1 その日、いつものように眠りの小五郎として事件を解決したオレがおっちゃん、蘭と共に依頼人の家を後にしたのは時計の針が午後3時を指そうという頃だった。 「毛利君、今回も見事な推理だったな!」 「いえいえ、あれしきの事件、この毛利小五郎に掛かれば何て事はないっすよ!」 「……」 目暮警部の賞賛におっちゃんが高笑いする。自分で解いた記憶もないクセによくもまあこんな自信満々な態度が取れるものだと半ば感心するのも果たして何度目だろう…? 「ホラ、コナン君、帰るよ」 蘭に促がされ、目暮警部に手を振ったその時、オレの目の前を一羽の蝶がヒラヒラと横切った。 「蘭姉ちゃん、綺麗な蝶々だね」 「え?蝶々?」 「ホラ、そこに……」 その蝶はまるで誘うかのようにオレの周囲をヒラヒラ舞っている。しかし何故か蘭の目には見えないようで、「コナン君、蝶なんてどこにもいないよ」と首を傾げてばかりだ。 (蘭には見えない?フッ…面白いじゃねーか) 好奇心が疼き、オレは蘭の制止する声も聞かずにその蝶を追い掛けた。 不思議な蝶に誘われ、辿り着いたのはビルの谷間に建つ和風と洋風を足して二で割ったような屋敷だった。 「何だ、この家…?」 不気味な佇まいにオレの頭の中で警報が鳴るが、どうしても探偵としての好奇心がそれを上回ってしまう。 住人に気付かれないようソッと門から邸内を覗き込んだ瞬間、見えない力に身体を敷地内へ強引に引き寄せられた。 「あ、ちょっ、待っ…!」 自分で自分の身体がコントロール出来ないという常識では考えられない事態に恐れを抱き、渾身の力で門にしがみつく。が、抵抗も虚しくいつの間にか眼鏡をかけた学生服の青年がオレをジッと見つめていた。 「あ、あの…友達とサッカーやってたらボールがこっちの方へ飛んでっちゃって……」 お子様特有の愛らしい表情を取り繕うものの、青年はこちらの言い分など全く聞いていなかったかのように「いや、それ、きっと君のせいじゃないから」と、安心しろと言いたげな笑顔を見せた。 「え…?」 「案内するからおいで」 意味が分からずその場に立ち尽くすが、このままボーっと突っ立っていても埒があかない。オレは意を決すると青年の後に続いて門の中へと足を踏み入れた。 案内されたのはその屋敷の中で最奥に位置すると思われる部屋だった。障子に描かれた神秘的な赤い月に吸い込まれそうな感覚に捉われる。 「これに気が付くなんて……力がないとは言えさすが探偵ってところかしら?」 ふいに聞こえた凛とした声にハッと我に返ると、いつの間にかオレをここまで案内して来た青年の姿は消えていた。代わりに部屋の内側から障子が開けられ、長い黒髪に紅がかった瞳が印象的な美女がソファ寝そべったままオレを見つめている。妖艶な雰囲気に飲み込まれそうになるが、次の瞬間、オレの頭に一つの疑問が浮かんだ。 「ボク……自分が探偵だなんて言ったっけ?」 「聞かなくても分かるわよ。貴方が持つその独特なオーラでね」 「独特なオーラ?」 「ええ、事件を引き寄せる不思議な力……そう、まるで引力のように」 確かに周囲からよく『事件吸飲体質』などと揶揄されているだけにオレの背筋をゾクリとしたものが走る。 「た、多分、名探偵のおじさんと一緒に暮らしてるせいだよ」 子供らしくアハハと笑顔を取り繕うオレに女が「貴方のその姿……本当のものじゃないでしょう?」と不敵な笑みを浮かべた。 「な…!?」 さすがのオレもこの台詞には絶句した。APTX4869の不思議な作用はオレと灰原、そしてごく限られた人間しか知らない事だ。唯一考えられるのは組織があの薬を使い続け、幼児化した人間が現れたという可能性だが…… 「何言ってんだよ、そんな事……」 内心のパニックを押し隠そうと平静を装うオレの様子を楽しむように女はアハハと笑ってみせると、「残念だけどあたしは貴方が追っている存在とは無関係よ」と手にした煙管を口に運んだ。 「そんな組織がある事は噂に聞いているけど、あたしは人を殺すようなリスクの高い真似はしないわ。割りに合わないもの」 「え…?」 「人が人を殺せばそれなりのモノを負う事になる……潰れちゃうくらい重いモノをね」 まるでその重みを熟知しているかのような女の言い方にオレは思わず小学生の仮面を脱ぎ捨てて「お前は一体…?」と尋ねていた。 「あたしの名前は壱原侑子。このミセの主人よ」 「ミセ?」 