1 彼女の思考―コナンと博士―



 「博士、ちょっと灰原に甘過ぎるんじゃねえか?」
 曲がり角まで哀を見送っていたのか、思ったよりゆっくりとキッチンへ入って来た阿笠にコナンは不満そうに話し掛けた。
 「そうか?」
 「アイツだって身体はともかく子供じゃねえんだし……過保護すぎると思うぜ?」
 「何じゃ、わしが哀君に優しくしておるもんじゃから嫉妬しておるんじゃな」
 「なっ、そんなんじゃねえよ!」
 コナンの焦ったような上擦った声に阿笠は「冗談じゃよ」と悪戯っぽく笑う。コナンはそんな阿笠を恨めしそうに見るとソファから立ち上がり、彼のいるキッチンへと移動した。


 「哀君は可愛いからのう。わしもついつい過保護になってしまうわい」
 阿笠は哀が出掛けに作ってくれたらしい珈琲を二人分のカップに注ぎながら言った。
 「可愛い?灰原が?」
 思わず口にした言葉に阿笠がジロリとコナンを睨む。
 「何じゃ、その言い方は。君は哀君が可愛くないとでも言うのか?」
 「そ、そういう意味じゃねえよ。ただアイツが可愛いとか考えた事なくてさ。いや、ホント」
 慌てて言い訳するものの、内心は全く反対の事を考えていた。
 (灰原が可愛い?確かに顔は可愛い…ってかどっちかってぇと『可愛い』っていうより『美人』って感じだよな。でも……アイツほど中身が可愛くねえ女も滅多にいねえだろ……)
 言葉とは裏腹にコナンが哀に対して何やら失礼な事を考えているらしいと察した阿笠が「どうやら君は哀君の淹れた珈琲は要らんようじゃの」と、コナンのカップを片付けようとする。
 「お、おい、博士、待てってば」
 普段、飲みたくても堂々と飲めない珈琲を前にコナンは慌てて阿笠の行動を止めた。


 「あの子は優しくていい子じゃよ。甘やかされておるのはわしの方ではないかの?」
 珈琲を美味しそうに飲みながらしみじみと呟く阿笠にコナンは阿笠に対する哀の態度を思い浮かべた。
 確かに哀はいつも阿笠の事を気に掛けている。食生活を基本として、特に阿笠の健康に関してはかなり細かく配慮している事はコナンにも分かっていた。しかし、それが甘やかすようなものかと言われると若干首を捻りたくなる。むしろコナンの目には哀の歩美に対する態度の方が甘やかしているように見えるからだ。
 それを素直に阿笠に告げると、
 「哀君は照れ屋じゃからのう」
 「照れ屋ねえ……それこそアイツがそんなに可愛く反応するタマか?」
 なおも首を捻るコナンに
 「まったく君はそれでも探偵かね?あれほど分かりやすい子もおらんと思うが……」
 「……どーせオレは鈍感だよ」
 「そう拗ねるでない。わしは哀君と一緒に住んでおる分、あの子の事は君より分かっておるつもりだと言っておるんじゃ」
 ふくれっ面で珈琲を口に運ぶコナンに阿笠は苦笑した。 
 
