森の贈り物



 猛暑、酷暑と連日テレビ画面の向こう側で報道されていたのが嘘のように秋めいて爽やかな昼下がり。
 研究が一段落し、地下の自室からリビングへやって来た哀の目にこの家の主であり、現在彼女の保護者である阿笠がパソコン画面を熱心に見入っている姿が映った。
  「ふむ、『紅葉の美しい渓谷を一望でき、キャンプ場へも展望台から車で5分』……紅葉狩りというのも悪くないのう」
 どうやら今度の週末に探偵団の子供達を遊びに連れて行く場所を探しているらしい。孫のように可愛がっている彼らを喜ばせようと張り切る好々爺そのものの後ろ姿に知らず笑みがこぼれた。
  「博士、お茶にしない?」
  「おお、もうこんな時間か」
 ドリップした珈琲をカウンターテーブルに並べているとクッキーを盛った器を手に阿笠がニコニコとした笑顔でこちらへやって来る。
  「全く……甘い物は程々にしないと知らないわよ?」
 器の中身が減る量からも先日歩美と一緒に焼いたクッキーを阿笠が大切に食べている事は明らかで、哀は呆れたような口調とは裏腹に困ったような笑顔を浮かべた。


 それからどれくらい時間が流れただろう。珈琲のまろやかな香りとクッキーの甘い匂いに包まれた穏やかな午後のひとときを遮ったのは、パソコンの横に置かれたままになっていた阿笠の携帯電話だった。
  「もしも……なんじゃ新一君か。どうしたんじゃ?」
 どうやら相手はコナンらしく嫌な予感にとらわれる。
  (そういえば工藤君、一体いつになったらこの本の山を持って帰ってくれるのかしら……?)
 頭に浮かんだ「事件」という言葉を振り払うように、哀は机の上に無造作に積まれたままになっている推理小説雑誌の中から一冊を手に取ると、見るとはなしに頁をめくっていった。購入予定の本は既に決めてあるらしく所々チェックが付けられている。その冊数の多さに呆れていると電話を終えた阿笠が慌ただしく戻って来た。
  「どうやら新一の奴、またしても旅先で事件に巻き込まれたようじゃ。予備の追跡眼鏡を持って来て欲しいと言うんじゃが……何やら事件に薬品が絡んでおるそうで哀君も一緒に来て欲しいそうじゃ」
 根っからの坊ちゃん気質なのか、こちらの都合を全く忖度しないコナンに
  (工藤君の人使いの荒さは無意識なのかしら……?)
 と眉をしかめつつも阿笠に申し訳なさそうに頼まれては断る訳にもいかない。やれやれと肩をすくめると哀は薬品関係のデータベースが入ったモバイル端末を取りに地下室へ向かった。


 中央高速を二時間ほど走りインターを下りると都心より一足早く錦秋に彩られた山々が眼前に開けた。
 殺人があったという山荘から少し離れた所に車を停め、コナンに連絡を取る阿笠を横目に哀はパソコンを立ち上げると彼からメールで送られて来た事件の概要に目を通していった。
 被害者の症状から死因は典型的な毒キノコ、ドクツルタケによる中毒である事は明らかで、そのため警察は事故という方向で処理しようとしているらしい。その結論に納得できない名探偵はなんとか真実を暴こうと目下孤軍奮闘中のようだ。ドクツルタケの毒は遅行性で犯人の特定が困難なため、警察を留めながら成分分析や情報収集するのは無理がある。いいように使われるのは面白くないが、毒に関する調査を化学者である自分に丸投げして来たコナンの判断は正しいと言わざるをえない。
  (工藤君、この貸しは高いんだからね)
 心の中で独り言ちると哀は当該キノコや毒の主成分などを簡単にまとめ、コナンの携帯へデータを送信した。フッと肩の力を抜いた瞬間、ディスプレイに映るドクツルタケの白く美しい写真が目に止まる。
  (ドクツルタケ……通称デストロイング・エンジェル、『死の天使』……ね)
 口元に我知らず自嘲の笑みが浮かぶ。その様子に阿笠が「哀君…?」と何か言いたげな表情で顔を覗き込んで来た。
  「……博士に隠し事はできないわね」
 哀はフッと苦笑いすると重い口を開いた。

