明かり先



〜月明かり〜


 太陽が西の山影に沈み、すっかり暗闇となった山中を冷たい風が吹き抜け木立を揺らす。
 リュックサックにもたれかかるように横になった志保はぼんやりと小さな窓に浮かぶ満月を眺めていた。ポケットからスマフォを取り出し時刻を確認すると午後九時を少し回ったところ。通常なら夕食を楽しむキャンプ客の喧騒がまだまだ絶えない時間帯である。実際、冬名山の中腹にあるこのキャンプ場も昼間は休日を待っていたかのように咲き誇る山桜を楽しむキャンプ客で賑やかだった。それが今は人の気配すら感じられない。もっとも人が殺された上に放火騒ぎまであったキャンプ場で夜を明かしたいと思う物好きなどいないだろう。
 上体を起こし、窓から外を覗くとランタンの灯り一つ見えない漆黒に思わず身体が震えた。傍らにあった腕時計型ライトで入り口を照らしてみるものの、電池の切れかけた弱々しい光ではとても外まで届きそうもない。何気なく時計を握った右手に視線を投げると薬指の大きな指輪が鈍い光を放った。


 いつものように阿笠博士に連れられやって来たキャンプ場。薪拾いをしていた哀と探偵団が遺体を埋めようとしていた殺人犯に遭遇したのは全くの偶然だった。子供達を先導しながら懸命に逃げ、森の奥にある小屋に辿り着いたものの運悪くそこはまさに殺害現場だった。追いかけて来た犯人の侵入を阻みはしたものの、待ち伏せされているに違いない小屋の外に安易に飛び出す訳にもいかず、身動き取れない状況が続いていた。助けを求めようとポケットの中に入れたスマフォを何度も確認したが『圏外』を示すマークが虚しく表示されるばかり。ここに逃げ込んでから既に二時間以上が経過し、閉塞感が子供達の間に不安の影を落とし始めていた。
 「な、なあ、ちょっとくらいなら外見ても……」
 「ダメよ」
 薄暗い小屋の中、息苦しい空気に耐えかねたように扉に近寄ろうとする元太に哀の声が響く。しぶしぶといった様子で従う元太に哀は小さく息を吐いた。自分でも分かるほど熱を帯びている吐息に眉を顰める。先ほどから身体がやけに重い。そういえばこのキャンプ場への道中、隣に座っていた眼鏡の少年は派手なクシャミを繰り返していた。体調の急激な悪化はおそらく彼にうつされた風邪による発熱のせいだろう。
 (本当……よく風邪をひく探偵さんよね)
 溜息とともに状況を分析する一方、哀は人気のない山奥の小屋に逃げ込んだ自分の判断ミスを悔いていた。本調子であれば自分が囮となって子供達を逃がすという方法も取れただろうが、今や立っているのがやっとという状態では走る事すら覚束ないだろう。何とか打開策を模索しようとしても頭の奥で響く鈍痛に考えがまとまらない。
 (しっかりしなさい…!)
 緊張に強張った顔で寄り添っている子供達に自らの不甲斐なさを自嘲する。クラリと揺れる視界に小さく頭を振り、鋭い視線で前方の扉を見据えた。この子達だけは何としても守らなくては――
 が、そんな哀の決意も空しく、気付いた時には既に山小屋は卑劣にも犯人が放った火によって炎に包まれていた。


 「み、みんなしっかり!!」
 周囲から上がり始めた煙は瞬く間に小屋の中まで充ち始めた。炎の勢いに比例するようにどんどん室温が上昇していく。額から流れる汗に焦りを感じながらも哀は煙を吸い込まないよう床にうずくまらせた三人を励まし続けた。今頃自分達を必死に探しているだろうコナンがこの煙を見付けてくれる事に望みをかけるが、刻一刻と濃くなる煙や咳込む子供達の姿にそんな時間の余裕などないと悟らされる。
 (どうしたらいいの……?)
 祈るように小屋の中に視線を彷徨わせたその時、哀の目に置き去りにされたと思われる二つのリュックサックが映った。ポケットに入れたままの解毒剤の存在に思い至りハッと頭を上げる。
 (元の身体に戻ればこの子達を助けられるかもしれない……)
 同時に工藤邸に住む『沖矢昴』と名乗る男の顔が頭を過った。組織の気配を漂わせる怪しい男が身辺を嗅ぎ回っている今、安易に解毒剤の服用には踏み切れない。逡巡する哀に光彦の泣きそうな叫び声が聞こえた。
 「む、向こうの方でも煙が上がってますよ……」
 犯人が用心のために複数箇所に放火したのかそれとも他の理由か……もはやこの小屋の特定に煙は役に立たないだろう。
 (こうなったら……もう……)
 哀はゆらりと立ち上がるとリュックサックが置かれた小屋の奥へと向かった。
 (あの斧で扉を破ってあの子達を脱出させて……それから……)
 子供達を逃がした後、そのままこの小屋に戻れば跡に残るのは若い女の死体のみ。遠からず組織は焼死体の情報を手に入れ、それが組織を裏切ったシェリーの物だと気付くはずだ。そうなれば今、哀の身辺を調べている者達も自分達の調査が無意味だったと結論付けるだろう。
 (子供達にとって『宮野志保』は初対面の女にすぎないから組織に怪しまれる事もないだろうし……フフ、最初からこうすれば良かったわ)
 なぜこんないい方法を今まで気付かなかったのかと思うと可笑しさすら込み上げて来る。
 リュックサックの中から元の身体のサイズに合う服を見付けて拝借すると哀は小屋の奥へ向かった。大人サイズの服に着替え、身に着けていた子供服を炎の中へ投げ入れる。握りしめていた解毒剤のカプセルをしばし見つめた後、口に含んで一気に飲み込む。
 ドクン!
 何度経験しても慣れない痛みが全身を駆け巡った。
 「ウウッ!!」
 急激な成長に悲鳴をあげる身体に漏れる呻きを必死に耐える。
 (あの子達を頼んだわよ……工藤君……)
 ギュッと閉じた目の奥に眼鏡の少年の姿が浮かんだ。
 『灰原』
 朦朧とする意識の中、自分を呼ぶ時の少し低めの声と信頼を込めた眼差しが好きだったと告げられなかった事が今更ながら気になった。


