〜時明かり〜


 あれからどれくらい時間が経過したのだろう……?
 テントの外から聞こえる物音に志保は目を覚ました。夜の帳とともに益々気温は下がったらしく、震える身体を両腕で抱き込むと外の気配に耳を澄ませる。足音とともにだんだん近付いて来る気配に緊張感が高まり、我知らずゴクリと息を飲み込んでいた。
 「灰原、いるか?」
 テント入口に向けたライトに映る人影と聞こえて来た馴染みの声に一瞬で全身の緊張が緩む。次の瞬間、外から無遠慮にテントのファスナーが開けられると眼鏡の少年がひょっこり顔を見せた。
 「工藤君……」
 「よ、どうやら無事みてえだな」
 「……何しに来たのよ?」
 人の気も知らないで……全く悪びれた様子もなくズカズカ中へ入って来るコナンに志保はジトッとした視線を向けた。
 「随分ご機嫌斜めだな。腹減ってんだろ?」
 「それは……」
 「んじゃ早く食えよ。晩飯持って来たからさ」
 苦笑いとともに志保の隣に座るとコナンは小さな身体に不釣り合いな大きさのバッグから弁当やお茶を次々取り出すと彼女に差し出した。
 「それはそうと……あの子達は無事?」
 「ああ、アイツらなら大丈夫。事情聴取の前にちゃんと医者に診てもらったけど少し掠り傷があるくらいだ」
 「そう……」
 コナンの答えに安心したように息をついて足元に視線を落としたその時、突然頬を明かりに照らし出され志保は驚いて顔を上げた。
 「これでちょっとは明るくなるだろ?」
 薄暗かったテントの中を温かく照らしているのはコナンが持つランタンの灯りだった。得意気に微笑むコナンに小さく頷くと志保は差し出されたおにぎりを受け取った。