 
  「お前が宮野志保か?」
 ノックもせずいきなり部屋に入って来た長い銀髪の男はそれだけ言うと志保を冷たい視線で見下ろした。
  「ええ。それより……貴方、誰?」
 男が纏う氷のような空気に萎縮しそうになるのを懸命に堪える。声が震えずに済んだのは奇跡だった。
  「オレはジン。お前は今日からこの研究施設で宮野夫妻の跡を引き継ぐ事になる。聞いているな?」
 これまで冷酷非道という形容詞と共に何度か聞いた事のあるコードネームに志保は背筋に冷たいものが流れるような気がした。付き刺すような視線に気圧されまいと黙って頷き、正面から目の前の男を見据える。そんな志保の反応が面白くなかったのだろう、ジンが口元を酷薄に歪めると、
  「ふ……眼光だけは一端だな。さすがはあの女の娘というところか」
  「母を知っているの…!?」
  「ああ、よく知ってるぜ。『ヘル・エンジェル』……地獄に堕ちた天使を組織の幹部で知らねえ奴はいねえよ」
 幼い頃からしばしば耳にして来た母の異名に志保の顔が曇るのをジンは面白そうに眺めると新たな煙草に火を点けた。
  「……なるほど。あの薬を考案したのが『ヘル・エンジェル』なら完成させるお前はさながら『デストロイング・エンジェル』といったところか?」
  「『デストロイング・エンジェル』……『死の天使』?どういう意味?」
  「今に分かるさ」
 薄ら笑いと共に扉の向こうに消える長い銀髪を志保は黙って見送った。 


  「キノコの中でも高い毒性を持つドクツルタケ、まさかその通称が『死の天使』とは……私も最近まで知らなかったわ」
 話し終えると哀は車窓に広がる赤や黄色のカーペットに視線を向けた。ドクツルタケは人や動物に豊かな恵みをもたらす広葉樹の森林に紛れているという。愛らしい姿で秋の里山に溶け込んでいても実は異質で危険な存在――
  (まるで私の事ね……)
 幼い子供の姿で今の平和な生活にすっかり馴染んでしまいそうになる自分に対する警告のようなジンの捨て台詞を思い出し、小さく肩をすくめたその時、
  「哀君、『森はキノコが作っている』という話を知っておるかの?」
 突然そう切り出した阿笠に哀は「え…?」と驚いたように彼を見つめた。
  「君も知っての通りキノコのような菌類は落ち葉や倒木を分解し、無機質に戻して木々の育成を助けておる。そして分解の過程で発生する二酸化炭素は植物の光合成を助けておるんじゃ。更に菌類によっては木々に養分を運ぶ役割も果たしておる。森があるのはキノコのおかげなんじゃよ」
  「……」
  「じゃから毒とか必要ないとかそんなふうに思わんでくれんかの?今や君がいてくれるからわしや歩美君達の毎日があるんじゃから」
  「博士……」
 眼鏡の向こうで優しげに微笑む阿笠に哀は泣き笑いのような表情を浮かべる事しかできなかった。


 数時間後、事件を無事に解決したコナンが二人に合流した。
  「ありがとな博士、助かったよ」
  「いやいや、事件が無事に解決して良かったわい」
  「灰原も。スピード解決できたのはオメーのおかげだ」
  「貴方から感謝の言葉が出て来るなんて……明日は雨ね」
 悪戯っぽく呟く哀に「言ってろ」とぶっきらぼうな反応を返すコナンだったが、「そうだ、これ……」と思い出したように懐から封筒を取り出した。
  「何?」
  「礼…って訳じゃねーんだけどさ」
  「あらあら、雨どころか季節外れの台風でも来るんじゃないかしら?」
  「うるせー」
 コナンのふて腐れた顔にクスッと笑って封筒を開けると写真が数枚入っている。
  「被害者の娘さんがキノコ専門の写真家でさ、あんまり綺麗だから何枚か貰って来たんだ」
 『キノコ』という単語に心配そうな視線を向けて来る阿笠を安心させるように哀は黙って頷くと一枚一枚写真を眺めていった。カラフルなキノコの写真には毒キノコも混じっている。じっと見入る哀の手元を覗き込むとコナンは小さく肩をすくめた。
  「確かに毒キノコは食っていいもんじゃねえけどさ、森に生えているのを見て可愛いと思ったり写真を見て綺麗だと感じる人間は結構いると思うぜ?」
  「工藤君……」
  「ほら、この写真に写ってるキノコ、可愛らしく連なって歩美とオメーみたいじゃねーか」
  「………ありがとう」
 嬉しそうな表情になる哀とそんな彼女を優しい瞳で見つめるコナンを阿笠は満足そうに見守っていた。