少々薄暗い照明が印象的なそのカフェは本格的な珈琲を味わえる事で知る人ぞ知る店だった。世間では名探偵と持て囃される新一もそこで過ごす時間は客の一人に過ぎず、その存在を気に留める者は皆無だった。
――と全てが過去形で書かれているのは今、彼の目の前にいる人物のせいに他ならない。
「たまには名探偵もミルクたっぷりのカフェオレにすればいいのに。疲れた頭には甘い物が一番だぜ?」
事件の内容を整理したくて立ち寄ったこの店で新一を待っていたのは、今や売れっ子マジシャンとして世界中を飛び回っている黒羽快斗だった。その身に纏う華やかな雰囲気に加え、瓜二つの有名人が同じテーブルを挟んでいる光景は嫌でも注目を集めてしまう。
「オレがブラックしか飲まねえ事はオメーも充分承知だろーが」
新一は普段縁のない甘い香りに顔をしかめると快斗を無視するようにタブレットへ視線を落とした。
「相変わらずつれないヤツだね〜。せっかく様子を見に来てやったのに」
「別に頼んでねえし」
「ひっでーの。服部にまで見放されたっていうから心配してたんだぜ?」
「オメーも案外暇なんだな。そんな余裕あるならいい加減青子さんをアメリカへ呼んでやれよ。婚約してるんだろ?」
「名探偵にそんな心配されるとは……俺も堕ちたもんだな」
「あん?」
「元々『女好き』とか『プレイボーイ』と称賛されてたのはこの俺だったんだ。それが『平成のジェームズ・ボンド』の登場ですっかり話題にも上らなくなっちまったんだからさ」
「黒羽、オメーの『称賛』って言葉の使い方、間違ってると思うぜ?」
苦笑する新一に快斗は「ひょっとしてとは思ってたけど……やっぱりね」と不敵な笑みを浮かべた。
「名探偵、女好きを演じてるだけだろ?」
「演じてる?」
「事件関係者の女に接触しやすいようにプレイボーイのフリしてんだろ?どんなに警戒心の強い女でもピロートークなら口も軽くなるもんな」
内心を見透かすような快斗の視線に新一は「うっせーな……」と苦虫を噛み潰したような表情で彼を睨んだ。
「つーかオメーの相手なんかしてる暇ねえんだ。用がないならさっさと……」
じゃれ寄って来る猫を追い払うように右手でシッシッと払いのける仕草をした瞬間、僅かに起きた風にテーブルの上の資料が舞い散る。
「ヤベッ…!」
手を伸ばしてどうにか一枚キャッチする新一に対し、素早い身のこなしで次々キャッチする快斗はさすが元天下の大泥棒、怪盗キッドと言うべきか。
「ん?これ、建物のデザイン画……?」
「ああ、今請け負っている事件絡みでな」
「このシンメトリー……ひょっとして依頼人って建築デザイナーの平林果音なんじゃ…?」
「……相変わらず美人の事はよく知ってるな」
「杯戸町に新しいホールが出来ただろ?こけら落としのマジックショーに出演したんだけど、その時彼女も来てたんだ。正直興味ないな。オレ、ああいうインテリタイプの女は苦手なんだ」
「へえ、オメーにも苦手な女がいるんだな」
「そりゃまあ過去に色々……それにしてもあの平林果音が名探偵に依頼するとはね」
「どういう意味だよ?」
「挨拶代わりに口説いたら『凄腕マジシャンの唯一残念なところはどこかの探偵と瓜二つな事かしら?』って凄い目で睨まれたんだ。てっきり名探偵の事、嫌ってると思ったんだけど……」
「……」
確かにあまり好意的な台詞とは思えないが、『平成のジェームズ・ボンド』と呼ばれるようになってから反感の目を向ける女性がいる事は百も承知で、新一は「背に腹は代えられなかったんじゃねえの?」と適当な答えを返すと珈琲カップを口に運んだ。
「それはそうと……哀ちゃん、博士の家に帰って来たんだろ?久し振りに会ってみてどうだよ?」
「どうって……」
「『相棒』とまで呼んだ存在が戻って来たんだ。あんまり女にうつつを抜かしてるとガツンとやられちまうぜ?」
「さては黒羽、灰原の事、オメーが仕組んだんだな?」
「な、何言って……」
