2 大事な人―哀とコナン―



 「あら、博士は?」
 夕飯の準備を終え、キッチンからリビングへと入って来た哀がソファを見るとコナンが一人新聞を読んでいた。先程まで隣でテレビを見ていたはずの阿笠の姿がない。
 「晩メシまで発明の続きしてるってさ」
 新聞から顔を上げずに答えるコナンの向かいに腰を下ろすと哀は傍らにあった雑誌を取り上げた。
 「メシの準備はいいのか?」
 「後は煮込むだけだから」
 しばしの間、紙をめくる微かな音だけが聞こえていたが、視線を感じて目線を向けるとコナンが自分を眺めている。
 「何?」
 眉を顰めて聞くと、
 「やっぱおめえは『可愛い』って感じじゃねえよな」
 しれっと答えるコナンに哀は少し頭痛を感じた。仮にも女性に言う言葉だろうかと思う一方、この鈍感さがまさに彼だと妙に納得してしまう。
 「あら、あなた、私にいつも『可愛くない』って言ってるじゃない」
 「けどよお、博士におめえの事『可愛くない』って言ったら散々説教されたんだ。オレ、何か変な事言ってるか?」
 続けて発せられた質問に哀は眩暈すら覚える。そもそもそんな事は本人に向ける質問だろうか?
 「そういう台詞を女性に向かって言う事自体が失礼なんじゃない?」
 素っ気なく答える哀にさすがのコナンも拙いと思い、引きつった顔で慌てて謝ったが、哀はコナンを一瞥すると再び手元の雑誌に目を落としてしまった。
 静寂と共にリビングを気まずい空気が支配する。それを最初に打ち破ったのは意外にも哀の方だった。
 「それで?博士に紳士としての心構えでも教えてもらったのかしら?」
 雑誌から顔を上げず、どこか揶揄するように言う彼女にコナンは少しホッとする。
 「それが博士に散々怒られたんだけどよ、そういう意味じゃなくておめえが『可愛い』って言うんだ」
 「はぁ?」
 あまりに予想外の言葉に哀は思わず顔を赤くして頭を上げた。
 「何それ?何を言ってるの?」
 珍しく動揺した哀の声色にむしろコナンの方がどぎまぎしてしまう。
 「いや、だから『どうして君は哀君の可愛さが分からんのじゃ!』とか何とかずっと怒られてたんだ」
 必死に言い訳するコナンに哀は顔を真っ赤にし、何か言おうと口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していたが、やがて諦めたようにハアと大きく息を吐いた。
 「もう、博士ったら……」
 気恥ずかしそうに呟く哀の表情はとても穏やかで、彼女にとって阿笠の存在がいかに大きいものであるかコナンは改めて感じた。
 以前、哀が解毒剤の試作品をくれた夜、自分に銃を突き付けて彼女は言った。
 −『博士が人質にとられているの……今の私には彼を助けるだけで精一杯』−
 結局それは狂言で、彼女一流の笑えない冗談だったのだが、その時コナンは心のどこかでその理由に納得していた。阿笠のためなら哀は何だってするだろうと。組織が関わる時、哀はいつも過剰に怯える。だがその怯えは自身の死ではなく周囲を巻き込む事に対する恐怖だった。そして彼女がいつも一番恐れているのは阿笠に危害が及ぶ事。
 「私の事なんかそんなに大事にしてくれなくていいのに。本当、お人好しなんだから……」
 哀が困ったように視線を彷徨わせる。言っている台詞は普段の彼女と変わらず可愛くないものだが、どこか嬉しそうなその表情は確かに先程阿笠が力説したように可愛く見えて。
 そんな阿笠と哀の関係にコナンは胸の奥になんとなくモヤモヤとしたものを感じずにはいられなかったが、それを誤魔化すようにぶっきらぼうな言葉を口にした。
 「いいんじゃねーか?博士だって好きでやってんだし。せっかくの好意なんだから喜んで受けとけよ」
 「ここにいるだけでも博士には充分迷惑掛けてるのよ?」
 「博士は迷惑だなんてちっとも思ってねえぜ?」
 阿笠がどれほど哀を大切にしているかなんて一目瞭然だ。哀もその事は分かっているはずなのにそれを認めようとしない。その態度に何故かコナンの苛立ちが増した。自分でも何に苛立っているのか分からないままに強い口調で哀の台詞を遮ってしまった。
 思わぬ強い口調に驚いたのか、顔を上げた哀にしげしげと見つめられコナンはハッと我に返った。それでも阿笠がどれだけ哀を大切に思っているか伝えたかった。彼女を思う人がいる事で彼女が自分自身に少しでも価値を見い出してもらえるように。
 「博士は本当に大事だと思ってんだよ、おめえの事。だから迷惑とか言うなよ、悲しむぜ?」
