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ホスト・コンピューターのデータはさすがに膨大な量だ。
「想像はしてたけど……これほどとはね」
哀はその量に圧倒され言葉を失った。
哀の探している物は「樫村ルーム」にあった破壊されたデータのバックアップだ。パソコンを日常的に使う者ならデータのバックアップを取るのは常識とも言える。
殺された樫村忠彬がバックアップデータを残すとしたらどこか?
哀なりに色々考えたが犯人があの人物ならまずここに間違いない。灯台もと暗しという訳だ。
アイコンを更新日時順にし、手当たり次第に開いていく。そんなに古いファイルではないはずだ。
しかし、そう簡単に見つかるはずはない。
「……ダメね」
哀が溜息をついてマウスから手を放した時だった。突然モニター上のカーソルが勝手に動き出した。
(……誘われている?まさかノアズ・アーク!?)
カーソルは次々に操作され、やがて一つのファイルが現れた。
「……罠かもしれないけどそんな事も言ってられないわね」
哀は意を決してフォルダをクリックした。しかし『Enter Password』という表示が現れてしまう。
「パスワード……」
迂闊に入れる事は出来ない。間違ったパスワードを何回も入れるとファイル自体が消滅する恐れがあるからだ。
「……ここから先はノアズ・アークにも分からないって事ね」
哀はパソコンの前で考え込んだ。



コナンは微動だにしないモリアーティ教授を無視してたたみかけるように続けた。
「声は全て教授が腹話術で喋ってたんだよね?」
「クックックッ、そこまで見抜かれていたとは……」
目深に被っていた帽子を取るとモリアーティ教授が素顔を見せた。細い顔、鋭い目、高い鼻、狡猾な印象を与える顔だ。
「なぜ分かった?」
「さっきモラン大佐がおじさんに『お待ち下さい』って言ってたよ。大佐が敬語を使う相手は教授だけでしょ。そしてもう一つ、モリアーティ教授は、天然ハーブ系のコロンを使うお洒落な老人だって聞いていたんだ」
「へーえ、それがワインを渡した時匂って来たと言う訳か……」
秀樹が感心したように呟く。
「見事だ!まるでミニ・ホームズを見ているようだ」
教授の言葉にコナンは思わず微笑んだ。
「……ところで、私に何の用かな?」
「ジャック・ザ・リッパーってロンドンの街を恐怖の都に変えるため教授が街に放った人なんでしょ?」
遠慮ないコナンの台詞にモリアーティ教授は苦笑した。
「当たらずとも遠からずだ。ジャック・ザ・リッパーは貧民街で拾った浮浪児だった。母親に捨てられて路頭に迷っていた彼に私は一目で才能を感じた。……犯罪者としての才能をね」
「……」
「私が彼を一流の殺し屋に育て上げたんだよ」
「何の罪もない女性達を殺害しているのは何故ですか?」
教授の言葉に押し黙ってしまったコナンに変わり、蘭が口を開く。
「ジャック・ザ・リッパーは私の想像を超える殺人鬼になってしまったんだ。一連の事件はあの子の暴走だよ。……そうだ、君達がジャック・ザ・リッパーを退治しようとしているのなら私も協力しようじゃないか」
「協力!?」
教授の思わぬ申し出にコナンは驚いた。
「ジャック・ザ・リッパーは確かに暴走し始めているが、私が殺しの指令を送ればまだ従うはずだ。君達がそこへ先回りすればいい」
「どうやって?」
「明日のサンデー・タイムズの広告に彼へのメッセージを載せる」
「誰を殺せと命じるの?」
「明日の新聞を見れば分かる」
モリアーティ教授は不敵な笑みを浮かべた。どうやらこれ以上答える気はないらしい。
「おい、信じるのか?この爺さんの言葉を…?」
秀樹が不安そうにコナンに囁く。しかしこれ以外、ジャック・ザ・リッパーに確実に辿り着ける保証もない。コナンは覚悟を決めた。
「賭けてみよう!!」
「コナン君!?」
「…ふ……幸運を祈る」
教授はそれだけ言うと影武者と入れ替わり馬車に乗り込んだ。
「三年後、ライヘンバッハの滝にご注意を…」
「…ん?」
コナンの意味ありげな台詞に一瞬モリアーティ教授は振り返ったが、そのまま何も言わず馬車を発車させ、立ち去っていった。石畳の道にガラガラと大きな音が響き渡ったのも束の間、やがてその音も小さくなっていく。
「ライヘンバッハって何だよ?」
滝沢進也がコナンに尋ねて来る。
「モリアーティ教授は三年後、スイスのライヘンバッハっていう滝でホームズと対決するんだ。二人は滝壺に落ちてしまい、ホームズは後で奇跡的に生還するんだが、教授はそこで死んじまうんだ」
「ふーん、でも何で悪いヤツにわざわざ注意なんかしてやったんだよ?」
「放っておけばいいじゃんか」
進也と江守晃が呆れ果てたように呟く。
「はは……やっぱオレ、ホームズと同じくらいあの悪党も気に入ってんだろうなあ……」
苦笑するコナンに蘭はふっと新一の言葉を思い出していた。
(そういえばあの時……)



確かあれは新一がいなくなった日の事だった。トロピカルランドへ遊びに行ってミステリーコースターに乗り込もうとした時だったような記憶がある。
相変わらずホームズの話になると口が止まらない新一に蘭はうんざりしていた。
「……オレってモリアーティも結構気に入っててさ、まあ、小説の中の人物としてだけどな」
蘭は新一の話を無視するようにさっさと椅子に座り、セーフガードを身につけた。一方の新一は蘭の不機嫌な顔にまったく気付いていない様子である。
「二人がホームズの下宿で対峙した時は手に汗握ったぜ!!オレはその時のホームズの台詞で気に入ってるヤツがあるんだ。何だか分かるか?」
「……知らない!」
「それはさ……」
記憶の糸が切れた……



(……新一は何て言ったんだろう?せっかくのデートだったのにホームズの事ばっかり話すから、私、聞き流していた……)
「……姉ちゃん、蘭姉ちゃん」
「え?」
「どうしたの?ぼんやりして」
「ねえ、コナン君」
「なあに?」
「あ……ううん、何でもないの、気にしないで」
蘭は慌てて手を振った。いくらホームズが好きとはいえコナンが新一のお気に入りの台詞まで知るはずはない。
「な、なあ、メガネ……」
諸星秀樹が遠慮がちに口を開いた。
「悪かったな……オレ達のせいで四人もゲームオーバーになっちまって……」
「まあ、済んだ事は悔やんでも仕方ないよ」
「そう、これからどう行動するかよ。みんなのために頑張りましょう!!」
蘭の笑顔に秀樹達三人は「うん!!」と力強く頷いた。