二村が帰った後、ぱったりと客足が途絶えた。元太によると夏休み中、この時間帯は子供の昼食の準備などのためか比較的客が少ないのだという。
 とはいえ客がいなくても何かと仕事はあるもので、元太は店内の掃除やら商品の補充やらゴソゴソ動き回っている。哀は後で元太の母に報告しやすいよう、今までの顛末をレポートにまとめておく事にした。
 そんな哀を見て元太は
 「そっか、そうやってあった事を書いておくと『元太、あんた、また大事な事を伝え忘れたね!』って母ちゃんに怒られないで済むんだな。さすが灰原」
 と、しきりに感心している。
 「そうね。江戸川君も事件に遭った時は色々メモしてるわね」
 「そういえばコナンのヤツもいつも手帳に何か書いてるな。アイツも結構忘れっぽいのか」
 この元太の台詞をコナンが聞いたらさぞ苦虫を噛み潰したような顔をするだろう。そんな事を想像すると何だかおかしくなって来る。
 「忘れないためというよりは整理のためね。こうやって文字にしておくと頭の中で曖昧だった事がはっきりするものなのよ」
 「そんな事しなくてもオレはいつもハッキリしてるけどなあ」
 「それは小嶋君の考える事が単純だからでしょう?」
 「わ、悪かったな……」
 拗ねたように口を尖らす様があまりに元太らしくて思わず小さな笑みがこぼれる。
 哀は机代わりに使っているカウンターに向き直り、広告やカレンダーの裏で作ったと思われる元太の母お手製のメモ帳に向かった。いつものように左手で頬杖をつき、鉛筆の後ろで紙を数度叩くと、朝からの出来事を整然と書き連ねていく。


 志保は組織にいた頃、自分の研究について手書きで詳しいレポートを残すようにしていた。それは実験の手順や経過は勿論、仮説にもならないような単なる思いつき、更にそれを思いついた環境や時間帯といった細部にまで渡るものだった。『頭の中を整理するため』というのは勿論だが、それ以上に自分が生きた足跡を少しでも残しておきたかったのだ。
 きっかけは残された両親の記録を元にAPTXの研究をするようになった事。両親は開発中の薬に関する膨大な資料やデータを残していたが、それとは別に数冊の大学ノートを研究の詳細な記録として残していた。最初はただの研究記録としか見ていなかったが、何度も読み返すうちに父、厚司の細かい字で書かれた丁寧な記録と緻密な計算からは几帳面な性格が伝わって来たし、母、エレーナの読み易い文字からは大らかな人柄が感じられた。そして何より研究者としての日々の裏側にある二人の日常生活が伝わって来た。
 組織から両親について教えられた事と言えば「マッドサイエンティスト」や「ヘルエンジェル」などと、決して印象が良いとは言えない呼称で呼ばれる高度な化学者だったという事だけで、歴史上の人物の伝記を聞かされているような感覚でしかなかった。しかし、残された大学ノートには宮野厚司とエレーナという二人の化学者が確かに存在していた事が克明に記され、彼らが生きて、実際に研究していた様子がありありと浮かんで来た。だからといってその二人が自分の両親だという実感は持てなかったが・・・
 それでもその大学ノートから受ける生存記録とでも言うべき存在感は薬を開発する事だけが存在意義とされた当時の志保の感傷を刺激するには十分だった。
 あの頃、志保は明美という例外を除いて組織以外の人間と接触する事などほとんどなく、そんな毎日を送っていれば自分が生きていた証など何も残らないだろうという空虚感を抱えていた。今から考えると化学者としてAPTXを完成させる事でその虚しさを埋めようとしていたのかもしれない。
 志保が両親の残した大学ノートをヒントにパソコンで管理するデータや報告書とは別に手書きのレポートをまとめ始めたのはその頃の話だった。組織には一種のバックアップとして有効だと主張すると拍子抜けするくらい簡単に許可が出た。始めてみると少し工夫すれば明美と会う日を特定できるように記録する事もできた。遠く離れて暮らす明美に書く手紙は検閲され、内容を厳しく規制されていたが、研究に関する記録ならば検閲されたところでその必要性は志保にしか分からない。日記というにはあまりに無機質な内容だったが、それはやがて成果だけを求められ、考察と実験に追い立てられるシェリーとして過ごす毎日の中で少しづつ磨り減っていく『宮野志保』という存在を確認するための行為となっていった。
 もしかしたら父と母も自分と同じような気持ちで大学ノートを綴っていたのかもしれないと思うと、顔も思い出せない両親が少しだけ近く感じられた。
 
 あの書き溜めた膨大な記録はどうなったのだろう。組織を抜け出した後、処分されてしまったのだろうか?
 あのレポートの事を思い返すだけで哀は息苦しくなる。すがるような思いで綴った記録だったが、自分の罪の全てがあの紙の束の中にある。そう思うとその存在が恐ろしくもあった。
 そういえばジンは事あるごとに志保の行為はあまりに非効率だと批判していた。「他人のやり方に口を出さないで」と、頑として言うことを聞こうとしない自分を「勝手にしろ。後で苦しむのはお前だ」と、冷めたい目で見下していた。志保自身は毒薬を開発するつもりでAPTXを研究していた訳では勿論なかったが、ジンを始めとする組織の構成員が開発途中のそれを使って殺人を繰り返していた事が後々薬の開発者である自分を一番苦しめる事になるとあの男が気付いていたのかと思うと、怒りと悔しさに知らず身体が震えた。
 しかし、その一方で哀があの記録を喉から手が出るほど欲っしている事も事実だった。実験結果の数式や記号の蓄積されたデータだけでなく、APTXを生成するための試行錯誤が全て書かれているのだ。解毒剤の開発のためにどれほど役に立つか測り知れない。それに明美が亡くなり、本来の姿を失った今、宮野志保の存在を証明するものはもうあの記録しかないのだ。それに気付いた時、そんなものに頼らなければ自分の存在に自信が持てない滑稽さに涙が出そうになった。
 組織の手で処分されていたらいいのに…と願う反面、どんな事をしても取り戻すという決意もある。その背反する想いに哀は小さな溜息をついた。
 
