3 視線の先―哀と博士―



 夕飯だけでなく食後の珈琲までしっかり楽しむとコナンはやっと探偵事務所へ帰って行った。
 コナンは阿笠邸にいる時はよく喋る。元々工藤新一は無口なタイプではないし、幼児化してからは人前で口にできる話題が限られている事もあり、阿笠や哀を相手にすると最近読んだ本の話から自分が解決した事件についてまで話さずにはいられないようだった。
 そのコナンがいなくなり、普段の静けさを取り戻した阿笠邸のキッチンで哀は食器を片付けていた。
 「手伝うよ、哀君」
 「いいわよ。博士はゆっくりしてて」
 コナンを玄関まで見送って来た阿笠に哀は微笑んだ。阿笠はそんな哀を見てこれまた嬉しそうに頷くとソファに座りテレビをつけた。何とはなしに夜のニュースを見ていると、片付けを終えた哀がエプロンで手を拭きながら近付いて来て阿笠の隣に腰を下ろした。
 「さっき工藤君が言ってた事件ってこれかしら?」
 哀の声に改めてテレビを見ると駅近くのマンションで昨日起きた殺人事件のニュースが報じられていた。哀は別に返事を求めていた訳ではなかったらしく、阿笠と同様、興味なさそうにテレビを眺めている。しばし、二人とも黙ったまま並んで座っていた。部屋にはニュースキャスターの淡々とした声だけが流れている。
 ゆったりとした、それでも満ち足りた時間。少し前まではこんな時間を持つようになるとは阿笠は夢にも思っていなかった。つい最近までたとえ寝ている間も気を張っていたのか、小さな物音にも哀はよく目を覚ました。自分の傍に寄るどころか人といる事さえ極力避け、常に緊張している彼女を阿笠は心配したものだった。しかし、最近になって哀は帰宅後や夕食後のちょっとした時間を阿笠の傍で過ごすようになった。少なくともこの家にいる時は安心したように時折笑顔を見せる哀を見ると阿笠はそれだけで嬉しくなるのだった。
 ニュースは事件を解決したのは偶然近くにいた毛利小五郎だと伝えているが、本当は事件に引き寄せられたのも解決したのも江戸川コナンこと工藤新一だという事は二人ともよく分かっていた。
 「全く……新一君はどうしてあんなに事件に巻き込まれるんじゃろうか?」
 「あれはもう体質ね」
 苦笑する阿笠にあっさりと言った言葉とは裏腹に哀の顔は曇っている。哀が本当はコナンが事件に関わる事をよく思っていないと阿笠は気付いていた。子供の身体で無茶ばかりするコナンを心配するのは勿論、事件に首を突っ込む事で必要以上に子供である悔しさを彼が味わう事が辛いのだろう。
 しかし哀はコナンが犯人と対峙する時、決して目を逸らそうとしなかった。犯人に向けられる言葉を聞き逃すまいとするかのようにコナンを見つめ続けていた。まるで事件を記録するかのように。それが阿笠には少々気掛かりだった。
 「確かに新一君は小さい頃から本当によく事件に巻き込まれておったのう」
 「そういう子供時代を送るとああいうはた迷惑な探偵が出来上がるのね。吉田さん達の将来が心配だわ」
 容赦ない言葉にも穏やかに微笑む阿笠に哀はホッとした。先程コナンは自分と阿笠を家族のようだと評したが、哀から見ればコナンと阿笠の方がよっぽど親子のようだと思う。もっとも、実際に両親と関わった記憶のない哀には親子という言葉に漠然としたイメージしか持てなかったが。
 「一つだけ聞いてもいい?」
 「何じゃね?」
 「工藤君って小さい頃どんな子供だったの?」
 腕組みをしながら視線を上に向け、昔を思い出そうとする阿笠の横顔を見上げ、哀も10年ほど前の阿笠を思い描いてみた。結局、白髪を黒くするぐらいしか想像できなかったが、それでも阿笠は今のように優しく微笑んでいたのだろう。
 「そうじゃのう、新一君は小さい頃から生意気な子供じゃったな。いや、今よりはもう少し子供らしかったかもしれんが」
 「……きっと工藤君は10年経っても今と変わらず生意気なんでしょうね」
 眉間に皺を寄せて考え込む阿笠を見て要するに江戸川コナンと大して変わらない生意気な少年だったのだろうと哀は結論付けた。
 「10年後の彼が想像できるわ」
 そう続ける哀に阿笠は今度は大きく笑った。確かに10年経ったくらいで人間の本性はそんなに変わるものではない。それこそコナンや哀の倍以上生きて来た阿笠自身が自らを省みてそう思う。そして10年後もおそらくそんなに変わっていないのだろう。さすがに先日、ツインタワービルで乗った10年後の顔を予想するゲーム機の結果ほど変わらないという事はないだろうが……
 と、そこまで考えた時、阿笠はふと先日来の疑問を哀に尋ねてみる気になった。
 「哀君はツインタワービルにあった10年後の顔を予測する機械を知っておったのではないかの?」
 阿笠の質問に哀は明らかに動揺し、呼吸を忘れたかのように硬直して阿笠を見つめた。
 「あの機械に乗せられた時、新一君はかなり焦っておったし、エラーが出た時も露骨にホッとしておったが、君はあまり動揺しておらんかったじゃろ?」
 「……」
 「君は原さんが組織と何らかの関係がある事に気付いておったんじゃろう。そうでなければ君が『ゲームに興味がある』などと言って原さんの家に行くのはおかしいからのう」
 「……まるで工藤君みたいね」
 哀は深く息を吐き出して肩をすくめ、苦笑する阿笠を安心させるように微笑んだ。
 「あのプログラムを作る時にデータを貸したのよ」
 まさか阿笠に気付かれていたとは思ってもいなかったが、隠すつもりもなかった。普段なら話し過ぎたと思ったかもしれない。しかし夕方、コナンと話したせいもあるのだろうか、今夜は阿笠に聞いてもらいたい気分だった。