「ええ。ここは願いを叶えるミセ。貴方がここに入って来られたという事は貴方には何か願いがあるという事」 「願い……」 確かにオレには願いがある。言うまでもなく一刻も早く元の高校生の身体を取り戻す事だ。こんなガキの姿じゃ黒ずくめの奴等と渡り合う事も出来やしない。 そんなオレの心境を見透かすように女は「もうすぐクリスマス……大切な人を一人ぼっちにするのも辛いでしょう」と、面白そうにオレを見つめた。 「貴方の願い、叶えてあげてもよくてよ」 「ほ、本当に…?」 「ただし対価は頂くわ。それ相応の…ね」 「対価…?」 「与えられたモノには須くそれに見合うだけの代償、対価が必要なの。貴方の願いを叶える代わりに貴方の大切なモノを貰う……それがこのミセのシステムって訳」 その瞬間、オレの中で警報が鳴った。元の身体に戻るために差し出すオレにとって大切なものって……まさか…… 「ひょっとして……推理力や観察力が低下する……とか?」 オドオドと尋ねるオレに女はあっさり「違うわ」と答えた。 「確かに貴方にとって大切なモノには違いないでしょうけど、お父様にも敵わないような実力が対価になると思う?」 「う……」 グサッと心に突き刺さる台詞に返す言葉を失うが、事実だから否定出来ない。しかし推理力や観察力じゃないとなると…… 「まさか…蘭か?」 今度こそ間違いないと思ったが、女はいかにも心外そうな表情になると、「幼馴染以上恋人未満なんて煮ても焼いても食えない関係性が貴方の願いに釣り合うと思って?」と、呆れたようにオレを睨んだ。 「じゃ、じゃあ一体……」 オレにとって大切なものといえば探偵として必要な推理力と観察力、そして蘭だけだ。他には特に何も思い当たらない。 パニックに陥るオレに女が「……本当、探偵のくせに自分の事は全く見えてないのね〜」と、面白いものでも見るかのようにクスクス笑う。 「……悪かったな」 「それで?ど・う・す・る・の?」 「どうする…って……」 「あたしに対価を差し出して素敵なクリスマスを迎えるか、それとも偽りの姿でお子ちゃまなクリスマスを過ごすか……決めるのは貴方よ」 「……」 対価の内容がさっぱり検討もつかない点は不気味だが、推理力や観察力はそのまま、蘭との関係が無くなる事もないとなれば元の身体に戻らない理由はない。オレは女の顔を正面から見据えると、「……元の身体に戻してくれ」と、きっぱり言った。 「分かったわ。貴方の願い、叶えましょう」 ふいに女が紙を一枚取り出すと筆で何やら書き、オレに差し出して来た。 「これ…?」 「見て分からない?処方箋よ」 「処方箋!?」 「最近、妙に忙しくてね〜。薬品関連は院外処方にしようかと思って現在検討中なの」 「……」 果たしてここに記載された薬品で本当にオレは元の身体に戻れるのだろうか……?そんな疑問にしげしげと渡された処方箋を見ると、何とそこには『APTX9684』と記載されている。さすがのオレもこれには黙っていられない。 「おい!これ、APTX4869のシリアルナンバーをひっくり返しただけじゃねーか!」 オレの怒りの声にも女は全く自分のペースを崩さない。それどころか心外だと言わんばかりの顔で「あら、名前って大切なのよ」とオレを睨んだ。 「信じてない顔ね。いいわ、貴方の名前、工藤新一だったわよね?」 「ど、どうしてオレの名を…!?」 「あれだけ自分からメディアに出まくってたじゃない。覚えたくなくても覚えちゃうわよ」 そういえば灰原の薬で一時的に元の身体に戻った時、目暮警部にも「あれだけ自己主張していた君が……」とか言われた事を思い出し、オレは反論の余地を奪われた。そんなオレに全く興味なさそうに「それで?貴方、誕生日は?」と次の質問を突きつけられる。 「ご、5月4日……」 オレが答えると魔方陣のような模様が入った水盆が女の傍らにある桶の中でクルクル回り出した。 「工藤新一…クドウシンイチ……家族は両親、ただし現在は一緒に暮らしていない……推理力は作家である父親譲り、少々冷静さを欠く行動力、演技力、自己顕示欲の強さは元女優である母親譲り……幼い頃から常に傍にいる幼馴染の少女がいてその彼女に少なからぬ好意を抱いている……ある犯罪組織に毒薬を飲まされ、神経組織を除き身体が幼児期まで後退、偽名である江戸川コナンを名乗りその少女の家へ身を寄せている……」 「……!!」 