「ありがとうございました!」
 顔なじみの主婦を店の入口まで元気よく送り出した元太が額の汗を拭いながら店内へ戻ると、哀はレジのレシート用紙を交換しているところだった。
 二人が店番を始めて一時間近く経ち、哀もようやくペースが掴めてきた様で元太はホッと息をついた。口ではきついことを言いながらも責任感の強い哀は引き受けてくれた以上はきちんと手伝ってくれるだろうが、それでも人付き合いの苦手な彼女に客相手の仕事をやらせる事に少々気が引けていたのだ。
 日頃から元太は哀の気持ちが理解できずにいる。いつも不機嫌そうな顔をしているが、怒っている訳ではないようだ。文句を言いながらも自分達をさりげなくフォローしてくれている事も一緒に過ごすうちに段々分かるようになった。哀が転校して来た時は可愛らしい外見とは裏腹な愛想の無い態度に『ツンツン女』呼ばわりしたものだが、そんな気持ちを抱いた事すら単純な元太は忘れていた。今では探偵団の仲間として確かな友情と信頼を元太は哀に向けている。それでも無理やり巻き込んだ事を哀が怒っていないかどうか気になって仕方がない。
 「灰原、麦茶飲むか?」
 冷蔵庫から麦茶の入った冷水筒を取り出してコップに注ぎながら哀を見ると、哀は首を振って謝絶の意を伝えた。
 「今日はありがとな」
 コップの麦茶を一気に飲み干すと元太は照れ笑いを浮かべた。その様子に哀は一瞬キョトンとした表情を見せたが、すぐに視線を逸らせてしまう。
 「いいわよ、別に。夏休みで暇だったし」
 「でもお前、予定があるって言ってたじゃねーか」
 「……」
 「本当に悪かったな。でも母ちゃんが帰って来ねえとオレだけじゃ算数もレジもできねえし……」
 哀は申し訳なさそうに頭を垂れる元太に何と返すべきか戸惑っていた。哀の言う『予定』とはAPTX4869の解毒剤を作る事。それは何も今日に限った話ではない。解毒剤を作るという義務が自分にはいつも課せられている事は分かっている。だが、いくら研究を積み重ねても未だ完成形が見えない現状に、ここ最近哀は袋小路のような息苦しさをずっと感じていた。元太に頼まれ、慣れない店番をしている間はその苦しさをすっかり忘れてた事に今更ながらに気付く。そんな自分に戸惑いながらも、
 「別にいいって言ってるでしょ?」
 結局、それだけ言うと哀はクルリと背中を回してしまった。その様子に元太は更に困惑してしまう。
 「でもお前、怒ってるじゃねーか」
 「別に怒ってなんかいないわ」
 「そうか?けどよお、何か機嫌悪そうだし……」
 「そんなのいつもの事じゃない」
 「そりゃ…まあ……」
 その時、気まずい空気を断ち切るように一人の男性客が店に入って来た。どうやら常連らしく、入口近くに立っていた元太の頭をいきなり乱暴に撫でると、「おう、坊主、今日も元気そうだな」と笑顔を見せる。
 「おっちゃん、いらっしゃい!」
 「坊主、探偵ごっこの方はどうだ?」
 「探偵ごっこじゃねえ!少年探偵団だ!」
 「そうだったな。ちゃんと友達の落し物とか探してやってるか?」
 ガシガシと坊主頭を撫でながら笑う男に元太が必死になって抵抗する。その姿に哀は思わず苦笑した。
 (小学一年生が結成した少年探偵団の活動としては落し物やペット探しが妥当なところよね…)
 まさかその中に事件吸引という厄介な性質を持つ少年が属していて、彼らが普通ではない事件に数多く遭遇しているとはとても信じられないだろう。普通の小学生は凶悪事件担当の警視庁捜査一課の刑事達と顔馴染みになどならない。
 (ま、『普通の小学生』なんて知らないけど)
 自嘲の笑みをこぼす哀に元太が「おい、灰原」と彼女の方に振り返る。
 「お前も何か言ってやれよ!少年探偵団の名誉がかかってんだぞ!」
 元太の訴えに哀は「……確かにあんまり探し物みたいな依頼は来ないわね」と肩をすくめると、静かに男を観察した。短く刈り込まれた白髪交じりの頭は寂しくなってはいるが、良く日に焼けた顔とガッシリした体型から若々しい印象を受ける。乱暴な言葉使いとは裏腹に子供好きらしく、ムキになる元太を上手くかわしながら楽しそうに相手をしていた。
