〜夜明かり〜


  真っ暗な林道を腕時計型ライトの僅かな光を頼りにターボエンジン付きスケートボードが登って行く。木立の隙間から覗く星空を見上げると旅館に着いた時にはまだ東の空から覗き始めたばかりだった獅子座が既に中天へ差し掛かろうとしていた。
 (随分遅くなっちまった……)
 昼間の喧騒とは打って変わった静寂に包まれているだろう山中のキャンプ場に彼女を一人きりにしてしまった事に苦い思いが込み上げる。
 哀が闇を恐れている事に気付いたのはもう随分前だ。今日のように博士に連れられて来たキャンプの夜、ふと目が覚めると隣に寝ているはずの彼女の姿がない。驚いてテントの外へ出るとランタンの小さな灯りを抱き込むように座る小さな背中を見付けた。
 「眠れないのか?」
 「……こんな早い時間に眠れないわ」
 可愛くない台詞が返って来るもののスウェットの腕を掴む震える手が彼女の心中を雄弁に物語っていた。


 (腹も減ってるだろうなぁ……)
 結局、あの事件で昼はおろか夕食も食べそびれてしまった。旅館の人に頼んで余分に作ってもらった弁当やお茶が入ったバッグを揺らさないよう慎重に持ち直す。「元の姿に戻るまで隠れてろ」とは言ったものの、テントこそキャンプ場に張ったままだが荷物はほとんど持って来てしまった。今、哀の手元にあるのは彼女が持っていた小さなリュックサック一つのはず。本来なら暗くなる前に旅館を抜け出し、必要な物をテントまで運ぶつもりだったのに……と事情聴取の間、要領を得ない質問を繰り返し、無駄に時間を消費させた群馬県警のヘッポコ警部を思い出し小さく舌打ちする。
 とはいえこちらも一人抜けた哀と子供達を助けた謎の女性について追及される訳にはいかないという弱みがあったのも事実だった。まして正体が分からないあの世良という女に彼女の存在を知られてはならない。そう、かつて組織で『シェリー』と呼ばれた宮野志保という女の存在を。
 「宮野志保……か」
 ふと見上げた満点の星空に昼間見た女性の姿が浮かぶ。彼女の姿を見たのは二度目だが前回は黒縁眼鏡をかけ、ブカブカの作業員のツナギを着た姿を扉の陰から覗いただけにすぎず、正面から『宮野志保』に戻った彼女と向き合ったのは初めてだった。スラリとした肢体や均整のとれたプロポーションは見慣れた『灰原哀』とは違ったものの、意志を燈した瞳はよく知る少女と同じでその事実にどこかホッとした。
 (大人の女性……だったな)
 子供の視線で見上げたからという訳ではないだろう。その端正な顔立ちだけではなく憂いを帯びた瞳や落ち着いた存在感はよく知っている同級生や幼馴染達よりずっと大人のものだった。けれどそれは彼女が自分達よりずっと早く大人にならなければいけなかったという事で。組織の中でたった一人の姉を思いながらあの細く儚げな身体で彼女はどれほどの重圧に耐えて来たのだろうか……?


 探偵団の話から哀が解毒剤を服用したに違いないと確信した時、組織との接触を極端に恐れる彼女がそのまま死を選ぶのではないかと思うと気が気ではなかった。
 「その女、どっちへ行った?」
 と探偵団に尋ねた声は我ながら少々震えていたと思う。光彦が指し示した方向に居ても立ってもいられず走り出した自分の背中を世良が不審そうに見ていた事に気付いてはいたものの、それに構っている余裕はなかった。他人には聞こえないように小さな声で名前を呼びながら闇雲に林の中を探し回る。あまりに必死で全く意識していなかった足元をあっさりすくわれ、転倒した頭上にいつもよりほんの少し低い大人の女性の、しかしよく知る声が聞こえコナンは心底安堵した。
 「誰かさんが助けに来てくれると信じて待ってたのに……」
 皮肉な視線でいつもの調子を装ってはいるもののどこか無理をしている口調だった。だが敢えてそれには気付かないふりをする。互いに一番近い距離にいるはずなのに最も言いたい言葉が言い出せないもどかしさに苛立ちが沸いた。彼女への絶対的信頼と運命共同体という決意を込めた『相棒』という単語が今のコナンには酷く虚しく思えてしまう。目の前の彼女が纏った緋色のパーカーが図らずもベルモットと居合わせたバスジャック事件の際、自分や探偵団との接点を消そうと躊躇う事なくカウントダウンを続ける爆弾の只中に身を置いた哀の真っ赤なパーカー姿と重なりコナンは眉を顰めた。誰かを守るためなら自分の命など簡単に投げ出そうとする姿を何度も見て来ただけに相応の覚悟で解毒剤を服用したであろう彼女がこのまま自分の前から姿を消してしまうのではないかと考えると恐怖すら感じてしまう。
 内心の不安を悟られないようそっと様子を伺うと
 「子供達には私が『灰原哀』だって事は……気付かれてないでしょうね」
 ベルツリー号パスリングを見つめる瞳は穏やかながら微かに自嘲を含んでいた。その様子に彼女がやはり死を選ぼうとしていた事を悟る。それを止めた理由は一つしかない。
 (アイツらの存在か……)
 このキャンプ場へ来る途中、車の中で子供達と写真を撮ったと楽しそうに話していた哀の姿を思い出す。解毒剤の服用という決断をしてまで守った子供達は彼女にとって生を選択させる大切な仲間になっているのだろう。どうやら彼女がここから立ち去る事はなさそうだと安心するものの、一方で彼女に留まる事を選ばせた理由が自分ではない事が不満だった。
 「とりあえず薬が切れるまでテントの中にでも隠れてなよ」
 内心のモヤモヤを誤魔化すように慌てて会話を続ける。
 「事情聴取が終わったら様子を見に来てやっからさ」
 「結構よ。こんな格好じゃあちこちうろつく事なんてできないし……テントの中なら凍死するような事もないだろうしね」
 「バーロー、こんな山中に若い女一人置いとく訳にいかねーだろうが」
 「あら、今のあなたより私の方が遥かに安全だと思うけど?」
 一度博士達の所へ戻ると告げた自分に返って来たのはいつも通りの可愛くない言葉。
 たとえ姿が変わっても『相棒』として互いの関係は変わらない――確認できたその事実にコナンは口元にうっすらと笑みを浮かべた。


 道の先に薄暗い電気に照らされたキャンプ場の看板が見えて来た。さすがの組織もこんな山奥まで探しに来ているとは思えなかったが、一人暗闇に残った彼女の無事を一刻も早く確認したかった。『バーボン』と名乗る組織の一員かもしれない怪しい人間が米花町界隈をうろついている今、くれぐれも油断は禁物だ。そんな状況下で元の身体に戻るという危険を選択させてしまった自分の不甲斐なさにコナンは激しい怒りを覚えた。
 『ヤバくなったらオレが何とかしてやっからさ』
 そう哀に約束したはずなのに。
 「今度こそ絶対に守ってみせる……!」
 彼女の命を守るためならどんな事でもする――そう改めて決意するとコナンはスケボーを更に加速させキャンプ場へ向かった。