樫村忠彬の仕事場、通称「樫村ルーム」は米花シティホールすぐ横に位置する、シンドラー会長が日本に所有するSビルの地下1階にあった。
モニターに向かって仕事をしているとドアの開く音がする。やって来たのは待っていた人物、トマス・シンドラー社長だった。
「……すぐに会場に戻らなければならない。さっさと言ったらどうだ?ヒロキから託されたDNA探査プログラムをいくらで売るつもりだ?」
無駄を嫌うシンドラーらしくさっさと本題に入って来る。樫村はそんな様子を無視するようにゆっくりと彼の方に向き直った。
「私はあなたを強請るつもりなどありません。ただ……償って欲しいだけです」
シンドラーは何も言わない。重苦しい空気が流れる中、樫村は言葉を続けた。
「ヒロキは知ってしまった。シンドラー帝国を崩壊させてしまうあなたの秘密を。……しかし、人工頭脳はヒロキの力がなくては完成出来ない。あなたはヒロキにハードワークを課して完成を急がせた……精神的に追いつめられたヒロキは、人工頭脳が完成した暁にはあなたに殺されると思った……」
樫村は思わず虚空を見つめた。シンドラーの視線が手の中のストップウォッチに注がれている事には全く気づかないでいた。
「だから、自分の分身とも言えるノアズ・アークを電話回線に逃がし、マンションの屋上から身を投げた……」
しばし、二人の間に重い沈黙の時が流れる。
沈黙を破ったのは樫村だった。意を決したようにシンドラーを見つめる。
「それからしばらく経って、私のコンピューターにDNA探査プログラムのデータが侵入しました。それはヒロキの遺志を継いだノアズ・アークの仕業でした。私には……ヒロキの魂の叫びに思えました」
「……償いはする」
シンドラーがやっと口を開いた。
「すべてを世間に公表してどんな裁きでも受けるつもりだ。だが……その前に見せてくれないか?ノアズ・アークがキミに送って来たというDNA探査プログラムを」
「……いいでしょう」
樫村はシンドラーに背を向けてキーボードの操作を始めた。プログラムを操作する間、まったく無防備だった事が悲劇の始まりだった。
デスクトップにプログラムが現れた。
「これこそまさに、時を越え現代に運ばれて来た、ロンドンの亡霊…」
その時、短剣を手にしたシンドラーが樫村に突進して来た。
「……!!」
次の瞬間、短剣が樫村の心臓を貫いた。



すべて思った通りに事が運んだとはいえ心臓が高鳴っている。
(私の計画は完璧だ……)
シンドラーは自分に暗示をかけるように心の中で呟いた。
早速、持って来たCD−ROMを樫村のパソコンのハードディスクにセットする。かの有名なコンピューターウイルス、闇の男爵をも凌ぐIT業界の裏世界で流通している強力なデータ消去プログラムだった。
プログラムが正常に作動したのを確認すると樫村に突き刺した短剣を抜き取る。手近にあったティッシュペーパーで血を拭うと、シンドラーは息を整えるかのように深呼吸し、パーティー会場へと引き返して行った。
樫村が虫の息でキーボードに残したメッセージも、それに触発されてあるプログラムが発動した事も、知るよしもなかった……



警視庁に事件の第一報が入ったのは目暮十三が残業を終えて帰ろうとした矢先だった。
「何?殺しだと?」
「はい、現場は米花シティホール横のSビル地下1階だそうです」
「またうちの管轄か……」
今日は久しぶりに愛妻みどりの夕食にありつけそうだっただけに、目暮は思わず溜息をついた。
「米花シティホール…?そういえば、今日あそこで開かれているパーティーに諸星警視副総監が出席されていたような……」
白鳥任三郎が思い出すかのように呟く。
「……やれやれ、政界、財界とお偉方がたくさん出席しているのは間違いないな。何かと気を遣いそうだ」
目暮は気を取り直すように帽子をかぶり直した。
「白鳥君、千葉君、行くぞ」



「すみません、通して下さい!!」
ファンに囲まれ、快くサインに応じている優作に係員が駆け寄って来た。耳打ちされた言葉にさすがの優作も一瞬言葉を失った。
「…えっ!?樫村が!?案内して下さい」
険しい表情に、さすがに彼を引き留めようとする者はいなかった。
めったな事では柔らかい表情を崩さない父の様子を見てコナンは何かあった事を直感し、思わず駆けだしていた。