ポルシェ356Aの黒い車体が横付けされたのは、銀座の繁華街から少し離れた場所に位置する知る人ぞ知るといった感じのこじんまりとしたバーの前だった。車から降りて来たのは男二人、一人は鋭い眼光と腰まである銀の長髪、もう一人はサングラスに屈強な身体が特徴的だ。しかし何よりの特徴は二人とも頭の先から足の爪先まで真っ黒な衣装を身にまとっている点だろうか。
サングラスの男がドアを開け、長髪の男が先に立って店の奥へと歩いて行く。その二人を店の奥で眼鏡をかけた細身の男がオドオドした様子で出迎えた。
「遅かったじゃないか。約束は10時のはずだっただろう?」
「悪ぃがこっちにも色々事情ってもんがあってな」
言葉とは裏腹に長髪の男は少しも悪びれた様子などなく、メニューも見ずに酒をオーダーする。
「そんな事より……例の物は出来たんだろうな?」
「あ、ああ……」
眼鏡の男が懐から一枚のCD−Rを取り出すと銀髪の男はニヤリと笑みを浮かべた。
「約束の金は……」
「そう慌てなくてもいいだろう。こっちはまだ酒の一滴も飲んでないんだぜ?」
銀髪の男の有無を言わさない口調に眼鏡の男が黙り込むと、まるでタイミングを見計らったかのようにオーダーした酒が運ばれて来た。余裕たっぷりの様子でグラスに口を付ける銀髪の男にしびれを切らしそうになったその時、ふいに背後からサングラスの男に小切手を差し出される。
「ほらよ。これであんたが大学に内緒で作った借金もチャラになるんじゃねーか?」
眼鏡の男は真剣な表情で小切手に刻まれた金額を何度も慎重に数えると、「あ、ああ……」と頷いた。
「取引終了だな。それでは私は先に失礼する」



「……兄貴、いいんですかい?」
そそくさと店を出て行く取引相手の様子にウォッカは思わずジンの方に振り返った。
「あの男、借金返したら組織の事を誰かに漏らすんじゃ……」
「なぁに、心配ねえさ。アイツが掴んだのは所詮蜘蛛の糸……あの約束手形を振り出した会社は組織が数日前から潰しにかかっているからな」
「なるほど、不渡ってヤツですかい?」
「ああ、明日あたりそろそろやばいんじゃないか?」
クックッと喉を震わせると「蜘蛛の糸と言えば……もう一人そんな物を掴んでいる奴がいたな」と、思い出したように煙草の煙を燻らせた。
「もう一人…ですかい?」
「組織を裏切った莫迦な女がいただろう。どこの物好きを抱き込んだか知らねえが、アイツが掴んでいるのも所詮蜘蛛の糸……」
ジンは不敵な笑みを浮かべると、「シェリー……」と面白そうに呟いた。