 
 目の前で掌が左右に振られ、驚いて顔を上げると元太がキョトンとした表情で突っ立っている。
 「何ボーっとしてんだ?」
 どうやらいつの間にか上の空になっていたらしく、鉛筆を持つ手も止まっていた。
 「別に…」
 いつものそっけない態度で元太の質問をかわす。余計な事を聞かれる前に作業を終わらせてしまおうとしたその時、哀の目の前からスッとメモ帳が消えた。
 「ちょっ…!小嶋君、何するの?まだ途中よ」
 「いーじゃねえか、見せてくれたって…って、こんな漢字ばっかじゃオレには読めねーな……」
 哀の抗議の声を無視してメモに目を落とす元太だったが、まだ漢字を習い始めたばかりの小学一年生にそこに書かれた文字が読めるはずもなく、面白くなさそうに投げ返して来る。
 「あなたが読むために書いている訳じゃないから」
 「二人で店番してるんだからオレがやってる事もきちんと書いてくれてるよな?」
 どうやら元太は哀が母親に自分の事をどういう風に伝えるのか気にしているようだ。
 「ご心配なく。来店されたお客様の事を書いているだけよ」
 「本当か?」
 「そんなに気になるならあなたも自分がやった事を書き留めておけばいいじゃない」
 哀の冷たい返事に元太はバツが悪そうに彼女から視線を逸らす。
 「そういう事言うなよな。お前、オレが宿題の絵日記もまだ描いてないって知ってるだろ?」
 「そういえばこの前、吉田さんに『いい加減に書かないと小林先生に怒られるよ?』って心配されてたわね」
 揶揄するような台詞に怒り出すものとばかり思っていたが、元太はハーッと大きく息をつくと哀の隣の椅子に腰を下ろした。予想外の反応に哀は思わず目を丸くする。
 「小嶋く…」
 「オレだって宿題なんだからやろうとは思ってるぜ?けどよお、すっげー楽しかった事も絵とか文にすると何か嘘っぽくなるんだよなぁ」
 「え…?」
 「この前、キャンプに行った時の事を描いたんだけどよ、いくら描いても全然楽しそうじゃねえんだ」
 「日記なんて一種の記録なんだもの。『行った』という事実が分かればそれでいいんじゃないかしら?」
 哀のしごくもっともな説明にも元太は納得いかない様子である。
 「大体何で絵日記なんて宿題があるんだろーな?」
 「夏休みに何があったか先生に報告するためなんじゃない?あと、楽しい思い出をいつでも思い出せるように描かせるんだと思うけど?」
 「けどよ、オレの思い出はオレだけのもんだし、もし忘れたって楽しかったのは事実なんだからそれでいいじゃねーか」
 頭の後ろで手を組んで天井を見上げながらぼやく元太を驚いたような表情で哀は見つめた。
 「何だよ?」
 そんな哀の視線に気付いたのか、元太が訝しげに首を傾げる。
 「小嶋君がそんな事言うなんてちょっと意外だったから。だって楽しい思い出はいつまでも覚えておきたいものなんじゃないの?」 
 「そうか?だって先週『土用の丑』ってヤツで食ったうな重が美味かったって事は覚えてるけどよ、その前にいつ食ったかなんて忘れちまってるぜ?」
 そこまで話して元太はうな重の味を思い出したのか慌てて手で口元を拭った。
 「でもオレはうな重が美味かった事をちゃんと覚えてるし、うな重が大好きだって事は変わらねえ。だったらいつ食ったか忘れちまっても大した問題じゃねーだろ?」
 その無茶苦茶だがいかにも元太らしい理屈を哀はあっけに取られて聞いていた。
 「それに『丑の日』にうな重を食ったから夏バテしないでこうやって元気でいられるんだからよ、忘れても『食べた』って事が消える訳じゃねーし」
 そこまで聞いたところで哀は笑いを堪え切れなくなり、思わずプッと吹き出した。
 「何だよ!笑う事ねえだろ!?オレは真面目に話してんだぞ!」
 元太の抗議も虚しく哀の笑いは止まらない。
 「だ、だって…小嶋君の理屈って訳が分からないんだもの……」
 自信を持って言い切る元太の顔を見ているうちに記録や記憶にこだわっていた自分が馬鹿らしくなって来たのだ。そんなものに頼らなくても、シェリーでも宮野志保でも灰原哀でも今、ここに存在している事は確かではないか。今、この時がこれまで過ごして来た日々の延長線上にあるのだ。単純だがきっとそれでいいのだ。
 (小嶋君の単純明快なペースに乗せられているような気もするけど…)
 しかし、そんな自分は嫌いではない。そう思うと少し肩の荷が軽くなったような気がした。
 最初は頬を膨らませていた元太もいつの間にか笑い出し、しばらく店内は二人の明るい笑い声に包まれた。


 「あら、随分楽しそうね」
 その時、小嶋酒店に新たな客がやって来た。