Side AI


(どうしてこんな事になっちゃったのかしら…?)
カウンターテーブルに2人分の食器を用意しながら哀は戸惑ったような表情を浮かべた。キッチンでご機嫌に鼻歌など歌っている平次に見られたら「そんな顔してたら幸せが逃げてしまうで」と、からかわれるに違いない。
なんだか最近、この陽気な大阪人に上手く乗せられているような気がして仕方なかった。


江戸川コナンが『工藤新一』に戻って数ヶ月、元の身体を取り戻した新一は小さくなっていた時間を取り戻すかのようにあちこち飛び回っては相変わらず事件に巻き込まれていた。
解毒剤を渡す際、「週に一度の定期検診は欠かさないように」と哀があれほど釘を刺したにも関わらず、約束した検診時間に阿笠邸に現れたのは最初の1、2回に過ぎなかった。あまりに予想通りの展開に半ば諦めつつ、それでも哀は検査の日にはいつ新一がやって来てもいいよう阿笠邸で待機せざるをえなかった。
そして。時を同じくして毎週のように「工藤が帰って来るまで待たせてや〜」という決まり文句とともに阿笠邸に現れるようになったのは西の高校生探偵、服部平次だ。
あまりに頻繁に現れる平次に哀が理由を尋ねたところ、返ってきたのは「検診の日やったら工藤が家にいるから泊めてもらえるやん」という答えだった。その返事に釈然としない思いは拭えないものの、家主である阿笠が賑やかな平次の来訪を快く思っている以上邪険にはできない。結果、哀はほとんど毎週、新一がやって来るまでの数時間を平次と過ごす羽目になっている。
 
 
昨日も例によって阿笠邸を訪れていた平次だったが、出先で密室殺人に巻き込まれたという新一がとうとう帰って来なかったためそのまま阿笠邸に泊まる事となった。新一から知らせを受け、ちゃっかり外出中の阿笠にメールで了解を取り付ける平次の手際の良さとそれを許可する阿笠の人の好さに哀が黙って頭を抱えたのは言うまでもない。
「晩飯までご馳走になって悪いなぁ。あ、俺は納豆以外やったら嫌いなもんはあらへんで」
全く悪いと思っていない態度の平次に冷たい視線を送りつつ、哀が夕食の準備を始めたちょうどその時、阿笠邸の電話が鳴った。
「はい、阿笠です」
「おお、哀君。すまんが今夜は帰れそうもなくてのう……何でも事故があったそうで電車が止まってしまったんじゃ」
「え…?」
戸惑いのあまり目をしばたかせた瞬間、哀の手から受話器が消える。
「そりゃ大変やな。せやけど……オレ、今夜の宿どうしたらええねん?じーさんおらへんとなるとここに泊まる訳にはいかへんし……」
「確かに哀君と君を一つ屋根の下に泊める訳には……そうじゃ、新一君の家の合鍵を預かっておるからそちらに泊まりなさい。新一君にはワシから連絡しておくよ。それはそうと、ここのところ米花町で物騒な事件が多くての。哀君をずっと一人にするのは心配じゃし、寝る時間まで一緒におってやってくれんかの?出来れば明日の朝も一緒に食事を摂ってやってもらえると有難いんじゃが……」
「ほなそうさしてもらうわ。ねーちゃんの事はこの服部平次に任せとき」
その後、阿笠邸のリビングには上機嫌の平次と深い溜息をつく哀の姿があった。 


そして迎えた翌朝。
「へえ……凄いじゃない」
出来上がった朝食を前に哀は感心したように呟いた。ご飯、味噌汁、青菜のおひたし、玉子焼き、鯵の干物とテーブルの上に所狭しと並んだ献立は平次が「朝飯くらい作らしてや」と用意したものである。
「やっぱり朝は米の飯を食わんと力出えへんからな」
「私、朝からお米を食べるなんて初めてよ」
「へ?そうなん?」
「博士も私も遅くまで作業してる事が多いからお互いいつ起きても食べられるように朝食はパンにしてるの。組織にいた頃は三食食べる意識自体なかったし……」
「ふーん……ほな、もうちょっと豪華に作ったら良かったなあ」
今にももう一品作り出しそうな平次に哀は笑いながら「そんなに食べられないわよ」とテーブルについた。
向かい合わせに座り、「頂きます」と手を合わせて食事を始める。
関西風の薄味だが哀の口にも合ったようで、それを見た平次は満足そうに頷き、彼女の茶碗の二倍以上ある大きな丼の攻略にかかった。
片付けを二人で済ませ、リビングのソファに向かい合ってお茶を飲む。
「どうや?ご飯と味噌汁の朝飯っていうのも悪くないやろ?」
「たまにはね」
素っ気ない返事にも全く気を悪くした様子のない平次に肩をすくめると哀は湯飲みを手に取った。ほうじ茶の香ばしい風味が口の中に広がり、自然表情が緩む。次々と出される平次の話に時に辛らつな言葉を交えながらも哀も楽しげに答える。阿笠邸のリビングはいつしか明るい雰囲気に包まれた。
すっかり平次との会話を楽しんでいた哀はふと誰かと向かい合って食べる朝食などいつ以来だろうと考えた。深夜まで研究を続けているのは同じだが、小学校に登校する哀の朝は阿笠のそれよりずっと早い。朝食の時間は勿論、哀が家を出る時も阿笠は大抵布団の中である。組織にいた頃はたまに姉と会う時以外、誰かと一緒に食卓を囲んだ記憶すらない。
いつの間にかすっかり平次のペースに巻き込まれ、当たり前のように二人で向き合って朝食を食べている事に哀は驚いた。しかし、決して不快ではない。自分には縁がないものだと思っていた何でもない日常を自然体で過ごしている事実に、どうやらいつの間にか自分の中に平次の居場所が出来ていたのかと気付かされる。
お茶を口に運ぶ風を装って上目遣いで窺うと、視線に気付いた平次にニッコリを笑顔を向けられ、慌てて俯く。顔が赤く染まっているのが自分でも分かった。
(それにしても……)
新一がいない事を口実に毎週やって来る平次の遠回しな愛情表現に今更ながら気付き、どうしたものかと考える。簡単にそれを口に出せる程素直ではないが、目の前でニコニコ笑っている平次はそんな自分の性格さえお見通しなのかも知れない。
(探偵って思ったより狡猾なのかもしれないわね……)
哀は気持ちを落ち着かせるように息をついた。自分の気持ちを自覚したとは言え、平次と向き合うにはもう少し時間が必要な気がする。
(しばらく工藤君には口実になってもらいましょうか…?)
新一の事件吸引体質も役に立つこともあるものだと哀は小さく苦笑した。