夏休みの午前中のほとんどを小嶋元太は両親が営む酒屋の店内で過ごしている。扇風機がぬるい風を掻き回しているだけの自室よりクーラーの効いた店内にいた方が涼しいし、色々な食べ物や飲み物が並んでいる店の雰囲気が食いしん坊の元太には堪らなかった。
開店してすぐの店内でいつものようにカウンターの端の椅子に座り、携帯ゲーム機で遊んでいると、自動ドアが開いて客の入店を知らせる音が鳴る。
 「いらっしゃい!」
 元気に椅子から飛び降りて入り口に体を向けると、ちょうど入って来た灰原哀と目が合った。
 「なんだ、灰原じゃねえか。珍しいな、何か買いもんか?」
 「ええ、いくつか注文があるんだけど……」
 「じゃあ母ちゃん呼んで来るな!」
 話を最後まで聞かず、クルリと背を向ける元太の後を哀はゆっくりと店の奥に入って行った。
 哀が小嶋酒店に買い物に来ることは滅多にない。米花町周辺には昨今流行の郊外型の大規模なショッピングモールがなく、近隣住民は大抵この駅前商店街で買い物を済ませている。だが、哀はこの商店街が苦手だった。滅多に外出しないこれまでの生活では買い物はほとんどコンビニやネット通販で済ませていたため、個人商店独特の距離感が馴染めなかったし、何より数度利用しただけで顔を覚えられたり、声をかけられたりすることには戸惑いを感じた。組織の追跡を考え、自分が誰かの記憶に残ることを極力避けたいという思いも勿論あったが、本当は普通の子供のようにこの町や人に溶け込んでいくことに居心地の良さを感じることが怖かったのかもしれない。だから普段は商店街での買い物はできるだけ阿笠に頼んでいたのだが、その阿笠が数日前から出かけているため、この日は久しぶりに自分で買い物をすることになったのである。
 「おはよう、哀ちゃん、久しぶりだね。お使いかい?偉いねえ」
 店の奥から出て来た元太そっくりの体型の母親はこれまた彼そっくりの笑顔を哀に向けた。
 「……おはようございます」
 哀はどう返していいか分からず、とりあえず小さく頭を下げた。思えば自分がこの町にとって危険な存在であるにもかかわらず、この商店街の住人は優しい笑顔を自分に向けてくれる。勿論、商店街の端にある探偵事務所の彼女も……

 「うーん。ちょっと量が多いから哀ちゃん一人じゃ持って帰れないだろうねえ。今日は父ちゃんも夕方には帰るって言ってたから、夜でいいなら配達してあげるよ」
 注文を聞き終えた元太の母の申し出を哀がありがたく受け、代金を払おうとしたその時、店の電話が鳴り響いた。
 「母ちゃん、商店街の会長さんから電話だぞ。何か急ぎの用だってさ」
 元太の声を聞いた哀が元太の母に先に電話に出るように言うと、彼女は何度も謝りながら店の奥へと入って行った。それと入れ違いに元太が哀の側へ近寄って来る。
 「灰原ー、博士はまだいねえのか?」
 「ええ、明後日まで帰って来ないわよ」
 「チェッ、早く博士の新作ゲームやりてーな」
 「家はゲームセンターじゃないんだけど」
 じろりと哀に睨まれ、言葉に詰まった元太が誤魔化すように頭を掻く。その様子に自分の硬かった表情が少しだけ和んだことに哀自身、気付いていなかった。
 そんなことを話しているうちに奥から慌てた様子で元太の母が戻って来た。が、
 「元太、母ちゃん、今から商店街の会長さんの所に行って来るからね。その間、店番頼むよ!」
 それだけ言い残すと走って店を出て行ってしまう。
 「えー!店番なんてオレ一人じゃ無理だよ!オレ、算数苦手だし、絶対お釣りとか間違えるぞ!」
 叫びながら急いで母を追うものの、どうやらその声は全く聞こえなかったようだ。
 「どうすんだよぉ……」
 頭を抱えた元太が顔を上げるのと哀が思わず彼の顔を覗き込んだのはほぼ同時だった。嫌な予感に捉われ、視線を逸らそうとしたが時すでに遅し。
 「そうだ!灰原、算数得意だったな。授業中とかノートに変な計算書いてるしよ!」
 「あ、あれは…それに私、今日はちょっと用事があるし……」
 見られていたのか…と自らの迂闊さを少々反省しながらも、何とかこの状況を切り抜けようとする哀だったが、「なあ、頼むよ。店のアイス食ってもいいから一緒に店番してくれよ。オレ一人じゃどうしようもねえんだよ〜」と、涙目になりながら肩を掴んで頼まれるとさすがに断り切れない。
 「分かったわよ……」
 溜息とともに頷くと、哀は心の中ですっかりお馴染みとなったフレーズを吐き出した。