ついさっき会ったばかりの女の口からごく一部の人間しか知らないはずの『工藤新一』の生い立ちが語られ、オレは驚きのあまり言葉を失った。 「ど、どうして…!?」 やっと出た疑問の言葉に女は妖艶に微笑むと、「分かるモノには分かるのよ。名前と誕生日を聞けば、ね」と煙管を燻らせる。 「……で?」 「え…?」 「信じる気になったかしら?」 「……」 この世で魔女や呪いが存在出来るのはファンタジーの中だけというのがオレの持論だ。しかし、この女と話しているとそう一言で片付けるのが正しいのか疑問が沸いて来るのも事実だった。 「対価は……オレの推理力でも蘭との関係性でもないって言ったよな?」 「ええ」 きっぱり肯定する女にオレは意を決すると「……だったら」と女から処方箋を受け取った。 「契約成立ね」 女が艶やかに微笑んだその時、障子が開くと「お茶、淹れて来ましたー」という声とともに先程オレをこの部屋まで案内してくれた青年が姿を現した。 「四月一日ったら……お茶一杯淹れるのにどれだけ時間かければ気が済むの?」 「仕方ないでしょう、お茶受けにしようと思ってたお菓子を黒まんじゅうに食われちまったんですから…!」 まんじゅうが菓子を食べる???訳が分からない会話に唖然としていると青年が「そんな事より……君、大丈夫だった?」と心配そうに声をかけて来た。 「大丈夫って…?」 「一体、何を寄越せって言われたんだい?侑子さん、強欲で有名だから……」 「ちょっと四月一日、お客に変な事を吹き込まないでくれない?」 「変な事も何もこの前来た女の子の耳にもしっかり伝わってたじゃないっすか!」 「……」 目の前で展開される漫才に頭が痛くなり、思わずこめかみを押さえたその時、青年がオレに「ま、今の君の様子だと大丈夫みたいだね」と笑顔を向けた。 「う、うん……ボクにとって大切なものを全部言ってみたんだけどどれも違うって言われたから……」 「そっか。侑子さんでもたまにはサービスするんだな」 「明日、豪雨にならなきゃいいけど……」しみじみ呟く青年にオレは思わず女の方に振り返った。女はもうオレに用はないと言いたげに黙ってソファで煙管を燻らせている。 「それより君、そろそろ帰らないと。もうすぐ真っ暗になっちゃうよ。お家の人が心配するんじゃない?」 「え…?」 青年の言葉に慌てて腕時計に視線を落とすと午後五時を回っている。この屋敷に入ってまだ30分も経っていないと思っていただけに驚きを隠せなかった。 (ヤベッ!また蘭のヤツに怒られる…!) そういえばこの近くまでおっちゃんの車で来た事を思い出し、置き去りにされたかと焦った瞬間、「コナンくーん、どこ行っちゃったのー!?」という蘭の声が聞こえて来た。 「……どうやらお迎えが来たようね」 「う、うん……」 二時間近くもよく待っていてくれたものだと内心感謝しつつ、オレは「それじゃ……」とだけ言うとその屋敷を後にした。 「あ…!」 門を出て少し歩くと蘭がオレの方に向かって駆けて来るのが見えた。 「どこ行ってたの?心配したんだよ」 「ごめんなさい、ちょっと……」 果たして2時間もどこへ行っていたと言い訳すべきか……言葉に詰まるオレに気付いているのかいないのか、蘭の視線がオレの手に注がれた。 「蘭…姉ちゃん……?」 「これ、処方箋じゃない。コナン君、身体の調子でも悪いの?」 「え?あ…実はちょっと喉が痛くて……近くにお医者さんがあったから行って来たんだ」 小学一年生が一人で医者へ行くなんて言い訳が通用するとは思えなかったが、不思議な事に蘭は「そうだったの」と、納得したように笑顔になると、「じゃ、私、お父さんを呼んで来るからコナン君は車の中で待っててね」と、レンタカーのキーを差し出して来た。 「お父さんも最初はコナン君の事探してたんだけどね、毛利小五郎の大ファンだっていうおばさんとすっかり意気投合しちゃって……近くの喫茶店にいるから呼んで来るね」 走って行く蘭を乾いた笑いとともに見送るとオレはレンタカーが止めてある駐車場へ歩いて行った。その道すがら『みどり薬局』という看板が目に入る。 (そういえばこの処方箋、どこの薬局に持って行けばいいんだ…?) APTX4869の解毒剤が普通の薬局で手に入るとは思えないが、処方箋と言えば全国どこでもOKが常識で、オレは迷いつつもその薬局へと足を踏み入れた。 