 あれはいつのことだっただろう。組織が原の研究する人の10年後の顔を予想するプログラムに利用価値を見出し、その開発を援助する事になった。APTX4869の研究のためDNAと細胞の成長過程を研究していた哀は組織の命令で原に薬のデータを渡したのだ。
 いつもの組織のやり方だったらプログラムが完成した時点で原を殺していただろう。しかし、プログラマーとしての腕を惜しみ、組織がその後も原と関係を持ち続けているという噂を哀は耳にしていた。そして組織の出資企業である会社がスポンサーとなっていた映画に原が技術スタッフとして全面協力しているのを見てそれを確信し、何とか接触してAPTX4869のデータを手に入れようと原のマンションへ行ったが、彼は既に帰らぬ人となっていた……


 哀の話を最後まで黙って聞いていた阿笠はゆっくりと哀の頭を撫でると「よく一人でそこまで頑張ったのう」と優しく呟いた。その声に哀は涙が零れそうになる。本当は怖くて仕方がなかったが、姉の残してくれたテープを聴く事で何とか堪えていたのだ。
 「新一君を元に戻すためにいつもすまんの」
 解毒剤の開発に没頭する哀に阿笠はいつも感謝の言葉を掛けてくれる。解毒剤を作る事は自分の義務なのに。その為だけに今、この身体で生かされているという思いすらあるのに。それでも阿笠にそう言ってもらうだけで哀は充分報われたように思う。でもそれを素直に口にする事はできなくて。
 「工藤君を元に戻す事はあの薬を作ってしまった私の義務だから」
 ついついそんな言葉が口をついて出た。こんな掠れた声では自分の強がりなど阿笠には通じない事くらい分かってはいたが。
 「新一君はそんなふうに思ってはおらんよ。確かに元の身体を取り戻したがってはいるが、哀君の重荷になる事など望んでおらんはずじゃ」
 「重荷だなんて…そうじゃないの。今の状態で工藤君が苦しんでいる事の方がずっと辛いの」
 少し肩の力を抜いて欲しい、そういう気持ちを阿笠が持っている事は知っている。それでもたとえどんな事をしても解毒剤を作りたかった。身体を酷使する事以上に偽りの姿で目の前にいる工藤新一を見る事の方が辛かった。
 「いつも真実だけを見つめようとしている彼が周りの全ての人を欺いている姿を見るのが苦しいの。犯人の嘘を暴きながら一方で一番大切な人に嘘をつく事で彼が自分を責めているのを知っているから……工藤君、探偵事務所に電話をした後、いつも疲れたような顔をしてるでしょ?それは全部私のせいなの」
 「哀君……」 
 阿笠に悲しそうに名を呼ばれ哀は弱々しく微笑んだ。
 「最初は工藤君の事傲慢だって思ってたわ。いつだって自信過剰で、人の罪を暴いて何様のつもりなんだって。でも最近、それは彼の強さだって気付いたの。だって彼は絶対に諦めないでしょう?私はいつも諦めてばかりいたから…だからあの強さが眩しい……」
 少し遠くを見てそういう哀を阿笠は黙って見つめていた。
 阿笠の目から見ても出会った頃の哀は明らかにコナンに対して反発を持っていたし、コナンも哀に対して決して友好的とは言えない態度で接していた。
 最初に変わったのはコナンの方だった。社交的な両親や事件の影響で色々な人や物事と接してはいたが、やはり生活の基盤は両親や幼馴染をはじめとした一高校生に過ぎない工藤新一と、常に大人達に囲まれて自分の能力だけで生きてきた宮野志保では視点が大きく異なる。そんな哀との出会いはコナンにとって大きな刺激だったはずだ。子供の頃から彼を見て来た阿笠は哀と出会い、自分の未熟さとともに彼女を受け入れていくコナンの成長を驚きと喜びを持って見つめていた。一方で強がってはいるが、精神的な弱さを抱える哀がコナンの強さに感化され、徐々にではあるが前進しようとしている事もまた阿笠は気付いていた。
 「工藤君の輝きは私のせいで今は偽りでしかない……でも、必ず彼を元の身体に戻してみせるわ。だって私、本当の工藤新一の輝きを見てみたいもの」
 「彼には内緒よ」そう照れくさそうに笑う哀に阿笠もウインクで応える。
 「それにしても哀君にそこまで思われておるとは……新一君は幸せ者じゃのう」
 面白くなさそうに呟く阿笠が子供のようで哀は耐え切れずに笑ってしまった。阿笠も一緒に笑いながらこの不器用な子供達が互いに助け合いながら成長してくれる事を心から願っていた。