「荷物、これで全部か?」
 それほど大きくもないトランクに視線を落とし、問いかける新一に哀は小さく頷いた。
 「ええ、後はこれだけ」
 机に置いてあった写真立てを手に取り、表面のガラスについた埃を掌で払う。振り返って見渡すと、わずかな家具だけが残った部屋は哀が思っていたよりずっと広かった。そう感じるのは以前は本やパソコン、研究資料に埋もれている状態だったからか、それとも自分を取り巻く環境があの頃と大きく変わったからか、それは彼女にも分からなかった。
 「それにしても…人が住んでたとは思えねえ部屋だな」
 あまりに荷物が少ないと言いたいのだろう。確かに新一に手伝ってもらってまとめた荷物は先日、江戸川コナンが毛利家を引き払った時より遥かに少なかった。
 「何時でも出て行けるようにあまり物は置かないようにしてたから……」
 必要最低限の物しかなかった部屋は今改めて見てもかつて自分の居住空間だったという意識すらあまり抱けなかった。いつも暖かな空気に包まれる阿笠邸とは比べ物にならないほど生活感が無い。そもそもこの部屋で寛いだことなど一度もなかったように思う。建物の一番奥に位置するこの部屋にいてもいつも息苦しさしか感じられなかった。
 「そっか」
 新一は部屋の端に置かれた簡易ベッドに腰掛け、俯いた哀の頭を少し乱暴に撫でた。いつもなら「子供扱いしないで」とすぐに手を振り払うところだが、今はもう少し新一の温かさを感じていたかった。
 「もうこの部屋に来ることはないと思っていたのに……」
 手の中の写真立てには優しい表情の明美と並んでどこか照れ臭そうな顔をしているかつての自分が写っている。『シェリー』と呼ばれ、真っ暗な世界で生きていた自分にただ一つ灯された光がこの写真だった。わずか数ヶ月前のことなのに、毎夜寝る前、この写真を見つめていた日々がもう遥か遠い昔ことのように思えて仕方がない。きっとそれは今の生活があの頃より遥かに豊かで、もうこの写真に頼る必要がなくなったからだろう。
 けれど……
 「ありがとう、工藤君。私…ここに来て良かった……」




   過去との決別




 黒ずくめの組織が崩壊したのは一ヶ月前。最終的には日本警察やFBI、そしてCIAをも巻き込んだかなり大掛かりな作戦が立てられた。そしてその作戦が成功し、押収した捜査資料から入手したAPTX4869のデータを元に哀は解毒剤を完成させ、新一は無事元の姿に戻ることができた。その後、事件の事後処理のため毎日のように警視庁へ出向いていた新一が、哀が組織にいた当時暮らしていたと思われる建物が家宅捜索されるという話を聞きつけたのは数日前の出来事だった。
 その話を聞いた直後、哀は単純に驚いた。自分の逃亡後、すぐに研究所を焼き払った組織が研究所付属の社員寮という名目で使用していたその建物を放置しておくとは思ってもいなかったし、自分が残して来た物を思い返すことなどなかった。
 だが、驚きはしたものの特に関心もなかった。考えてみればそもそも寝るためだけに用意されたような部屋だったし、帰ることができたのも週の半分で、残りの半分は研究所の簡易ベッドで眠る毎日だった。おまけに組織の思惑次第で住居が移されることなど珍しくもなく、自分の部屋という感覚もあまりなかった。
 そのせいか家宅捜索に同行することを新一に提案された時も、解毒剤を完成させた今となってはその必要性を感じることもできず、あっさりと断ったのである。
 
 「……なあ、やっぱ一緒に行こうぜ」
 しばらく黙って雑誌を捲っているところへ不意打ちのようにそう言われ、哀はその意味を理解するのに少し時間がかかった。
 「結構よ。令状があるんだし、別に私の立会いが必要な訳でもないんでしょ?」
 「そりゃ……けどお前、ほとんど何も持たずに博士の所へ来たんだろ?何か取りに行きたい物とかあるんじゃねえか?」
 「服ぐらいしか置いてなかったもの。この身体じゃ取りに行っても意味ないわ」
 「意味ねえってことはねえだろ。お前の物なんだし。気にいってた服もあったんだろ?」
 「……しばらくは元の身体に戻らないって言ったでしょ?あなたも納得してくれたじゃない」
 やはり彼は偽りの姿で逃げる自分を許さないのだ。哀は胸の奥が軋むのを隠し、冷静さを装って雑誌に視線を落とした。
 
 ――しばらくは解毒剤を飲まない
 
 新一には彼が元の姿に戻ってすぐそう告げていたし、哀の決意が固いことを察したのか、新一も「お前も元の身体に戻れ」とは言わなかった。
 哀が解毒剤を服用しない理由はただ一つ、新一に薬の副作用が出た場合に備えるためだった。少なくとも一年は自分は解毒剤を飲まない――それはAPTX4869のデータを手に入れる前から決めていたことである。
 しかし一年後、薬の安全が確認できた時点で自分も解毒剤を服用するかどうかは未だ決めかねていた。明美がいない今、宮野志保に戻ることを待っている人間は誰一人いない。それに元の身体に戻るということは『シェリー』という罪を犯した自分の象徴と向き合うことでもある。そのことが無性に怖かった。だが、『灰原哀』として偽りの身体でかつての自分が犯した罪を背負い続けることに耐えられる自信もない。どちらを選んでも結局は自分の過去と向き合うしかないのだ。そして、その現実から逃げていることは哀自身が一番よく分かっていた……
 
