薄暗い部屋にカタカタと無機質な音が響く。
幼い頃からの夢だった探偵という職業で生業をなしてはいるものの、謎を解く事にしか興味ない新一にとって依頼人へ提出する報告書をまとめる作業は面倒でしかない。蘭と結婚し、数ヶ月前に彼女が工藤邸を出て行くまでは丸投げしていた事もあり、こうした作業は億劫で仕方なかった。
「ふぁ……」
キーボードから手を放し、大きく伸びをしたその時、「……随分お仕事熱心なのね」という低い女性の声が背中に投げられた。声の主は一糸纏わぬ姿のままベッドで煙草を吸っている。
「情事の余韻も適当に報告書作りなんて……」
「さっさと片付けちまわねえと次の依頼が控えてるんでね」
新一は無関心な表情でそう答えるとキーホルダーから一本の鍵を取り外し、テーブルの上に置いた。
「これ、返すぜ」
「事件解決と同時に男女関係も終了……本当、『平成のジェームズ・ボンド』とはよく言ったものね」
「まさか『日本のアンナ・チャップマン』の異名を取るオメーがオレに未練でもあんの?」
「ご冗談」
女は裸のままベッドを抜け出すとテーブルの上から鍵を取った。
「報酬は三割だったな」
「昨日のパーティーで着たドレスは頂いていいのよね?」
「ああ、好きにしていいぜ。あんな大胆なデザインじゃ他に着られる女もいねーだろうし」
「それじゃあ遠慮なく……」
無記名の小切手に金額を書き込むとタブレットの電源を落とし、ジャケットに手を通す。
「じゃあな」
「もう会う事もないでしょうけど」
新一は女に挨拶代わりの軽い口付けを落とすと部屋を後にした。



愛車をガレージへ駐め、門を開けようとした新一は隣の阿笠邸から漂って来る美味しそうな匂いに思わず足を止めた。
(こんな朝早くに博士ん家から食い物の匂いがするなんて……フサエさんでも来てるのか?)
よなよな遅くまで趣味の発明に没頭し、朝食抜きが日常茶飯事な阿笠が早朝から起きて身支度するなどせいぜい博士仲間との旅行か彼の人生のパートナーであるフサエ・キャンベル・木之下が来日した時くらいしかないはずで、新一は興味本位で隣家へと足を向けた。
玄関のドアを開けた途端、「博士、早く起きて食べて頂戴。いつまで経っても片付かないわ」という聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。
(この声……まさか……!?)
次の瞬間、新一の記憶の中にいた少女が成長した姿で彼の目の前に現れた。
「灰原…!?」
「工藤君……」
一瞬、驚いたように目を丸くする哀だったが、「……誰かさんは今日も朝帰りのようね」とだけ言い残すとさっさとキッチンへ向かってしまう。
「『今日も』って……オメー、一体いつ米花町に戻って来たんだよ?」
「あなたには関係ないでしょ?」
「関係ねーって事ねーだろ?大体三年前、なんでオレに相談もせず勝手に横浜へなんか……!」
「それもあなたには関係ない事だわ」
廊下から聞こえる賑やかな声に「……朝っぱらから騒がしいのう。一体何事じゃ?」と阿笠が大欠伸と共に寝室から姿を現した。
「おや、新一君じゃないか。どうかしたのか?こんな朝早くわしの家へ寄るなんて……」
「どうかしたも何も……博士、灰原が戻って来た事、どうして黙ってたんだよ?」
「わしにとっては下宿しておった娘が自宅へ戻って来たようなもんじゃ。いちいち君に報告する事でもあるまい」
「冷てぇな。蘭が出てってからオレが色々不便してる事くらい分かってんだろ?」
「工藤君、私、あなたの面倒をみるために帰って来た訳じゃないんだけど。大体文句言いたいのはこっちなのよ?蘭さんが博士の面倒をみてくれるって言うからあの学園へ進学したのに三年も経たないうちに離婚するなんて……」
「離婚って……おい、オレはまだ蘭と別れた訳じゃねーぞ。仕事から帰ったら書斎に記入済の離婚届と結婚指輪が置いてあったっつーだけで……」
「一方的に捨てられたって事?離婚より酷いじゃない。あれだけ献身的な彼女に見放されるようじゃあなたも終わりね」
「……」
遠慮ない哀の物言いに不貞腐れたような表情になる新一だったが、「ま、とりあえずオメーの美味い珈琲がまた飲めるだけでもオレにとってはラッキーだな」と肩をすくめるとダイニングテーブルの一角を陣取ってしまった。
「ちょっと、あなたの分まで用意してないわよ?」
「博士の分を少し回してくれればいいだろ?どーせまた厳しいダイエットが始まってんだろーし」
図々しく言い放つ新一に哀は「……仕方ないわね。後片付けくらい手伝いなさいよ?」と肩をすくめた。



朝食を終え、片付けの手伝いをしていた新一はスポーツウェアに着替えた阿笠がいそいそと出掛ける様子に我が目を疑った。
「それでは哀君、行って来るからの」
「博士、分かってはいるでしょうけど……」
「『運動の後は飲み物だけ』じゃろ?昼食抜きは懲りておるよ」
「行ってらっしゃい」と当たり前のように見送る哀に新一は「おい、あの博士がこんな朝からスポーツなんて一体何があったんだ?」と眉をしかめた。
「フサエさんに『最近太ったんじゃない?』って言われたのが余程ショックだったんでしょうね。近所の老人会の人達と公園でマレットゴルフをやるのが日課になってるの」
「なるほど?」
年甲斐もなく青春真っ只中な人生を送る阿笠に一昔前の純情だった自分を重ね、思わず苦笑する新一だったが、次の瞬間、隣に立つ哀の成長した姿に我知らず皿を拭く手を止めていた。普通の小学生に比べて大人びてはいたものの、最後に見た彼女はまだ少女の面影を残していた。
(たった三年でここまで成長するとはな……)
哀から漂う女の色香に新一は彼女の背後に回るとそのふくよかな胸を鷲掴みした。
「……!?」
「ハーフだけあっていい身体してんじゃねーか。一発やらせろよ」
一瞬、驚いたように身体を硬直させる哀だったが、「冗談言わないで」と冷たい声で言い放つと新一の手をピシッと叩き、彼の腕からすり抜けた。
「悪いけどHIVキャリアの可能性が高い男とセックスする気はないわ」
「HIVキャリア?オレが?」
「事件の度に違う女を相棒にしている『平成のジェームズ・ボンド』……それが事実ならいつ感染しててもおかしくないでしょ?」
哀の反応に新一は喉の奥でクックッと笑うと「……あの灰原が命を惜しむようになるとはな」と冷たい視線で彼女を見た。
「命が惜しいんじゃないわ。今はまだ死ねないだけ。私にはやらなくちゃいけない事があるから」
「やらなくちゃいけねー事?」
「そうよ。APTX4869が奪った命より一つでも多くの命を救える薬を作り出すまでは死んでも死に切れないの」
強い口調で言い切る哀に面白くなさそうな表情を浮かべる新一だったが、懐の携帯に我に返った。
「はい、工藤……あ、すみません。ようやくそちらに協力出来そうな状況になりまして……分かりました、では今日の午後四時に」
携帯を切り、キッチンを出て行く新一に哀は「ボンドが活躍した時代にはエイズなんて存在しなかったものね。せいぜい気をつけなさい」と冷ややかな視線を送った。