庇う 〜中学3年生7月〜



阿笠邸の玄関を開けた瞬間、コナンの目に見覚えのある靴が飛び込んで来た。昼休みの様子で予測はついていたものの、相変わらず歩美の頼み事に弱い哀に思わず苦笑する。
リビングのドアをそっと開けると、二人は真剣な表情でパソコンの画面に映るビデオムービーを見つめていた。
「……ホラ、ここ。テイクバックが大きすぎる」
「う〜、ボールの落下地点を予測しようとするとフォームが崩れちゃうんだよなあ……」
頭では分かっていても行動が伴わないのだろう。歩美が口惜しそうに顔をしかめる。
「大会までまだ二週間あるんだし。焦らずにフォームを身体に染み込ませる事から始めましょ」
「うん……」
コクンと頷く歩美に哀は穏やかに微笑むと、「ちょっと一息いれましょうか?」と立ち上がった。ヤベッとドアを閉めようとした瞬間、コナンと哀の視線がぶつかる。
「……黙って様子を見てるなんてあなたも悪趣味ね」
「バーロー、おめえらが深刻そうに話してるから声掛けなかっただけだろ?」
「そう……」
哀は興味ない様子でさっさとキッチンへ向かってしまった。
「あ、おかえり、コナン君」
二人の話声に歩美がコナンの存在に気付き、笑顔を見せる。
「やけに気合い入ってるじゃねーか」
「うん、都大会に出るからにはライジングショットをきちんとマスターしたいからね」
「都大会!?」
コナンが驚くのも無理はない。歩美はどちらかと言うと今まで試合などに積極的に出たがる方ではなかったし、何かと理由をつけては部活をさぼる事も始終だったからだ。
「そんな意外な顔しなくてもいいでしょ?せっかくブロック大会で出場権獲得したんだもん。中学校生活もあと半年でおしまいだし、一度くらい出るのも記念になるかな、って思っただけなんだから……」
「そういえば……ブロック大会で3位に入賞したとか言ってたな」
「サッカーの全国大会に三年連続で出場してるコナン君から見れば大層な成績でもないだろうけど」
「そんな事ねえよ」
コナンは苦笑すると哀がいるキッチンへ向かった。哀はアイスティーを淹れる準備をしている。こだわり派の彼女らしく、茶葉はスリランカ産キャンディー、ティーポットは二つ用意され、そのうちの一方には氷が溢れんばかりに詰められていた。グラスが三つ用意されている事から、どうやらコナンの分も用意してくれるつもりらしい。
「……せっかくやる気になっている人に水を差すような事を言うのはどうかと思うけど?」
コナンが来た事を気配で感じたのか哀が口を開く。
「そりゃ、おめえがテニス部のマネージャーだっていうなら何も言わねえけどよ……一応、サッカー部のマネージャーなんだからさ」
「あら、二年生の子がきちんとやってくれてるでしょ?」
「ま、まあ……」
「ちょうどいい機会だと思ったの。私も夏の大会が終わったら引退だし、その前に一通り覚えてもらえるじゃない?」
「そ、そりゃまあ……」
さすがに「オレのモチベーションの問題だ」と言うのは口惜しい気がしてコナンは言葉を飲み込んだ。そんなコナンの胸中を見透かすように哀がクスッと笑う。
「な、何だよ?」
「別に」
三つのグラスのうち一つをコナンに手渡すと、哀はリビングへ戻って行ってしまった。