 「……美味しい」
 一口かじるとよく効いた塩が口の中に広がる。「ゆっくり食えよ」と笑いながら手渡されたペットボトルのお茶を飲むと事件の緊張や熱で疲労した身体に水分が染み込んで行くのが分かった。
 「ありがとう、工藤君。ご馳走様」
 「べ、別に当たり前の事しただけだし……」
 微笑みとともに素直に礼を言うとコナンがドギマギしたように顔を赤らめた。不思議そうに瞳を覗き込み「どうしたの?」と尋ねると気まずそうに視線を逸らしてしまう。
 「何つーか……その……元の姿のオメーとこうやって話すの初めてだなって思ってさ」
 「そういえば元の姿に戻ったあなたと小学生の私は何度も会っているけど逆は初めてかもね。もっとも……あなたが元に戻る時はいつもいつも大騒動でゆっくり話なんてできた試しがないけど」
 肩をすくめ、視線を向けるとコナンを見下ろす形になり志保としても違和感を抱かずにはいられなかった。いつもと勝手が違う事にコナンも居心地が悪いのかどこか行動がぎこちなく、どうにも会話が続かない。
 そんな二人の間に流れる沈黙を破ったのはコナンだった。
 「あ、そうだ、灰原」
 「何?」
 返事をしたのに話を続ける様子もなく、何やら思案に暮れるコナンに志保は怪訝な視線を向けた。
 「う〜ん……やっぱ今のオメーを『灰原』って呼ぶのは変だよな」
 コナンの口から発せられたあまりに予想外の言葉に志保は思わず瞬きを繰り返す。
 「別にいいじゃない」
 「んな訳いくかよ。せっかく元の身体なんだぞ?」
 その台詞に彼がどれほど『工藤新一』を取り戻したいと願っているか思い知らされたような気がして志保の胸に疼痛が走る。が、今の自分に解毒剤完成の期日を確約できるはずもなかった。
 「呼び方なんて好きなようにすればいいじゃない。『灰原』でも『宮野』でも……そうね、何なら『シェリー』とでも呼べば……」
 「ふざけるな!」
 かつてのコードネームを口にした瞬間、コナンに強い口調で言葉を遮られる。その瞳の奥に見える怒りの色に志保は戸惑いを隠せなかった。
 「もうオメーは『シェリー』なんかじゃねーだろ!?冗談でもそんな事言うんじゃねーよ!!」
 「工藤君……」
 「オメーは自分の意志で組織を抜け、オレの所へ来たんだろ!?だったら……!」
 興奮のあまり我を忘れて叫ぶコナンだったが、子供の自分が大人の志保を相手に説教する様を滑稽に感じたのだろう。フッと息をつくと苦笑いを浮かべた。
 「だったら……もうオメーは組織の人間じゃねえ。こっち側の……オレ達の側の人間だ。今、オメーをコードネームで呼ぶ奴なんていねーんだからさ。だから……」
 痛い程真剣なコナンの口調に志保は思わず俯いてしまった。そんな彼女の頭を両手でフワリと抱き込むとコナンは言い含めるように言葉を続ける。
 「組織の連中がオメーを連れ戻しに来たら例えどんな手を使っても守ってみせる。オメーはオレの大事な『相棒』なんだからよ」
 目の奥に熱いものを感じ、志保はコナンに抱き込まれている頭を彼の肩に押し付け、溢れ出しそうになる涙を必死に耐えた。
 「……『灰原』って呼んでくれる?」
 しばらく後、ようやく口から零れたのは小さな小さな声だった。
 「あなたにそう呼ばれると生まれ変わったような気がするの。組織の事とかお姉ちゃんの事とか関係ないただの『灰原哀』っていう小学生に生まれ変わったみたいに……だから……」
 なんて身勝手な、自分でも呆れてしまう言い分をコナンがどんな顔で聞いているかと思うと不安が込み上げて来る。
 (やっぱり……こんな事言うべきじゃなかったわね)
 苦笑いとともに肩をすくめ、「ごめんなさい。そんな事許され……」と言いかけたその時、「灰原」といつもの少し低めの声で遮られた。
 「……何?」
 震える声で応じるとコナンがニヤッとした笑みを浮かべる。何となく自分の心中を全て読まれたような気がして志保はコナンの頭を手でクシャクシャと撫で回した。
 「何すんだよ!?」
 「子供のクセに生意気なのよ」
 「ったく、可愛くねーな……」
 「あら、今更そんな事……」
 皮肉な言葉の続きはゴホゴホという咳に掻き消された。
 「大丈夫か!?」
 慌てて覗き込んで来るコナンを右手で少し遠ざける。
 「心配いらないわ。少し風邪気味なだけだから……」
 「そういえば歩美が『哀ちゃん、お熱があるみたい』って言ってたな」
 「そう……吉田さんにも心配かけさせちゃったわね」
 「哀ちゃん、大丈夫?」と不安そうに自分を見つめていた歩美の姿が脳裏を過ぎる。己の体調不良が原因で子供達を危険に晒した事を思い出し、志保は膝の上に置いた両手をギュッと握りしめた。ふと視界を遮ったかと思うと不意に額に何かが触れる。反射的に頭を上げるとコナンの小さな手が自分の額に添えられていた。
 「ちょ、ちょっと!何を……!」
 「やっぱ熱あるよなぁ」
 のんびりと呟くコナンに抗議の声を上げようとした瞬間、再び志保は咳込んでしまった。
 「おい、全然大丈夫じゃねーじゃねーか!」
 呆れた口調で自分に近付いて来るコナンを制するように咳き込みながらも首を横に振る。少しずつ熱が上がっているのか寒気はするが耐えられないほどではない。
 「身体を温めた方がいいんだろうけど子供用の寝袋しかねーし……クソッ!毛布か何か持って来ればよかっ……あ……!」
 コナンが言葉を切った次の瞬間、志保の膝に温かな重みがかかった。
 「く、工藤君!?何を!?」
 自分の膝に座るコナンの姿に一瞬呆然とする志保だったが、「子供の体温だからな。温かいぜ?」とニヤリと笑う姿に反論する気力を奪われ、大人しくその小さな身体に手を回した。
 「こんな事して……風邪がうつっても知らないからね」
 二人はしばらくそのままの体勢で事件や事情聴取の様子を互いにポツリポツリと話し始めた。


 「私の状況判断が甘かったわ。あの子達には悪い事をしたわね」
 「死体を埋める作業を子供達に見られ動揺して小屋に火をつけた」――コナンから被疑者の供述内容を聞いた志保は悔恨を含んだ深い息をついた。結果的に無事だったとはいえ、もし彼らの身に何かあったらと思うと今でも恐怖が押し寄せて来る。
 沈んだ様子の志保にコナンは「灰原、オメーはよくやったよ」と彼女の手に自分の手をそっと重ねた。
 「オメーのお陰でアイツらは助かったんだ」
 「工藤君……」
 慰めるように自分の手を包み込むコナンの手は小さな子供のものなのに志保の中にある不安をゆっくりと融かして行った。
 「アイツらの事、守ってくれてありがとな」
 「別にあなたにお礼を言われる筋合じゃないわ」
 「けどさ、アイツらはオレにとっても大事な友達だし……だから……やっぱりありがとな。それと……」 
 「……?」
 「助けに行けなくて悪かった」
 独り言のようにポツポツ呟くコナンの顔は志保からは見えない。だがその声は別の後悔をも含んでいるような気がして志保は黙って抱きしめる手に少しだけ力を込めた。温かな体温に自分が生きている事を実感する。このまま子供の身体に戻れば博士や探偵団との日常に還れる――安堵感に身を浸した途端、全身の力が抜けて急に眠気に襲われた。曖昧になる意識の中、「生きててくれて……ここにいてくれてありがとな」というコナンの声を聞いたような気がした。