 
 「……オレ、アイツが考えてる事……全然分からねえんだ」
 しばしの間、カップの中の珈琲を見つめ黙り込んでいたコナンが急に口を開いた。
 「ん?」
 「博士の事を色々気に掛けてるのは分かるけどよ、態度はすげえ素っ気ねえだろ?オレだったらどうせなら博士に喜んでもらえるようにするぜ?歩美達にだってホントはオレなんかより細かく気を配ってるくせにそれが分かるのはよっぽど後になってからだし……」
 推理を披露する時とは正反対にポツリポツリと思いつくままの言葉を口にするコナンの話を阿笠は黙って聞いていた。
 「それがアイツの性格って言っちまえばそうなんだけど……だからって博士の言う『照れ』ってヤツとは違うと思うし……」
 そこで一度小さく息を吐くとコナンは一瞬逡巡して続けた。
 「それにこの間のツインタワービルの事件の時もそうだったけどよ、灰原は『死ぬ』って事に迷いがねえんだ」
 阿笠はコナンの言葉に先日、西多摩市のツインタワービルで起こったビル爆破事件を思い出した。コナンや毛利親子、阿笠、少年探偵団の面々が招かれたパーティー会場で黒の組織が遂行した恐ろしい爆破事件。哀はあの時、自ら死を選ぼうとしたと聞いた。最上階に取り残された子供達を確実に救うため、一人残って最後までカウントダウンを続けようとしたと。
 「車に乗るように急かしたオレ達にアイツはいつもの冷静な声で言ったんだ」
 −『馬鹿ね、この方が確実でしょ』−
 コナンの脳裏にあの時の哀の声が蘇る。
 「自分が死んでオレ達が生き残る事にアイツは全く迷いがなかったんだ。バスジャック事件の時だってそうだ。一人バスに残ってオレ達と自分の接点が組織の奴らにばれないようにって……オレ達を巻き込まないために平気で死のうとするんだ」
 眉根を寄せてコナンは続ける。
 「何で平気でそこまでできるのか……オレには全然分からねえ」
 コナンは顔を上げて阿笠を見た。
 「けどよ、オレはそんなアイツの行動を絶対認めねえ」
 そう言い放つコナンの目がいつもの強い光を放っているのを認めると、
 「……君がそう言ってくれるならわしも安心じゃよ」
 阿笠はコナンの小さな手を強く握りしめた。


 「哀君のああいう行動についてわしもはっきりとした確信がある訳ではないんじゃが……あれはあの子なりの愛情表現なのではないかのう」
 ゆっくりと考えるように話す阿笠の言葉にコナンは眼鏡の奥の目を大きくする。
 「何だよ、それ。なんで愛情表現で死のうとするんだよ?」
 「哀君は人付き合いが上手いとは言えん」
 「確かにな」
 コナンはいつも不機嫌そうな顔をしている哀を思い出して苦笑した。彼女の場合は『上手くない』というよりはっきり言ってしまえば『下手』だ。
 「最近はそうでもなくなって来たんじゃが、哀君は誰かに親切にされると困ったような顔をするんじゃ。おそらく今まで他人から優しさを向けられた事がないんじゃろう。じゃからそういう場面にぶつかった時、自分の感情をどうしていいのか分からず持て余しておるんじゃ」
 阿笠は珈琲カップをコトッと机の上に置いた。
 「いつも不機嫌そうな顔をしておるくせに一旦何か起こると自分を犠牲にしようとするのは哀君なりのわしらへの愛情表現なんじゃ。あの子は与える事でしか好意を示せないんじゃよ」
 阿笠の声を聞きながらまるで不器用な娘を心配する父親のようだとコナンは思った。
 「哀君が犠牲になってわしらが助かってもわしはちっとも嬉しくないんじゃが……」
 そう言って苦笑する阿笠の顔がコナンには泣きそうに見えた。
 なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がしてコナンは天井を見上げ、哀の姿を思い浮かべた。
 バスジャック事件で一人バスに残ろうとした哀に『逃げるな』と言った時、彼女はどこか不思議そうな顔をしていた。ツインタワービルのカウントダウンの時も全く迷いなく『これが一番』と言い切った。彼女の中には自分にできる事で誰かが助かるならそれでいいという気持ちがあるのかもしれない。例えそれが自分の命であっても……


 「もう少し自分を大事にしてもバチは当たらねえと思うんだけどよ……」
 「もっと自分を大事にしてくれればいいのにのぉ……」
 コナンがしみじみ呟いたのと困ったような顔で阿笠が溜息をついたのはほぼ同時だった。
 二人は顔を見合わせてクスリと笑うと哀が作った珈琲を飲み干した。


 「新一、哀君を頼むぞ」
 阿笠がコナンを見つめてそう言うと、
 「ああ。オレはアイツのああいう行動は認めねえ。絶対死なせねーよ」
 コナンも力強く頷いた。
 
 
 その後、買い物を終えた哀が帰宅するまで再び『哀の可愛さ』について阿笠の説教が延々と続けられたのだった。