 男がさも今気付いたかのように哀に目を向ける。
 「お、今日は友達も一緒か。ずいぶん可愛い子だな。彼女か?」
 「そんなんじゃねえよ!灰原は同じ探偵団の仲間で店番手伝ってもらってるだけだっ!」
 元太をからかいつつ、自分を見やる男の視線を見つめ返しながら哀は居心地の悪さを感じた。それが眼鏡の同級生が時折見せる探偵の視線に似たものだという事に気付き、知らず握りしめた手に力が入る。
 「お譲ちゃんは灰原っていうのか。そんなに緊張しなくても取って食やしねえよ」
 男は警戒を露にする哀の前にしゃがみ込むと表情を緩め、先ほどの元太同様に頭を乱暴に撫でた。そのあまりの子供扱いにもかかわらず、不思議と不快感を抱かなかった自分に驚き、哀は逃げるタイミングを失ってしまった。が、次の瞬間、大人しく頭を撫でられる自分の様子を元太が意外そうに見つめている事に気付き、慌ててその手を払いのける。
 「ちょっと、初対面の女性に失礼なんじゃない?」 
 哀の子供らしからぬ言葉に男は驚いたような顔をしたが、「そりゃ失礼」と面白そうに呟いた。
 「それで?ご注文は何でしょうか?」
 「缶ビールを1ケースといつもの焼酎を届けてくれねーか?」
 「配達はここのご主人が帰られる夕方以降になりますけど」
 「ああ。今日中ならいつでも構わんよ」
 「分かりました」
 先ほどからの男の態度が癪に障り、哀はわざと事務的に話を進めた。
 「小嶋君、常連さんみたいだけどこちらのお客様のデータはどこかしら?」
 「そこの名簿にねーか?」
 「私、このお客様の名前、知らないんだけど」
 「あ、そっか。えっと、おっちゃんの名前は……そういやオレも知らねー」
 「だったら直接聞くしかなさそうね」
 非難するように溜息をつく哀に小さくなった元太を見て男が取り成すように名乗った。 
 「俺は二村信吾。家は駅の向こう側のアパートだ。ここのオヤジさんなら名前を言えば分かるさ。それよりお前ら、こんな事でケンカするんじゃない」
 「別にケンカなんかしてねーよ」
 二村はすかさず抗議の声をあげる元太とバツが悪そうに俯く哀の頭を交互に撫でるとニッコリ笑った。
 「店番も捜査も一番大切なのはチームワークなんだからよ」
 「なんだよ、さっきは『探偵ごっこ』って言ったくせに…!」
 「少年探偵団の活躍は目暮達から聞いてるよ。警察顔負けの大活躍なんだろ?団長の元太に大人顔負けの頭脳と行動力を持つコナン君、ちょっと理屈っぽい光彦君におませな歩美ちゃん、そして賢くて冷静な女の子…哀ちゃんって言ったか?」
 二村の口から出た意外な言葉に二人が驚いて目を丸くすると、
 「俺はこれでも2年前に定年退職するまでは警視庁捜査一課の刑事だったんだぜ?」
 悪戯っぽく笑って不器用なウインクをしてみせる。
 「じゃあオレ達探偵団の事、知っててからかってたのか?」
 「スマン、スマン。坊主があんまり自慢げに探偵団の話をするからつい…な」
 二人の会話を聞きながら哀は二村が見せた探るような視線の理由が分かり、ホッと息をついた。いくら組織の匂いが無いからといって用心に越した事はないのだ。一見、普通の小学一年生でも観察されれば簡単に剥がれてしまうメッキに過ぎ無いのだから。
 黙ってしまった自分を心配そうに見つめる元太に小さく微笑むと、哀は
 「それじゃあ二村さん、お会計をお願いします」
 と、レジの前へと移動した。
 二村は会計間際に思い出したように『蓮華』という名の日本酒を追加で購入し、一緒に配達するという申し出を断ると、「それじゃあ仲良く店番してろよ」と二人の頭を交互に撫で、大切そうに酒を抱えて帰って行った。


 「店番はチームワーク……しばらくは二人で頑張るしかなさそうね」
 二村を見送り、戻って来た元太に苦笑交じりに哀が声をかけると、元太は「おう!」と嬉しそうに頷いた。