家から帰り地下の自分の部屋へ篭ると哀は久し振りにその箱を取り出した。机にデッキを置くと中身を取り出しヘッドフォンを着ける。
「九歳になった志保へ……お誕生日おめでとう……」
耳に流れる低い女性の声に哀は目を閉じた。
組織を倒しコナン、阿笠とともに暮らす穏やかな日々が続く中、以前に比べ聞く機会は減ったものの哀にとって大切な母の声だ。
「……そんな格好してると風邪ひくぞ」
ふいに背後からコナンの声が聞こえ、ハッと気がついて時計を見ると午後七時を指していた。自覚はなかったが初めて歩美の家を訪問し、心のどこかで気を遣っていたのだろう。テープから流れる声にいつの間にか眠ってしまったようだ。
「……ノックもせずにレディの部屋に入って来るのは失礼じゃなくて?」
「バーロー、おめえが気付かなかっただけだよ」
「……」
哀自身、最近無防備になる事が多い自分を自覚している事もあり反論出来ない。
「……何かあったのか?」
「え…?」
「おめえがそのテープ聞くの久し振りだからな」
「別に……吉田さんの宝石箱を見ていたら私も自分の宝石箱を開けたくなっただけよ」
「宝石箱?」
「女の子にとってはね、大切な物をしまってる箱は宝石箱なの。たとえそれが他人から見たら何の価値もない物でもね」
「宝石箱ねえ……」
「ま、あなたが『宝石箱』と聞いて真っ先に思い出すのはあの気障なライバルの事でしょうけど」
「……うっせーな」
面白くなさそうに顔をしかめるコナンに哀はクスッと笑うとテープを止め、「さ、夕食の支度しなくちゃ」と立ち上がった。



あとがき



歩美との友情ものです。歩美に関して原作には『おっちょこちょい』という設定はありませんが、哀が落ち着いているせいか、そんな印象が拭えないのは私だけではないでしょう、うん。
この話、ネタを思いついたはいいものの、歩美の宝石箱の中身がなかなか決まらず苦労しました。小学生の持ち物で、無いと困る物で、なおかつ他の生徒に貸してもらえる(もしくは貰える)物というと消しゴムしか思いつかなかったのです。でもそれだと「CCさくら」と被るし……数日棚上げしておいたらいい物が見つかりました@笑