 黙って聞いている哀の瞳が困ったように揺れるのをコナンは見逃さなかった。 
 「……そうね、博士は迷惑だなんて思ってない……そんな事、私だって分かってるわ」
 少し戸惑いながら、しかしはっきりとした口調で哀は言葉を続ける。
 「博士には感謝してもしきれないわ。助けてくれた上に匿ってくれて、一緒に住ませてくれて……それだけでも充分なのに私なんかをとても大切にしてくれて……博士は優しいからそれを当たり前のように思っているけど、私にはそんな事をしてくれる人はお姉ちゃんしかいなかったわ。だから最初はどうしていいのか分からなかった。でも、博士は全てお見通しなんでしょうね、私がどんな反応をしてもいつも笑っているの」
 コナンは哀の話を聞きながら先程の阿笠の台詞を思い出していた。
 −『哀君は誰かに親切にされると困ったような顔をするんじゃ。おそらく今まで他人から優しさを向けられた事がないんじゃろう。じゃからそういう場面にぶつかった時、自分の感情をどうしていいのか分からず持て余しておるんじゃ』−
 阿笠は哀が考えている事など分かっていたのだ。そして哀も。
 「私には博士に返せるようなものは何もないわ。せいぜい持っている知識で博士の健康管理や研究の手伝いをするぐらい。大きなお世話かもしれないけど私にはそれくらいしかできないから」
 照れたように少し喋り過ぎたと言いながら哀はテーブルの上に置いてある雑誌を片付け始めた。
 「何だよ、灰原も博士も。結局お互いメチャメチャ大事にしてんじゃねえか」
 そう茶化して再び新聞を開こうとしたコナンに哀が思いがけず強い口調で言った。
 「私は……大事になんかしていないわ」
 「は?」
 驚いて哀を見つめたコナンの手からガサリと新聞が音を立てて滑り落ちる。
 「……気にしないで、独り言だから」
 哀が自分の言葉に驚いたように慌てて顔を背けた。
 「何言ってんだよ?おめえ、さっきと言ってる事が反対だぞ?」
 立ち上がろうとする哀の腕を掴み身体ごと自分の方に向けさせる。顔を顰めて振りほどこうとする哀にコナンは掴んだ腕に更に力を込めた。
 「誤魔化すんじゃねえよ。いい加減白状しろ。おめえ、博士の事どう思ってんだよ?」
 「そんな事、あなたには関係ないじゃない」
 「博士とオレは17年の付き合いで親子みたいなもんなんだ。その博士が家族みたいに大事にしてる人間が博士を大事になんかしていないだなんて……許さねえ」
 じっと目を離さないコナンの様子に観念したのか哀は再びソファに腰を下ろした。
 「私は博士を守りたいの。もう手遅れかもしれないけど組織の追手から博士を守りたいの。博士にはいつも優しく笑っていて欲しいから……」
 「それは大事にしてるって事じゃねえのか?」
 「……」
 言おうか否か逡巡する哀の瞳を正面から見据えると哀は諦めたように深く息を吐いた。
 「私はいつも大事な人を守れないから……」
 自嘲した口調で呟くと哀は表情を見られたくないのか俯いてしまった。
 「私がどれだけ守りたいと思っていても大事な人はいつもいなくなってしまうの。だから博士は私にとって大事な人なんかじゃないのよ」
 自分でもおかしいと思っているのだろう、哀は決してコナンの方を見ようとしない。普段、非科学的なものを信じない哀のこの言葉に彼女がどれほど思い詰めているかを感じ、コナンは胸が締め付けられるような思いだった。と同時にそんな哀が可愛いと感じている自分自身に驚いていた。冷たい態度をとりながらも必死で阿笠を守ろうとする哀とそれを可愛いと言う阿笠。そんな二人の関係に笑みが零れた。
 コナンは哀の顔を両手で挟み再び正面から彼女を見据えた。
 「大丈夫だ」
 微笑むコナンの顔を不思議そうに見ている哀にゆっくりと語りかける。
 「博士はいなくなったりしねえよ」
 「工藤君……」
 「オレは誰も死なせたりしねえ。博士も……そしておめえも」
 力強く自分を見つめるコナンの目に哀は安心感を覚えた。
 「さっさと黒の組織をぶっ壊しておめえに博士を大事にさせてやっからさ」
 自信満々に笑うコナンに哀もつられて笑みを零す。
 「それまで博士を病気から守ってやれよ。博士、昨日もおめえに隠れてポワロでパフェ食ってたぜ?」
 「博士ったら、やっぱり隠れて食べてたのね!しばらくまた節制させなくちゃ…!」
 予想通りの哀の反応にコナンは阿笠に先程の説教の仕返しができたと一人満足していた。