蜘蛛の糸 〜小学1年生2月〜





小学校と高校の大きな違いの一つに校内清掃の時間帯を挙げる人間も多いだろう。高校が放課後なのに対して小学校では昼の給食を採った後行われるのが通例である。身体の動きが今一つ鈍いのはこういうささいな習慣の違いも影響しているのだろうか?
教室の後方に固めてあった机と椅子を前方に運びながら、江戸川コナンは大欠伸を繰り返していた。
(……ったく、こっちは呑気に掃除なんかしてる場合じゃねえってのによぉ……)
小さな身体になって組織を追う日々が続き早何ヶ月になるだろう?阿笠の意見で小学校に通う事にしたものの、久し振りに味わう小学生ライフはコナンにとって退屈以外の何物でもなかった。いい加減、適当な理由をつけて学校を休学し、すべての時間を組織追跡に費やしたいのはやまやまだが、元組織の研究員で自分と同じく身体が縮んでしまい、小学生として生活している灰原哀、そしてそれ以上に自分を強引に仲間へと引きずり込んだ三人組が許すはずがない。
(一体いつになったら元の身体に戻れるのかねえ……)
そんな思いに解毒剤開発に取り組んでいるはずの哀の姿を探すコナンだったが、赤みがかった茶髪が目印のその姿が見当たらない。そういえば日直だったと思い出し、溜息とともに廊下へと視線を投げたその時、クラスメイトと仮面ヤイバーごっこに興じる小嶋元太の姿が映った。そのすぐ傍に吉田歩美と円谷光彦の姿も見えるが、どうやらいつものように仲良く遊んでいる訳ではなさそうである。
「元太君、さぼってないでさっさと箒掃いてよ。これじゃ歩美達、いつまで経ってもモップ掛けも雑巾掛けも出来ないじゃない」
「いいじゃねーか。どうせ小林先生、今日は出張でいないんだからよぉ〜」
「そういう問題じゃないと思いますけど……」
二人の抗議の声など丸無視で再び正義の味方になりきる元太に「だったら……残りの掃除は全部小嶋君達にお願いして私達はどこかで時間を潰しましょうか?」というクールな声が聞こえて来た。職員室へ日誌を置きに行っていた哀が戻って来たのを見て歩美と光彦の顔がパッと輝く。
「いい考えですね」
「歩美、ウサギ小屋に行って来るね。今朝、ちょっと元気ない子がいたって聞いたから心配だったんだ」
うんうんと頷き合い、さっさと立ち去る友人達の姿に一人だけ取り残されるような気分になったのだろう。元太は慌てたように「ちょ、ちょっと待ってくれよ!そんな薄情な事言うなよな」と、慌てて箒を動かし出した。
「……相変わらず変化球だねえ」
「ああいうガキ大将は正面から言っても素直に聞かないのがお決まりでしょ?」
三人の姿を遠巻きに眺めながら哀はコナンの傍へやって来ると、「それにしても……名探偵さんは授業は全然聞いてないのに掃除は真面目にやるのね」と、さも不思議なものを見るように目をしばたかせた。
「バーロー、オレだって好きでやってんじゃねーよ。クラスの問題児扱いされて目立つ訳にいかねえからやってんじゃねーか」
「小林先生の前であそこまで推理しちゃったあなたが言う台詞じゃないと思うけど?」
「あの先生は問題ねーだろ。『少年探偵団顧問』だなんてぬかしてるくらいだからな」
ハハと乾いた笑いを浮かべたコナンの目に教室の窓際に張られた蜘蛛の巣が映る。
「灰原、動くなよ」
「え…?」
モップの向きを変え、柄の部分を使って取り除くとどうやら巣の主は留守のようだった。
「……さすがに小学生の掃除じゃ毎日やってても隅々まで綺麗にするのは難しいわね」
「……」
「……何?」
「おめえさ、一応女なんだろ?こういうの気持ち悪いとか思わねえ訳?」
「組織じゃ10歳になる前から解剖に立ち会ってたのよ?思う筈ないじゃない」
しれっとした顔で答える哀にコナンが顔をしかめると、ふいに「そういえば……『蜘蛛の糸』なんて小説あったわね」と、思い出したように呟いた。
「ああ。この前道徳の授業でやってたな」
「釈迦が地獄の底にいるある罪人を極楽へ案内するため一本の蜘蛛の糸を下ろしたけど、その罪人は他の罪人達が登って来るのを見てこの糸は自分の物だと主張した……」
「結果、その無慈悲な心が釈迦には浅ましく思えたのか糸は切れてしまった、ってヤツだろ?それがどうかしたのか?」
「ポール・ケーラスの『カルマ』が典拠だって話だけど……芥川龍之介も小説家ならもうちょっと色々調べてから書いて欲しいものよね。だってあの話、どう考えてもおかしいじゃない」
「おかしいって…?」
「蜘蛛の糸の組成はタンパク質分子の連鎖で、強度は同じ太さの鋼鉄の5倍、伸縮率はナイロンの2倍もあるのよ?鉛筆程度の太さの糸で作られた巣を用れば理論上は飛行機を受け止める事も可能だわ。こんな事、ウィキペディアにだって載ってる事よ」
「……………」
あまりと言えばあまりに哀らしい発言に一瞬言葉を失ったコナンだったが、「……ま、その調子なら大丈夫だな」と肩をすくめた。
「え…?」
「おめーの事だからさ、てっきり『今の生活はこの偽りの姿だから何とか保たれているけれど、元の身体に戻ったら壊れてしまう蜘蛛の糸のようなもの……』なーんてぬかすと思ってよ」
コナンの台詞に心外だと言いたげに彼を睨んだ哀だったが、ふいに意味ありげな笑みを浮かべた。
「知ってる?蜘蛛の糸ってしつこいのよ。誰かさんみたいにね」



あとがき



芥川龍之介も『蜘蛛の糸』という小説も侮辱するつもりは全くないのですが@滝汗、いかにも灰原的発言を思い付いてしまったものは仕方ない!と思って書いてしまいました@爆 ロマンチストなジンに対する現実的な哀ちゃんの答えと言い換えた方がいいかもしれません。ラストの台詞はちょっと侑子さんみたいですね^^;)
組織の影に怯えつつも段々強くなっていく、そんな彼女にこれからもエールを送りたいと思います。
(ちなみに蜘蛛の糸に関しては実際にウィキに記載されている文章を無許可で転載させて頂きました@爆)