大会当日はあいにくの曇り空だった。
「何か今にも雨が降り出しそうだな」
空を仰ぐ元太に「試合終了までもってくれるといいんだけど……」と哀は呟いた。
「灰原さん、ちゃんと折りたたみの傘は用意してありますから……」
「……そういう意味じゃねえよ」
光彦の言葉にコナンが苦笑する。
「雨に濡れるとコートが滑るんだよ。ここのコート、排水性はいいって噂だけど限界はあるだろ?」
「どしゃ降りになれば試合中止でしょうけど、この勢力の低気圧じゃ……ね」
モバイルパソコンの画面に映る衛星写真に哀が肩をすくめた時だった。「哀!」という元気な声に顔を上げると歩美が走って来る。
「コナン君……元太君、光彦君も……!みんな応援に来てくれたんだ!」
「当たり前だろ!」
「ボク達、探偵団仲間じゃないですか」
「歩美、一回戦の相手分かった?」
「うん、江古田中の天野さんって子」
歩美が答えるとほぼ同時に哀のパソコンにデータが現れる。
「天野清香、江古田中女子テニス部二年生……身長160センチ、体重52キロ……いわゆるハードヒッターみたいね」
「は、灰原さん、このデータ、全部自分で……?」
「さすがにそこまでの時間はなくてね……テニス部のマネージャーから借りたデータに多少手を加えただけのものなの。だからすべての選手は網羅してないんだけど……」
「これだけでも大したもんだと思うぜ?さすが帝丹中学サッカー部敏腕マネージャーだな」
元太が感心したように呟く。
「……初戦の相手としてはまずまずなんじゃない?あなたのスピードがあれば勝てるわ。頑張って」
「うん!」
歩美はガッツポーズを作ってみせると、観客席から風のように走り去った。



哀の予想を裏付けるように、一回戦、歩美は6−4、6−3のストレート勝ちを収めた。二回戦、三回戦も順調に勝ち進み、その様子に元太と光彦は興奮を隠せない様子だ。
「歩美ちゃん、次勝てばベスト4ですよ!」
「この勢いで優勝だぜ!」
「う、うん……」
威勢のいい幼馴染とは対称的に哀と歩美の表情は険しい。
「……どうやら次の対戦が山になりそうね」
対戦表を見た哀が呟く。対戦相手の畑中美幸は派手な戦績こそないものの、ライジングショットの名手と噂される人物だった。
「でも、ここで負ける訳にはいかないから……!」
自分に活を入れるように呟くと、歩美はチームメイトの元へ戻って行った。
「歩美のヤツ、妙に気合い入ってるな」
「そうですね、都大会ベスト8でも充分凄いと思うんですけど……」
「灰原、お前、歩美から何か聞いてるんじゃねえか?」
元太の問いに素っ気無く「別に……」と答えると、哀はモバイルの電源を切った。



準々決勝。予想通り歩美は苦戦を強いられ、第一セットを6−4で落としてしまった。何とか第二セットを6−5で取り返し、勝負を第三セットに持ち込んだものの、一つ取ると一つ取られるという緊迫した試合展開が続く。
第三セットのスコアが4−4と並んだ時だった。ふいに頬に一滴の水が落ちて来たかと思うと、パラパラと音を立てて雨が降り出した。
「あ〜、とうとう降ってきちゃいましたねえ」
「のんびり構えてる場合じゃないだろ!」
元太が焦るのも無理はない。あっという間に雨足は激しさを増し、試合は中断される事になった。
「……今回ばかりは恵みの雨ね」
ポツリと呟く哀にコナンが「そうだな」と肩をすくめる。その言葉に促されるように哀が立ち上がった。
「……止めても無駄だと思うぜ?」
「そんな事、あなたに言われなくても分かってるわよ」
クスッと笑うとコナンに荷物を預け、観客席を後にする。
「あの〜……」
哀の姿が消えると光彦が遠慮がちに口を開いた。
「いつも思うんですけど……コナン君と灰原さんの会話、よく成立しますね」
「あん?」
「ボクには今のお二人の話が全然見えなかったんですけど……」
「オレ達にも分かるように話せよな!」
不満そうに口を尖らせる元太にコナンは「悪ぃ悪ぃ」と苦笑した。
「視線の先が一緒っつうか……思考回路が似てるんだろうな。話がどんどん短くなっちまって……」
「……なんかいいですね、そういうのって」
「中三で熟年夫婦かよ、早すぎるんじゃねーか?」
「……うっせーな」
「で……さっきの話なんですけど、良かったらどういう事か教えてもらえませんか?」
「ああ、パッと見には分からねえだろうけど……」
コナンは選手がすっかりいなくなったテニスコートに視線を投げた。



