「あの…灰原先輩……」
おずおずと掛けられた声に振り返ると哀の瞳に見覚えのない少女達の姿が映った。校章と並んで胸ポケットに付けられているバッジの色から一年生と分かる。
「私に何か用かしら?」
「その……実は私達、少し前に帰ろうとしたんですけど……」
「校門の前で男の人に呼び止められたんです。『君達、三年生の灰原哀って子知ってる?ちょっと用があるんだけど呼んで来てくれないかな?』って……」
後輩達の台詞に窓の外へ視線を向けるとサングラスを掛けた若い男の姿があった。
「テレビやネットでしか見た事ないんですけど……あの男の人、工藤新一ですよね?」
「そうみたいね」
他人事のように呟く哀に「先輩、気を付けて下さいね」と後輩達が声を潜める。
「探偵としての実力は確かなようですけど……何せ『平成のジェームズ・ボンド』ですから」
「週刊誌でも話題になってましたよね?散々尽くしてくれた奥さんをあっさり捨てたって!」
「まさか先輩、付き合ったりしてませんよね?」
好奇心を隠せない様子の後輩達に哀は「冗談でも怒るわよ」とだけ返すと階段を降りて行った。
校門まで歩いて行くと件の男が「よぉ、久し振り」と呑気な声を掛けて来る。
「ここじゃ目立つから場所を変えたいんだけど」
「んじゃ通りすがりにあった茶店にでも行くか?」
先に立って歩き出す男に哀は小さく肩をすくめるとその後姿を追い掛けた。



「ご注文はお決まりでしょうか?」
「私はブレンド、彼はフルーツパフェで」
「かしこまりました」
ウエイトレスがメニューを受け取り、軽く会釈してテーブルを去ると目の前に座る男が「灰原、何で俺がフルーツパフェなんだよ?」と哀を睨んだ。
「あら、食べたそうな顔でメニューをガン見してるから気を遣ってあげたのに」
「気を遣うって……何が悲しくて中学生のオメーが珈琲でいい年した俺が……」
「……そう思って青子さんの前以外では大好きなアイスクリームを我慢してるんでしょ?元天下の大泥棒さん?」
クスッと笑う哀に新一に変装していた快斗は「……さすが哀ちゃん、最初からお見通しだったって訳ね」と苦笑いを浮かべると、ミストで固めていた髪を解し、彼本来の癖のある髪型に戻した。
「珈琲好きの工藤君ならこの店じゃなくてもう二軒先にある専門店に行くでしょうし。大体あなたと工藤君じゃ雰囲気が全然違うもの。遠目で見てもバレバレだったわ」
「名探偵と俺じゃそんなに雰囲気違う?」
「お調子者を気取っていても本質的な部分はあなたの方が優しいから。ま、優しい人に探偵なんて商売は務まらないでしょうけど」
「……さすが名探偵に相棒と言わしめるだけの事はあるって訳ね」
「それは過去の話、今の私には関係ないわ。江戸川君が元の身体を取り戻し、本来彼が進むべき道に戻った時点で彼と私の関係も終わったの。蘭さんと無事恋人と呼ばれる関係になれた事で幼児化が原因で彼女との未来を壊してしまう可能性もゼロになった。万一別れる事になったとしてもそれは……」
「それはあの二人の責任。そこは俺も否定しないよ」
何でもない事のように呟く快斗に今度は哀が「え…?」と首を傾げる。
「え?何、その反応……ってまさか哀ちゃん、工藤が蘭ちゃんに捨てられたって知らなかった…?」
「ネットで話題になってるのは知ってるけど所詮ゴシップだとばかり……」
思わぬ展開に一瞬言葉を失う哀だったが、「……工藤君が彼女を捨てるなんて想像つかないけど、彼女が工藤君を見切ったっていうならアリかもね」と両手を広げてみせた。
