会計を済ませた哀が視線を店の外へ向けると、栞はまだ電話で話している様子だった。他に客が入って来る様子もなく、手持ち無沙汰に三ツ矢と栞の注文伝票と在庫表を眺めていると、商店街の一個人商店にすぎない小嶋酒店の品揃えに驚かされる。
 「……この店、本当に色々な種類のお酒を扱っているのね」
 商品を陳列していた元太が哀の方に振り返ると、「商店街の店はほとんどオレん家から酒を仕入れてるからな!」と、誇らしげに胸をはった。
 「この商店街って何軒くらい店があるの?」
 「駅の表と裏を合わせて全部で100軒くらいだと思うぞ」
 「そう……」
 「色んな店があるんだぜ。鰻屋だろ、焼肉屋だろ、洋食屋だろ 、それから…ケーキ屋!」
 「……どうやら小嶋君の頭には飲食店以外の店は記憶されていないようね」
 哀の呆れたような口調に元太は照れたように頭を掻くと、「仕方ないだろ。どの店もメチャクチャ美味いんだからよぉ」と、名前を挙げた店の味を思い出したか、垂れそうになった涎を前掛けで慌てて拭った。
 「それにしても……これだけ大きな商店街だと会長さんも大変でしょうね。あれから随分経つけど一体何があったのかしら?」
 元太の母が商店街の会長に呼び出され、店を飛び出してから既に3時間近く経とうとしている。これだけの長い時間、小学生の息子に店番させるのはどう考えても不自然だ。
 「そういえば会長さんってどんな人なの?」
 「ん〜……優しい爺さんって感じかな。『子豹堂』っていう古本屋があるだろ?あの店の店主が会長さんだ。前は和夫さんっていう弟の店だったらしいんだけど、30年位前に亡くなったらしくて今は兄貴の会長さんがやってる、って母ちゃんが言ってたぞ」
 「ああ、あの店……」
 「そういえば最近、身体の調子が良くないみたいであまり見てねーな。店も閉めてることが多いしよ」
 子豹堂は最近増加傾向のフランチャイズ展開している大規模な『新古書店』とは違い、昔ながらのいわゆる『古書店』である。この手の店は店主の鑑識眼によって品揃えが偏る傾向にあるが、子豹堂はかなり広範囲の種類の本を扱っており、化学や薬学関係を始めとした専門書も多いので哀も阿笠と何度か利用したことがあった。店主は子供の哀が難しい本を手に取っても特に何も言わず、いつも穏やかな表情で店の奥で本を読んでいた。確か名前は一場孝道とかいったか……。
  そういえば小嶋酒店に来る時、子豹堂の前を通ったが店は閉まっている様子だった。もう少し待って何の連絡も無ければ一度見に行ってみようか……哀が元太にそう提案しようとしたその時、「ごめんなさい、随分待たせちゃったわね」と栞が店内へ戻って来た。その声に哀と元太が視線を上げると彼女の背後で何やら大きなものが動き、一瞬周囲が暗くなる。
 「な、何だ?」
 「……!」
 緊張したのも束の間、「おー、涼しいな。生き返るぜ!」という声がしたかと思うと、真っ黒に日焼けした熊のような大男が汗を拭きながら店の中へ入って来た。その風貌に似合わずワイシャツにネクタイといったきっちりした格好をしているが、流石に暑いのだろう、上着は脱いで右手に鞄と共に抱えている。
 「……なんだ、栄吉さんか。驚かすなよな」
 「おい元太、『なんだ』とはご挨拶だな」
 「あんたみたいな大男がいきなり入って来たら驚きもするわよ。小さな女の子もいるのに威嚇してんじゃないよ」
 元太を見下ろす格好になっている栄吉の背中をはたくと、栞はクルリとその身体を哀の方に向けさせた。
 「ゴメンね、哀ちゃん。ビックリしたでしょ?この人、うちの旦那なのよ」
 「『哀ちゃん』っていうのか。よろしくな」
 「ど、どうも……」
 しゃがみ込んで差し出して来るグローブのような手を遠慮がちに握り返すと栄吉がニカッと笑う。膝をついてなお店の照明を遮る巨体に威圧感は否めないものの、笑った表情はなかなか愛嬌がある。妻の清楚な雰囲気とは対称的に残念ながらあまりスーツが似合っているとは言えなかったが。
 「あなたもケーキ屋さんなんですか?」
 自分の手を握る大きな手を見つめて呟く哀に元太と栞が同時に吹き出す。その様子に栄吉がバツが悪そうに視線を逸らした。
 「フフッ、この人、見た目どおり不器用な人なんだけど、何故かケーキ作りは大好きなのよね」
 「けどよぉ、栄吉さんのケーキを売り物にしたらすぐに店が潰れちまうぜ?」
 「そこ!うっせえぞ!!」
 真っ赤な顔で吼える栄吉の迫力に哀は思わず首をすくめたが、 元太と栞はどこ吹く風といった様子である。外見と違いどうやら気の良い男のようだ。
 栄吉は二人を見て鼻を鳴らすと哀に向き直った。
 「確かに…見かけはいまいちかもしれんが味は結構いけるんだぜ」
 力説されても食べた事もないのに肯定も否定もできない。言葉を返さない哀に彼女がすっかり萎縮してしまったと勘違いしたのだろう。元太が慌てて「あ…灰原、それは本当だぜ。クリームや スポンジは栞さんが作ったのを使うんだからさ」と言葉をはさんだ。
 「……小嶋君、それ、フォローになってないんじゃない?」
 哀の冷静な突っ込みに更に憮然とした表情になってしまった栄吉に思わず栞が吹き出す。
 「哀ちゃん、この人、こう見えても弁護士なのよ」
 「おい栞、『こう見えても』ってのは何だ!」
 「だってあなたの風貌は贔屓目にも弁護士には見えないんだもの。弁護士っていうのはもっと…そうね、妃先生みたいに知的なイメージがなくちゃ」
 「ふん!弁護士は顔じゃねえんだよ!」
 漫才を始める五藤夫婦をあっけに取られて眺めていると、元太がニコニコ笑いながら「この二人、いつもこんな感じなんだぜ」と哀に耳打ちした。そして「栞さん、お勘定」とさりげなく切り出す。
 「ああ、ごめんなさいね」
 栞が苦笑しながら会計を済ませ、栄吉がワインと先日取り寄せ注文したらしい「Eagle's wing」というバーボンを受け取ると、哀と元太の手に可愛らしい袋を一つずつ乗せる。
 「差し入れのクッキーだ。二人ともこれ食ってもうちょっと頑張れ!」
 「お、サンキュー!」
 大喜びの元太の横で貰っていいものか逡巡する哀の頭を栞が優しく撫でた。
 「さっきの電話でこの人に持って来てもらったの。哀ちゃん、元太をよろしくね」
 「ありがとうございます」
 哀はその言葉に素直に頷き、クッキーの袋をそっと手で包んだ 。
 「ありがとうございました」
 手を振りながら店を出て行く五藤夫婦を見送りながら、どうやらもう少し元太のお守りは続きそうだと内心溜息をつく哀だったが、いつの間にか店番を楽しんでいる自分に彼女はまだ気付いていなかった。