「歩美……?」
選手控え室のドアを開けると、歩美は目を閉じて椅子に腰掛けていた。
「哀……どうしたの?」
「誤魔化さないで。左の膝、限界なんでしょう?」
哀の鋭い口調に歩美はぺロッと舌を出すと「……やっぱ哀にはバレたか」と肩をすくめる。
「畑中さん相手に第三セット4−4のタイまで持ち込んだんだもの。もう充分でしょ?」
「うん、自分でもそう思う」
「だったら……」
「ヤだ。棄権はしないよ。だって…だって……」
「『都大会でベスト3に入れば帝丹高校の推薦を受けられるから』……違う?」
「……気付いてたんだ」
「あれだけ部活をさぼってたあなたが急に練習熱心になれば嫌でも分かるわよ」
哀は床に跪くと歩美の足を丁寧に診察していった。
「思っていたより酷いわね……」
「……」
「テーピングするわ。ちょっと痛いかもしれないけど我慢出来る?」
「……え?」
「無意識に左足を庇ってるけど、それじゃ絶対勝てないわ。どうせ相手はあなたの故障に気付いてる。だったら思いっ切りいくしかないでしょ?」
「哀…!」
歩美の嬉しそうな顔に哀は思わず苦笑した。



「も〜元太君、私、自分で歩けるから降ろしてよ〜」
「遠慮すんなよ、オレにとってもトレーニングになるしよ!」
「トレーニングって……私、重りじゃないんだから!それに……恥ずかしいよ……」
「歩美ちゃん、気持ちは分かりますけど、灰原さんも無理しない方がいいって言ってますし」
「そうそう、限界まで酷使したんだから大人しくしてなくちゃダメよ」
止めを刺すような哀の台詞に歩美が仕方なく口を噤む。
「それにしても惜しかったわね」
「うん。口惜しいけど……悔いはないよ。だって最後まで戦ったもん」
結局、善戦虚しく歩美は第三セット7−5で敗れてしまったのである。
「でも……哀にまた迷惑かける事になっちゃった」
「え…?」
「今度は受験勉強に付き合ってもらわなくちゃいけないから。今の私の成績じゃ帝丹の合格ラインギリギリだもん」
「それはいいけど……容赦しないわよ?」
「うん!」
歩美の笑顔に「なあ、灰原、オレの勉強にも付き合ってくれよ」と元太が口を挟んで来た。
「灰原さん、ボクの国語も面倒見てくれませんか?」
「円谷君、私も国語はそんなに得意じゃ……」
「……おい、おめえらいい加減にしろよ」
哀の言葉を遮るようにそれまで黙っていたコナンが口を開く。
「灰原は夏の大会が終わるまではサッカー部のマネージャーなんだからな」
「コナン、お前、灰原を独り占めする気かよ!?」
「いくら付き合ってるからってちょっと横暴じゃありませんか!?」
「横暴って……あのなあ……」
元太と光彦の鋭い指摘にたじろぐコナンを哀は面白そうに見つめていたが、ふいに「あら…?」と首を傾げた。
「どうした?」
「歩美ったら痛みも忘れて寝ちゃったわ。よっぽどボールに集中してたのね」
「……みたいだな」
「小嶋君、なるべくゆっくり歩いてくれる?」
「おう」
西の地平線に沈む夕陽が疲れ切った歩美の顔を赤く染める。その幸せそうな寝顔に哀は思わず微笑んだ。



「え……?」
翌日の昼休み。「今日から早速始めるから」という哀の言葉に歩美は一瞬絶句した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。確かに『受験勉強付き合って』って言ったけど……サッカー部の夏の大会が終わってからでいいよ」
「容赦しないって言ったでしょ?」
「……はい」
「じゃ、放課後、サッカー部の部室へ来てね」
「へ……?博士の家じゃないの?」
目を点にする歩美に哀は「『女の友情ばっかり優先するな』って誰かさんが駄々をこねるから」と肩をすくめた。
「へえ、コナン君、そんなかわいい事言うんだv」
「まさか。あの彼がそんな事言うはずないでしょ?」
「え?じゃ、どうして……」
「今朝の会話で何となく、ね」
同時刻。屋上にいたコナンがクシャミをしたのは言うまでもあるまい。



あとがき



他サイト様のテキストではサッカー部のマネージャーという設定が圧倒的に多い歩美ですが、個人的には彼女自身が運動部で活躍している気がします。「呪文〜」設定に引きずられ短編もテニス部設定です。バスケ、いまいちルール詳しくないし@爆 最近、浦沢直樹先生の「Happy!」を読み返したせいかこんな話が出来上がりました。「庇う」というお題に対してはちょっと変化球かも。