「いらっしゃいませ」 男のオレから見ても雑誌のモデルかと見間違える程の美青年の登場に思わず「あの…お店の方ですか?」とアホな質問をしてしまう。よくよく見れば『みどり薬局』と書かれたエプロンをしてるじゃねーか! 「ボク、おつかいかな?」 「う、うん、そんなところ……」 下手に突っ込まれるのも面倒で、オレは子供らしい笑顔を浮かべると「あの…これ……」と鼓動が速くなるのを覚えつつ、青年に処方箋を手渡した。 「『APTX9684』?……聞いた事ないなあ」 しばし青年は首を捻っていたが、「陸王−!」と店の奥に向かって声を出した。 「何だ?風疾」 店の奥から出て来た男もいわゆるイケ面の部類に入るのだろうが、『風疾』と呼ばれた男が少々女性的な顔立ちなのに対しこちらはワイルドな風貌だ。 「俺、こんな名前の薬知らねえんだけど……」 「あん?」 陸王と呼ばれた男が処方箋を受け取ると、「あ〜、噂には聞いていたが……これが例の処方箋か」と納得したように呟いた。そしてオレの前に跪くと「坊や、悪いけどこの薬はここでは出せないんだ」とオレの頭を撫でる。 「え…?」 「ホラ、ここに注意書きがあるだろ?『この処方箋は下記の薬局でのみ扱います』って」 「……」 (って……こんな小っこい字で書いてんじゃねーよ!) 心の中で突っ込むものの、こんな台詞を吐いたら本当の年齢を疑われるのは必至で、オレは「ごめんなさい、よく読んでなくて……」と頭の後ろを掻くと男の手から処方箋を受け取った。 「それはいいが……坊や、どうするんだ?」 「え…?」 「指定薬局は米花町みたいだぞ。ここからちょっとあるんじゃないか?」 思いがけない言葉に慌てて処方箋を見つめたオレはそこに書かれた住所に思わず叫び出しそうになった。 「だ、大丈夫、ボク、米花町に住んでるから……」 訝しげな表情で顔を見合わせる店員2人にペコリと頭を下げるとオレは店から逃げるように飛び出した。 「何なのよ、こんな時間に……」 玄関を開けるや否やげんなりした表情を見せたのは灰原哀。元黒ずくめの組織の一員でオレの身体を小さくした毒薬、APTX4869の開発者だ。もっともこの姿ではクラスメイトで少年探偵団の仲間と言った方がいいかもしれない。 オレはポケットから折りたたんだ処方箋を取り出し、灰原に差し出した。 「どういう事か説明しろよ」 「これ……」 「ああ、今日事件で出掛けた時、変な屋敷に迷い込んでな」 「そう……」 灰原はしばしの間、驚いたように処方箋を眺めていたが、「まさかあの薬が完成品だったなんて……」と独り言のように呟いた。 「オメーな、解毒剤が出来たなら何で真っ先にオレに言わねえんだよ?」 「自信がなかったのよ。いくらマウス実験で成功しているとは言え人体で試した訳じゃないもの。それとも何?死ぬかもしれない薬をあなたは飲んでくれた訳?」 「それは……」 確かに人体実験するにはオレか灰原が飲むしかない訳で、オレは言葉を飲み込むしかなかった。しかし、見ず知らずの人間にオレ達の秘密を明かしてしまっていいのだろうか?そんなオレの疑問を読み取ったのか、灰原が「彼女の事なら心配いらないわよ」と肩をすくめる。 「あの女、何者なんだ?」 「『次元の魔女』とか『極東の魔女』とか色々言われてるわね。でもその素顔は誰も知らない……分かっているのは時間や空間さえも操れる強大な魔力の持ち主って事だけ」 「さすがのあなたも目の前で彼女の力を見せられて信じる気になったようね」そんな言葉とともに灰原は両手を広げてみせると、「それで?」と鋭い視線をオレに投げた。 「何を差し出したの?」 「あん?」 「対価に決まってるでしょ?一体何を差し出したのよ?」 「それが……特に何も差し出してねえんだよな」 「え…?」 「推理力でも蘭との関係性でもないって言われちまったら他に思い当たるものねーし……」 肩をすくめるオレを複雑な表情で見つめていた灰原だったが、「ま……私が関知する事じゃないわね」と呟くと、パソコンデスクの前まで歩いて行った。薬瓶がびっしり詰められた引き出しを開けるとそのうちの一つをオレに差し出す。 「工藤君、『APTX9684』よ」 「これで完全に元の身体に戻れるんだな?」 「彼女が出した処方箋なんでしょ?間違いないんじゃない」 「そっか、サンキュ!」 オレは薬瓶を受け取るのももどかしく博士の家を飛び出した。 進ム |