 ――逃げるなよ、灰原
 
 その度にもう一つの罪の象徴である眼鏡の少年の真っ直ぐな声が哀の胸を突き刺した。彼に相棒と呼ばれ、初めて少し自分を誇れるような気がした。そんな彼の側にいる以上、逃げてはいけないことは分かっている。でも……
 堂々巡りの思考を新一に真正面から断ち切られたような気がして哀は目の前が真っ暗になった。
 
 「お前、なんか勘違いしてねえ?」
 黙り込んでしまった哀に新一が再び声を掛ける。
 「元の身体に戻るとかそういうんじゃなくて……やっぱ一度行っておいた方がいいと思うぜ?今ならまだお前が出て行ったままになってるだろうし。オレも一緒に行くからさ」
 新一がいくら説得しようとしても哀は新一の方を見ようともしない。
 「おい、灰原!」
 「……」
 さすがにしびれを切らしたのか、新一が哀の隣に移動して来る。が、哀は完全に無視を決め込んで何の反応も返そうとはしなかった。
 「……なあ、逃げるなよ」
 「逃げてなんかっ…!」
 その言葉を聞いた瞬間、哀は反射的に新一の方に振り返った。が、かつてこの言葉を告げた時、彼女を鋭く睨んだ瞳は今は辛そうに下に向けられていた。声も以前の怒りを込めた強いものではなく、落ち着いたいつもより低い声。そんな新一の様子に哀はただ立ちすくむしかなかった。

 意を決して顔をあげた新一の目に怯えたような哀の表情が映る。以前、自分が言ったこの言葉が彼女をずっと縛っていたことは新一自身気付いていた。誰よりも優しくて誠実な哀を真っ向から責めてしまった新一を恨むことなく、それどころか気遣ってくれる彼女に『責任』という名の苦しみを与え続けているのが自分だということも分かっていた。だからこそそれ以上、哀を追い詰める事はできなかった。
 しかし、もう避ける訳にはいかない。彼女の傷跡に触れるために敢えて切ったカード。哀の側で生きていくためにここで自分が逃げる訳には行かない――新一は拳を握って小さく頷いた。

 「灰原、お前がずっと苦しんでたことは分かってる」
 新一が静かに呼びかけると哀の肩がビクッと震える。そんな哀の緊張を少しでも解したくて新一は安心させるようにその柔らかな茶髪をゆっくりと撫でた。
 「オレはお前のおかげで『工藤新一』に戻れたし、今回の事件に決着をつけることもできた。けど…お前はまだ組織にいた時のことを清算できてねえし、これからのことも決められねえんだろ?」
  
 やっぱり工藤君は全て分かっていた……
 何時だって逃げてばかりの私の狡さも弱さも……
 でも…やめて、工藤君……
 その先は言わないで……
  
 ギュッと目を瞑って唇を噛み締め、耳を塞いでしゃがみ込みたい衝動に堪える。そうしていないと涙が零れ落ちそうだった。
 「オレ、お前にきちんと前を見て進んで欲しいんだ。だから……行こうぜ」
 「……無理よ」
 新一の想いが掌から伝わって来るが、その優しさが今の哀には痛かった。消え入るような声でそう言うと哀は両手で顔を覆った。
 「私が何をしてきたかあなた分かってるの!?自分で断罪もできない狡い私が何を清算できるっていうの!?きっかけさえあれば何時また自分が『シェリー』に戻るか分からない……そう思うだけで怖くて堪らないの!それなのにあなたの側を離れられない弱い私をあなたが軽蔑するのが怖いの!逃げてばかりであなたの側に居る資格なんかないのにッ…!」
 哀の小さな両手から次々と雫が流れ落ちる。叫ぶような悲痛な声は新一に初めて出会った日の出来事を思い出させた。一瞬の逡巡の後、新一は哀の小さな身体を抱きしめた。あの時の自分は哀の慟哭を受け止められなかったが、今は受け止められるような気がしたから――
 「……大丈夫、心配ねえって」
 何度も呟きながら哀の背を優しく撫でる。
 「お前は『シェリー』なんかじゃねえ。宮野明美さんの妹でオレの大事な相棒だ。オレがずっと側に居るからそんなに怯えるなよ。お前が嫌がったってオレはお前を離すつもりはねえんだからさ」
 哀の手を握り顔を覗き込む。哀は新一の言葉が理解できないのか、呆然と新一を見つめ返した。
 「本当は過去なんか全部捨てて欲しいんだけどさ、お前がそんなことできるヤツじゃないって分かってるし…それに……そういうお前だから好きなんだ」
 哀の顔が真っ赤に染まったのを確認すると新一は嬉しそうに微笑んだ。
 「オレもお前と一緒に前へ進みたいんだ。辛くてもオレが側に居るから……過去と決別しに行こうぜ?」
 抱きしめた哀の耳元でそう囁くと哀の瞳から再び涙が流れた。それを指先で拭い、返事をせがむようにその瞳を覗き込むと、哀は小さく頷き、力を抜いて新一に身体を預けた。
 新一は哀の身体を強く抱きしめると、ゆっくりと唇を重ねた。