焦りまくる快斗に新一は「カマかけただけなのにアッサリ白状しやがって……」と苦々しい表情で正面に座る悪友を睨んだ。


 
「やあ、工藤君。久し振り」
新一の顔を見るなり高木渉警部補は人懐っこい笑顔を向けた。
「お久し振りです」
「相変わらず美和子さんが始終君を顎で使ってるそうだね。申し訳ない」
「お互い様です。ボクの方から高木警部にお願いする事もありますし」
「そう言ってもらえるとこちらも気が楽なんだけど……」
美和子と結婚し、彼が警視庁から所轄へ異動になってからは顔を合わせる機会もあまりなかったが、どうやら夫婦仲は順調なようで、新一はフッと苦笑すると「実は今関わっている事件の事でお願いがありまして……」と本題を切り出した。
「僕に?」
「建築デザイナー、平林果音の事件を捜査してるのはこちらですよね?」
「ああ、ウチの管轄だよ。連続事件って事で話題にはなっているけど……今のところ大きな被害も出てないから捜査員の規模は小さいけどね」
「実は今、彼女から事件の捜査とボディガードを依頼されてまして。色々調べてはいるんですが、彼女を恨んでいる人物やトラブルがあった人物がなかなか浮かんで来ないんです。ひょっとしてボクが何か見落としている可能性もありますし、参考にこちらの捜査資料を閲覧させて頂けるとありがたいのですが……」
「そういえば聞き込みに回った刑事達もボヤいてたな。『どれだけ調べてもいい評判しか聞こえて来ない』って」
「ボクが受けた印象ですが、平林果音はどちらかといえば完璧主義者だと思います。その彼女がスポンサーや職人と全くトラブルを起こしていないのは逆に不自然な気がするんです」
「確かに……」
高木は考え込むように顎に手を掛けると、「……閲覧の件、課長に頼んでみるよ」と笑顔を見せた。
「普通は許可なんて出来ないけど相手が君なら話は別だ。何かあってからでは遅いしね」
警察と探偵の嫌な橋渡し役を快く引き受けてくれる高木に新一は「ありがとうございます」と素直に頭を下げた。



規模は小さいという話だったが、捜査に要した期間と割かれた人員の数はそれなりのようで、目の前に積み上げられた資料の山に新一はげんなりと肩を落とした。
「全部目を通してたら一晩じゃ済まねえな……」
事件に関わりがありそうだと判断したら些細な事でも全て調べ上げるのは警察の長所でもあり短所でもある。一通りの捜査を終えた自分に有用な資料はこの中のほんの一握りだろう。
(揃えてくれた高木警部補には申し訳ねえけど……目を通すのは平林果音本人に関する資料だけにすっか)
仕事関連の関係者の中に目ぼしい容疑者はいなかった。おそらく犯人は彼女のプライベートな部分に深く関わっている人物だろう。そう見当をつけると新一は彼女の出身地である山梨県警が作成した資料を手に取った。
(彼女の母親、シングルマザーなのか。しかも未婚……?)
戸籍謄本に母親の名前はあるが父親の名前がない。
(『甲府市内の公立高校在学中に母親が病死、卒業後上京。親戚等もおらず現在甲府にはあまり帰省していない模様』……か)
何か大切なヒントが甲府に隠されている……自分の中にある探偵の勘に新一は更なる資料を求めたが、あいにく申し訳程度に友人等の証言が添えられているだけだった。
(仕方ねえ、こうなったら甲府に……)
そう決意した瞬間、懐の携帯が鳴った。
「はい、工藤……平林さん?……え?今から甲府へ?でも明日はパーティー当日ですよ?」
「そうなんですけど……でも昔、母がお世話になった方からの依頼なのでどうしても力になりたくて……授賞式は最悪最後の方だけ出席すれば後は秘書が何とかしてくれますし。申し訳ありませんが一緒に行って頂けないでしょうか?幸い市内のホテルを押さえる事は出来ましたので……」
渡りに舟とはまさにこの事で、新一は「分かりました。米花駅で落ち合いましょう」と即答すると通話を切った。