「彼、一度事件が起こると周囲の事なんか全然目に入らなくなっちゃう人だし」
バッサリ切り捨てるような哀の物言いに快斗は「ハハ……」と頬を引き攣らせると、「それでって訳じゃないんだけどさ」と真面目な顔に戻った。
「ねえ哀ちゃん、名探偵を助けてやってよ」
「助ける…?」
「名探偵、蘭ちゃんに捨てられて自棄になっちゃったのか……ま、俺に言わせりゃずっと蘭ちゃん一筋だったのがいけないんだろうけど。好きな娘の水着姿見るだけで真っ赤になれた男が今じゃ事件ごとに女を変える『平成のジェームズ・ボンド』だぜ?嫁さんの手前もあるんだろうけど服部からは絶縁宣言食らったみたいだし」
「あの色黒の彼が?それはちょっと面白いわね」
「『面白い』って……あれだけ工藤大好きな服部がアイツの事放り出しちゃったんだぜ?どれだけ酷い状況か哀ちゃんなら分かるんじゃない?」
「何となく想像はつくわよ。でもそれで何故私が工藤君を助けなくちゃいけないの?」
「それは……」
哀の指摘に快斗は一瞬言葉に詰まった様子だったが、「……あんな名探偵、見てられないんだよ」と苦々しげに呟いた。
「名探偵には恩もあるし本当は俺が助けてやりたいよ?けど俺の言う事なんて聞く耳持たねえし。『黒羽、オメーにオレの事とやかく言う資格あるのかよ?』って睨まれてお終い。確かに俺、女の子大好きだしスケベだから仕方ないんだけどさ〜」
「よく言うわ。昔からあなたの眼中には青子さんしかいないじゃない」
ジロッと睨む哀に快斗が「……本当、哀ちゃん、そっち方面は鋭いよね〜」と苦笑する。
「工藤の事は置いとくとして……蘭ちゃんが工藤邸を出てっちゃってから阿笠博士も外食メインでますますメタぼってるみたいだし。米花町へ戻るなら中等部を修了するこのタイミングがベストかなと思って今日はこうして出向いたって訳。哀ちゃんにとってあんなお嬢様学校、どーせ退屈で仕方ないんじゃない?」
「それは……」
確かに阿笠の食生活は気になるが、新婚夫婦の横で生活する事になる哀を心配し、横浜の学園へ通う事を提案したのは他ならぬ阿笠だった。当初は「私、そんなに可愛い女じゃなくてよ?」と余裕でかわしていたものの、蘭と顔を会わせる機会が増え、彼女の『これからは私がいるから博士の事は私に任せて哀ちゃんは学生生活を楽しんでね!』という一言に哀の中で何かが崩れた。勿論、蘭に悪意など全くなく、親切心から言ってくれた言葉だと理解は出来たが、自分に残された最後のテリトリーを侵されたような感覚を抱くようになってしまったのである。そんな自分が嫌で、結局阿笠に薦められるまま進学先を変更してしまった。授業内容はハイレベルでドイツに姉妹高があり、高等部修了後は留学の道も開かれている進学校ではあるが、快斗が指摘するようにアメリカで博士課程まで修了している哀にとってプラスになるような知識は何もなかった。
「それにさ、名探偵に恩返しするのも悪くないんじゃないかな?」
「恩返し?」
「だって哀ちゃんが生きる希望と勇気を持てるようになったのは名探偵のお陰じゃん?」
「……」
快斗が指摘するように今の自分があるのはコナンだった新一の影響が大きい。彼がいなかったらとっくに死んでいたかもしれない。
否定出来ない事実に哀は「少し……時間をくれない?」と快斗を見た。
「さすがに『はい、そうですか』って即答出来る話じゃないわ」
「もっちろん。哀ちゃんには哀ちゃんの人生があるって事くらい俺だって充分承知してるからさ」
笑顔でパフェを頬張る快斗に哀は小さな溜息をついた。