「フサエさんの代理?」
阿笠の口から出た言葉に哀は包丁を動かす手を止めた。
「哀君も知っておるじゃろう?『現代のクリストファー・レン』と称される平林果音という女性建築デザイナーを」
「ええ、ファッション誌にも度々インタビューが載ってるから……でもその女性とフサエさんの代理がどう繋がる訳?」
「これはまだオフレコじゃぞ?実は再来年、横浜の湾岸スポットに若い女性をターゲットにしたテーマパークを作る計画があるそうでの、その建築デザインを平林さんが、限定商品のデザインをフサエさんが手掛けるそうなんじゃ。それを今度の土曜日、米花シティービルで行われるグッドデザイン賞の受賞パーティーで発表する算段になっておるらしくての、フサエさんも出席する予定だったんじゃが……あいにく体調を崩してしまったようでの」
「無理させたくなくて代理を引き受けちゃった訳ね」
呆れたように呟く哀に阿笠は「そうなんじゃ」と照れたように頭を掻いた。
「そうは言ってもワシはデザインの世界の事などさっぱりじゃからの、流行に敏感な哀君が一緒に行ってくれると助かるんじゃが……」
華やかな席は苦手だからと断ってしまうのは簡単だが、慣れないパーティーの場でオロオロする阿笠を想像するのは更に簡単で、哀は「……仕方ないわね」と溜息をついた。
「今回限りよ」
「本当かの!?」
「博士の食べ過ぎを監視がてらね。お礼はフサエブランドの新作キーケースでいいわ」
哀の言葉に阿笠が引きつったような笑顔を浮かべたその時、「へえ、博士と灰原もパーティー出るのか」という声が聞こえた。気が付けばいつの間にか新一がダイニングテーブルの一席に陣取っている。
「長い付き合いとはいえ勝手に上がり込んで来るのはどうかと思うけど?」
「オメーも博士も話に夢中で気付かなかったかもしれねーけどさ、オレ、玄関開けた時、声掛けたぜ?」
悪びれもない探偵の態度は慣れっこのようで、阿笠が「それより『も』という事は……ひょっとして君も出席するのか?」と新一の横に腰を下ろした。
「ああ、今、件の女性建築家からちょっとした依頼を受けててな」
「なるほど?それで一昨日……」
「なんだ、オメー見てたのか」
「家の前でタクシーを降りるあなたが彼女とキスするところをね。私はともかく吉田さんには目の毒だからああいう事は控えてくれない?」
厳しい視線を送る哀に新一は「オメー、相変わらず歩美には甘いな」とクックッと喉の奥で笑った。
「大体今時の女子高生はキスくらい何とも思わねーんじゃねーの?」
「ただのキスなら放置するわよ。不倫だから問題なんでしょ?」
「関係ねーさ。世間様はオレと蘭はとっくに離婚したと思ってるだろーし」
新一は大した事でもないと言いたげに肩をすくめると「……んな事より随分美味そうな匂いしてんな。今夜は中華か?」とさっさと話題を変えてしまった。
「ちょっと、また人の家の夕飯をたかる気?」
「おいおい、さすがに『たかる』はねーだろ?大体中華は大勢で囲んだ方が美味いじゃねーか」
「あなたみたいな女たらしと食卓を囲むなんてゾッとするわ。美味しい食事もまずくなるからさっさと帰ってくれない?」
「灰原、てめえ……」
新一と哀の間に走る緊迫した空気に阿笠が「こ、これ、二人とも……」と何とか場を収めようとする。
「哀君、今夜のところは新一君にも食わせてやったらどうじゃ?ここのところ家ではロクなもんを食っておらんようじゃし……何ならワシの分を減らしてくれて構わんから」
「……博士は工藤君に甘いんだから」
哀は呆れたように阿笠に視線を投げると「片付けは全て工藤君がするならね」としぶしぶ了承した。



代理が無事務まりそうな事をフサエさんにメールするから……と食事が済むや否や自室へ引っ込んで行く阿笠の後ろ姿を見送ると、哀は「ところで工藤君」と新一を睨んだ。
「あなたも少しは博士を見習ったら?」
「あん?」
「十年以上の初恋を実らせて結婚したくせにどうして彼女との生活を大事にしないのよ?」
「蘭の事はオメーに関係ねーだろ?」
「ええ、あなたと彼女の仲なんて私にはどうでもいい話よ。でもこうも頻繁に博士と私の生活を邪魔されるのはハッキリ言って迷惑なの」
「……仕方ねえだろ?窮屈だったんだからよ」
「窮屈?」
「アイツとの生活に決まってんだろ?出掛けようとすれば『今日は何時頃帰れそう?』『夕飯要る?』『帰れないなら必ず連絡ちょうだいね』だぜ?オレは探偵だぞ?んな事分かる訳ねーし、いちいち面倒だっつーの!おまけに疲れが溜ってちょっとセックスレスになれば『早く赤ちゃん欲しいんだけどな……』『私の事愛してないの?』『私は新一の何なの?』『まさか浮気してるんじゃないでしょうね!?』って……さすがに身体がもたねえよ!」
「愚痴は本人に言いなさいよ。大体、彼女がそういう女性だって事は身に染みて分かってたはずじゃない。そもそも奥さんといるのが窮屈だからって他の女に手を出していい理由にはならないと思うけど?」
「そりゃ……」
「蘭さん一筋だったあなたが当の彼女が原因でここまで変わってしまうなんて……何か皮肉ね」
他人事のように呟く哀に新一は「灰原、原因はオメーにもあるんだぜ?」と意味ありげな視線で彼女を見た。
「言いがかりは止めてくれない?APTX4869が原因であなた達の仲が壊れたというならともかく、解毒剤が完成して彼女と両想いになった以上私に何の関係が……」
「比べちまうんだよ!蘭が傍にいる時とオメーが傍にいた時を……!そんなつもりなくても気が付けば比較してる自分がいて……オメーといた時の方が楽しかったんだ!」
「工藤君……」
茫然と自分を見つめる哀を新一は力任せに床に押し倒すとその唇を強引に奪った。
「止めて…!」
「灰原、オメーだって満更でもねえんだろ?」
「どういう意味!?」
「十年前……オメー、オレに気ィあったんじゃねえの?」
「……!?」
ビクッと身体を震わせる哀に新一は満足気な笑みを浮かべると彼女の首筋に唇を這わせて行った。
「当時は母さんに指摘されても信じられなかったけどよ、そう考えると色々納得出来るんだよな。オメーが蘭と顔を合わせるのを嫌がった事も蘭にだけつっけんどんな態度だった事も……オレ達が結婚した途端、横浜へ行っちまったのもなるほどって感じだしよ」
その言葉に哀は新一を鋭い目で睨み付けると渾身の力で彼を突き飛ばした。反動で頭を打ったのだろう、上半身を起こした哀の目に床に胡坐をかき、「イテテ……」と顔をしかめる新一の姿が映った。
「今度こんな事したらただじゃおかないから。大体、変な勘違いしないで頂戴」
「勘違い?」
「そうよ。私が好きだったのは『工藤新一』じゃない。『江戸川コナン』よ!」
「それってどっちもオレじゃ……」
「私にとっては大違いだわ!こんな事になるなら解毒剤なんか完成させなきゃ良かった……江戸川君を返して!」
哀の迫力に新一は茫然としたように目を丸くしていたが、小さく肩をすくめると黙って阿笠邸を出て行った。