「あら、随分楽しそうね」
 そんな台詞とともに店に入って来たのは大きな瞳が印象的な老婦人だった。
 「いらっしゃい!五藤のおばちゃん」
 反射的に振り返った元太が嬉しそうにその女性に近付いて行く。
 「コラ、『おばちゃん』じゃなくて『栞さん』でしょ?」
 元太の頭を軽く小突き、視線を合わせるようにしゃがみ込む栞と名乗ったその女性に哀は好感を抱いた。小さな身体になって初めて気付いた事だが、大人と子供の視線の高さは随分違う。大人が立ったまま話をすると子供からは見上げる形となり、威圧感を感じずにはいられなかった。だから話をする時、目線を合わせてくれる事はとてもありがたいのだが、実際に膝を折ってまで視線を合わせてくれる大人は少ない。日頃からコナンや哀、探偵団に好意的に接してくれる蘭や捜査一課の面々であっても話し掛けて来る声は大抵の場合上からである。
 元太は栞にとても懐いている様子で
 「あ…そうだ、栞さんだっけ」
 バツが悪そうな表情で頭を掻くとペロッと舌を出した。栞は前掛けをしてタオルを頭に巻いた酒屋の若大将といった出で立ちの元太を面白そうに眺めている。
 「今日はお手伝いなの?」
 「ああ、母ちゃんが急に出掛けちまってさ」
 元太の説明も三度目となると流石に要領が良い。栞も聞き上手なのだろう、話の合間に上手く相槌を打ちタイミング良く質問する。そんな栞を相手に元太の話にも益々熱が入り、身振り手振りを加えながら朝からの出来事を一生懸命話して聞かせた。
 「じゃああの可愛いお嬢さんが一緒に店番をしている灰原さん?」
 「おう、オレ達探偵団の仲間なんだぜ」
 元太が満足そうに頷くと、「おい灰原、お前もこっち来いよ」と哀に手招きする。栞と視線がぶつかり思わず手元の伝票に視線を落とした哀だったが、このままの状態でいるのも不自然だと判断し、心の中で小さな溜息を落とすと二人の傍まで歩いて行った。
 「こんにちは、灰原さん」
 「……こんにちは」
 正面から見つめられ、反射的に視線を逸らすように俯いてしまう。
 「本当に可愛いわね。お人形さんみたい」
 栞はそんな哀の反応に気を悪くした様子もなく、今度は彼女にあれこれ話し掛けて来た。その様子に哀はホッと息をつく。店番として働いている以上、客に不快感を与える訳にはいかない。栞が「子供のくせに愛想がない」などと文句を言うような客ではない事は元太とのやりとりから分かっていたが、それでも人見知りな自分が店番をやる事に不安を拭い切れずにいたのは事実だった。
 「それにしてもまさか噂の哀ちゃんにこんな所で会えるとは思わなかったわ」
 「えっ…?」
 予想もしていなかった栞の言葉に哀の声が上擦る。まさかこの老婦人が組織に関係がある人物とは思えなかったが、それでも動揺する様を露にしてしまった事に内心舌打ちする。すっかり平和ぼけしてしまった自分に改めて驚き、平静を装う事もできない。
 「フフッ、あなたの事は歩美ちゃんからよく聞かされているのよ」
 栞は哀の動揺に全く気付いていないようで、彼女が驚く様子に悪戯っ子のように微笑んだ。
 「吉田さんから?」
 「ええ。私、ケーキ屋をやっているんだけど、歩美ちゃんはお得意様でね。いつも学校で起こった事を色々聞かせてくれるのよ。もっともここ最近はあなたや探偵団のみんなの話ばかりだけど」
 「ケーキ屋さんって……ひょっとして『シャトレ』というお店ですか?」
 「あら、知ってたの?」
 今度は栞が驚いたように目を丸くする。その様子に元太が「なんだ、灰原も知ってたのか」と残念そうに呟いた。
 「ええ。吉田さんの家で何度か御馳走になった事があるから名前だけ……」
 「この商店街の端っこに店があるんだ。もっとケーキが大きければ文句ねえんだけどな」
 「そんなに小さくないよ。大体、一度に三個も食べる大食いが何言ってるの」
 「三個って……小嶋君、流石にそれはちょっと食べすぎなんじゃない?」
 二人の容赦ない突っ込みに元太は「そ、そうか?」と明後日の方向へ視線を向けてしまった。
 「哀ちゃんはレアチーズが好きなのよね?」
 「え、ええ…それも吉田さんから聞かれたんですか?」
 「そうよ。歩美ちゃん、いつも『哀ちゃんが遊びに来るの!』ってレアチーズを買いに来るから私も覚えちゃったの」
 哀はいつもレアチーズを並べて嬉しそうに微笑む歩美の顔を思い出し、胸が温かくなるのを感じた。自分がレアチーズが好きだと言った事を覚えていてわざわざ用意してくれていたとは夢にも思っていなかったのである。
 「あの…吉田さんはどんなケーキが好きなんですか?」
 「歩美ちゃんは…そうねえ、やっぱり苺ショートかしら」
 次に歩美が阿笠邸へ遊びに来る時は苺ショートを用意しておこう、そんな哀の気持ちを見抜くかのように栞は「哀ちゃんも今度買いに来て。苺をオマケしてあげるから」と、小さくウインクして見せた。


 話し好きだが聞き上手でもあり、適度な距離感を保ってくれる栞に哀もさほど緊張せずに会話を進める事ができた。三人の話が最近探偵団が出掛けたキャンプの話題で一段落したところで本題となり、栞がケーキの材料のリキュール類をいくつか注文する。
 「バニラビーンズ、カルーア、キルシュワッサー、ラム、グランマニエ……以上でよろしいですか?」
 「ええ、後は……」
 栞は一呼吸置くと二人を連れてワインが並んでいる棚へと移動した。
 「私はあんまりお酒は飲めないんだけど旦那がワイン好きでね」
 そう言いながら棚を眺め、一本のビンを手に取った。ラベルには「Le bouchon de cristal(水晶の栓)」と書かれている。フランス産の白ワインだ。白ワインの透明な色とフランスが生んだ大怪盗、アルセーヌルパンの傑作小説のタイトルをかけたネーミングに東洋のルパンに毎回煮え湯を飲まされているホームズ贔屓の名探偵を思い出して、彼なら決して買わないであろう商品名に哀は小さく苦笑した。
 「私、ルパンが好きなのよね」
 そう呟いてラベルを眺める栞を哀は興味深く眺めた。そういえば彼女の店の名前、「シャトレ」はパリにある広場の名前だし、ケーキ屋を開業しているとなると若い頃フランスで修行していたのかもしれない。
 「ちょっと洒落が効きすぎているような気もするけど……これにするわ。このワインは持ち帰るから別にお会計してくれない?」
 「分かりました」
 「毎度!」
 哀と元太が頷いた時、タイミングを見計らったかのように携帯が鳴った。栞が「よろしくね」と笑顔を見せると携帯を取り出し、店の外へと向かう。どうやらあまり聞かれたくない会話らしいと察し、哀はレジ、元太はワインを包装するためそれぞれ店の奥へと戻って行った。