 心臓を破るような息苦しさから解放されて目を開くとそこには見慣れたはずのスラリとした自分の手足があった。先ほどより室内は更に煙で充満している。
 志保は傍らにあった斧を手に取り扉へと走った。急に現れた人影に怯える子供達に構わず振り上げた斧を扉に叩き付ける。木を砕く鈍い音が小屋に何度か響いた後、根負けしたように大きな音を立てて扉が開いた。新鮮な空気が一気に小屋の中に入り一息つくも同時に新たな空気を得た炎はますます勢いを増した。志保は斧を投げ捨て歩美を抱き上げると驚きのあまり固まってしまっている元太と光彦を促し小屋の外へと走った。
 「あなた達、知り合いが来るまで息を殺して隠れているのよ!!」
 抱きかかえていた歩美を地面へ降ろし、小屋へと踵を返そうとする志保の右手を小さな手が必死に掴んだ。
 「あ、哀ちゃんは……?」
 泣きそうな顔ですがりつく歩美の手と自分の手に重なるように嵌る二つのベルツリー号パスリングが目に映る。
 『哀ちゃん、列車に乗る時も一緒に写真撮ろうね!』
 朝、博士の家の前で記念写真を撮っていた時、本当に嬉しそうに指輪を嵌めた手を繋ぎながらそう言った歩美に心から頷いた自分。
 『約束だよ!』
 と笑顔で指切りをして……
 「あの子なら先に助けてあっちの林の中へ逃がしたわ。だから心配しないで」
 無意識にそんな言葉を呟く自分に志保は思わず苦笑した。こうなってはもはや炎に包まれた小屋へ戻る訳にはいかない。ホッとしたような歩美の頭を優しく撫でると志保は林の中へ駆け出した。


 「また終わらせる事ができなかったわね……」
 どれくらい林の中を走っただろう。一本の大木の下に辿り着くと志保はズルズルとその根元に座り込んだ。『灰原哀』は所詮偽りの姿でしかないというのにそれでもその存在を必要としてくれる言葉に思わず返してしまった『心配しないで』という一言。命など組織から逃亡した時から、いや姉の死を知った時から惜しくないと思っていたのに。事実これまで何度も躊躇なく放り出す事があったのに。しかしその度に自分を守り、生へと引き戻す存在の大きさに志保は震える手で顔を覆った。
 解毒剤で元の身体に戻った今、尚更自分の存在が周囲を危険に晒している事を否が応でも意識せざるを得ない。それなのに優しい人達に囲まれ、いつしか平和に慣れて危険を忘れそうになっていた。偽りの自分を受け入れてくれた人達をどんな事があっても絶対に守ると決めたはずなのに。
 「なのに……また危険を呼び込んでしまった……」
 自嘲の笑みを浮かべ、そっと右手の薬指に嵌ったリングを撫でていると遠くから「灰原〜」と自分を呼ぶ声が聞こえた。歩美達の証言から自分が解毒剤を服用した事に気付いたコナンが探し回っているのだろう。自殺しようとしたなどと知ったらまた烈火のごとく怒るに違いない。
 (工藤君にこんな顔を見られる訳にはいかないわね……)
 志保は両手で頬を軽く叩くといつもの強気な表情を作った。


 初夏とはいえ山の夜は冷える。日が暮れて急激に気温が低下したのか、冷気は容赦なくテント内の温度を下げているようだ。志保は小さく身震いするとすっかり冷え切ってしまった足を擦り合わせた。解毒剤服用後、とっさに被害者の服を拝借したまでは良かったが、さすがに靴だけはどうにもならなかった。素足のままでいる事が今更ながらに堪え、再び身体を横たえると足を抱き込むように丸くなる。テントの窓から零れ落ちる満月の光に目をやると先ほどからほとんど動いていなかった。
 「一人の夜がこんなに長いなんて……」
 以前この身体で過ごしていた頃は慣れ切っていたはずなのに……
 零れた吐息の熱さに頭がクラクラする。
 (また熱が上がって来たみたいね……)
 ぼんやりとそんな事を考えながら志保は浅い眠りへと落ちていった。