「哀ちゃん…!?」
夕刻。庭で洗濯物を取り込んでいた哀は聞き覚えのある声にその手を止めた。
「吉田さん、久し振りね」
思いがけない光景にあまりに驚いたのか、酸欠金魚のように口をパクパクさせる歩美だったが、頬をギュッと抓ると「夢じゃない…!」と自分を納得させるように頷いた。
「帰って来たなら知らせてくれれば良かったのに……!」
「なんか改めて連絡するのも気が引けてね」
「ひょっとして……哀ちゃんが帰って来たのって蘭お姉さんが家を出てっちゃった事と関係あるんじゃ……?」
「ええ、お節介な伝書鳩が知らせてくれたの。『阿笠博士が順調にメタボってるよ』ってね」
「そういえばこの前5キロ太ったって言ってたような……」
「博士ったら!私には3キロって言ったのに……!」
不機嫌な表情で阿笠の洗濯物を乱暴に扱う哀に歩美はプッと吹き出すと「『おかえり』って言っていいの?」と探るような視線を向けた。
「転校手続きの関係で入学式には間に合わなかったけど、来週から帝丹高校へ通う予定よ」
「本当!?元太君と光彦君も喜ぶよ!」
「そうかしら?」
「もっちろんvでも……」
「吉田さん…?」
「ごめん、私贅沢だよね。一瞬、コナン君も戻って来てくれたらいいのにって思っちゃった……」
相変わらずどこまでも真っ直ぐな少女に哀は「これからまたよろしくね」と穏やかに微笑んだ。が、ふいに歩美が考え込むような表情になると「哀ちゃんなら大丈夫だと思うけど……」と意味ありげな視線を隣の工藤邸へ投げる。
「気を付けてね、哀ちゃん美人さんだから」
「え…?」
「哀ちゃんも知ってるでしょ?『平成のジェームズ・ボンド』……新一お兄さん、今は女たらしで有名なんだよ。あれだけラブラブだった蘭お姉さんも怒って出て行っちゃったんだから…!」
まさかその彼が江戸川コナンだと言えるはずもなく、哀は曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。



「ハックション…!」
同時刻。派手なくしゃみをする新一に目の前の女性建築デザイナーは訝し気に首を傾げた。
「工藤さん、風邪ですか?」
「いえ、おそらくどこかで誰かがオレに対する恨み事でも言っているんでしょう。それより……そろそろ本題に入りましょうか」
新一は目の前の女に営業用スマイルを向けると懐から手帳を取り出した。スマホやタブレット全盛の時代ではあるが、セキュリティを考えると事件絡みのメモはどうしてもアナログに頼ってしまう。
「ボクに依頼したい事というのは?」
「実はここ二、三ヶ月程前から私がデザインした建物や遊具が壊される事件が続いているんです。『壊される』と言ってもパターンは様々で、ほんの少し壊された物もあれば壊滅的に破壊された物もありまして……」
「素直に考えればあなたに恨みを持つ人間の仕業でしょうね。心当たりはありませんか?」
「心当たりと言われましても……」
視線を宙に泳がせる様子にどうやら目の前の女が候補を挙げるには時間が掛かりそうだと判断し、新一は「ちなみに今まで壊された物は?」と話の矛先を変えた。
「それならこちらに纏めてあります」
しばしの間、新一は手渡されたファイルに真剣な表情で目を通して行った。
「なるほど?あなたがプロットに関わったトロピカルランドの遊具が壊されたのが最初ですね?デザインを担当した米花水族館に飾られていたオブジェが壊されたのがその一か月後、改装工事を請け負った米花センタービルの展望レストラン『アルセーヌ』でボヤ騒ぎがあったのが二週間前……」
「幸い今のところ怪我をした人はいないんですけど、今後エスカレートする恐れもありますし……困っていたところ秘書が工藤さんを頼ってはどうかと進言してくれたんです」
確かに悪戯にしては悪質で、一歩間違えれば死者が出てもおかしくない。
「それで平林さんとしてはボクに何をお望みでしょうか?」
「犯人を捕まえて頂ければ一番なんですけど……実は今度の土曜日、このビルの最上階にあるレストランでグッドデザイン賞の受賞パーティーが開かれるんです。素人考えですけど次に狙われるとしたらその時ではないかと……」
「なるほど、派手な席だけに可能性は高いですね」
「今までは物が壊されるだけでしたけど、ひょっとしたら今度は私の命を狙って来るかもしれません。事件の捜査と並行してボディガードをお願い出来るとありがたいのですが……依頼料はこれくらいでいかがでしょうか?」
電卓で弾かれた数字に新一は「分かりました、お引き受けしましょう」と満足そうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「それはそうと……依頼を受ける以上、あなたという女性をもっと良く知りたいのですが」
「え…?」
「続きは今夜、ホテル杯戸プライドのスイートルームで……というのはいかがでしょう?その際、あなたが容疑者として思い当たる人物の話を聞かせて頂けると助かります」
新一の誘いに平林果音は納得したように頷くと、「分かりました、では今夜十時に」と妖艶な笑みを浮かべた。



(……しっかし嫌な偶然が重なるな)
平林デザイン事務所を後にしてエレベーターに乗り込むと新一は溜息をついた。先程の話に登場したトロピカルランド、米花水族館、米花センタービル、そして現在訪れている米花シティービル……どこも蘭との思い出の場所ばかりである。そして更にこのビルは――
「新一!?」
背後から掛けられた聞き覚えのある声に新一はげんなりとした表情で足を止めた。妃法律事務所がこのビルに移転して来たのは半年程前の事だったか。工藤邸を出た後、蘭が母親の事務所で働いている事は人伝に聞いて知っていたが、こうも運悪く鉢合わせするとは思わなかった。
「よぉ、久し振りだな」
「迎えに来てくれた……って訳じゃなさそうだね」
「なんでオレが勝手に出て行った妻を迎えに来なきゃならねーんだよ?」
「わ、私だって好きで家を出た訳じゃ……!」
新一の態度に条件反射的に反論しかけた蘭だったが、フッと息をつくと「その……離婚届は……?」と探るような視線を向けた。
「んなもん出しに行く暇ねーよ」
「それじゃあ……」
「リビングのテーブルに置いたままだったかな?つーかオメーが出てってから事務所で寝泊りする事の方が多いし……あ、けど今後は帰る機会も増えるか……」
「え…?」
「博士の生活を心配して灰原が横浜から帰って来たんだ。残り物でいいって言えば食わせてくれるだろうし」
「……」
「アイツが傍にいると助かるんだよな。事件を解くにもオレが知らない知識を提供してくれるし、分からねえ事があればすぐ調べてくれるからさ」
「……なんか新一、凄く嬉しそうだね。ひょっとして哀ちゃんの事、好きなんじゃない?」
「あのなぁ、相手は十歳も下の女子高生だぞ?オレはロリコンじゃねえっつーの!」
仏頂面で自分を睨む新一に蘭は小さく溜息をつくと「それじゃまた連絡するから……」とだけ言い残し、曇った表情のまま立ち去って行った。