「すまんのう、哀君……」
ベッドに横たわり、しんどそうに熱い息を吐く阿笠に哀は盛大な溜息をついた。
グッドデザイン賞受賞パーティー出席という好機に自分も何か新しい発明品を持ち込もうと張り切ったまでは良かったが、肌寒い地下室で連日徹夜した事が祟りダウンしてしまったのである。
「39度……とてもフサエさんの代わりが務まる状況じゃないわね」
体温計が示した数値に哀は「どうする気?」と冷たい視線を投げた。
「どうすると言われても……フサエさんの顔を潰す訳には……」
「だからといってインフルエンザだったら周囲のいい迷惑よ?流行のピークが過ぎたとはいえ今年は未だに寒い日も多いし」
「じゃたらわしはどうすれば……」
涙目で項垂れる阿笠に哀は「平林さんに花束を渡して横に立っているだけでいいんでしょ?だったら私でも務まるんじゃない?」と肩をすくめた。
「しかし……」
「キーケースにウォレットを添えてくれるなら手を打つわ。ただしフサエさんに都合を付けてもらうんじゃなくて博士がきちんと買って頂戴ね」
有無を言わせぬ哀に阿笠が苦笑いしたその時、「お〜い、哀ちゃん居る?」という明るい声が聞こえた。玄関へ向かうと快斗がにこやかな顔で手を振っている。
「あら、売れっ子マジシャンにしては随分暇なのね」
「無理なお願いをした俺にも責任あるからね。昨日工藤に会った事もあって様子を見に寄ったんだけど……どう?アイツ立ち直れそう?」
「さあ?」
「『さあ?』って……んな他人事みたいに言わなくても」
「だって他人事だもの。蘭さんとの生活が窮屈で仕方ないなら別れるしかないじゃない。大体三度の飯より事件を解く方が大事な人に結婚なんて向いてなかったのよ」
「相変わらず名探偵には手厳しいね〜」
哀の言葉に快斗は面白そうに笑うと「それより……何か立て込んでるみたいだけど?」と、リビングの方向を覗き込んだ。
「博士が風邪ひいて寝込んだの。フサエさんの代理でグッドデザイン賞の受賞パーティーに出席する予定だったのに……」
「なるほど?哀ちゃんにお鉢が回って来ちゃった訳ね」
「そういう事。黒羽君、せっかく顔を出してくれたのに悪いけどそろそろ出掛けないと間に合わないの」
「ちょっと待って!出掛けるってその恰好で!?」
「学生にとって一番のフォーマルは制服でしょ?」
「何か文句でも?」と平然と返す哀に快斗は「そうは言ってもパーティーなんだし……」と胸ポケットから大きな布を取り出した。
「3、2、1……」
「ゼロ!」と叫んだ瞬間、哀の身体が華やかな緋色のカクテルドレスで包まれる。
「せめてこれくらいしなくっちゃ♪」
「……どさくさに紛れて変な所触らないでくれる?」
自分を睨む絶対零度の視線に快斗は「ハハ……」と頬を引きつらせた。



ドレス姿で公共機関を利用するのもどうかという快斗の意見に結局哀は彼の好意に甘え、米花シティービルの正面まで車で送ってもらう事になった。
「ここまで来たんだし、虫除けも兼ねて俺に哀ちゃんをエスコートさせてよ」
「遠慮するわ。逆にあなたが傍にいれば間違いなく注目浴びちゃうもの」
そんな言葉とともに助手席を降りる哀に快斗はプウと頬を膨らませると「んじゃパーティーが終わる頃、ここへ迎えに来るからさ」と肩をすくめた。
「本当、あなたも物好きね。タクシーで帰るからいいのに……」
「元大怪盗の勘が『今夜ここで何か起こる』って告げてるんだ。ま、名探偵もいる事だし、俺なんか出番ないだろうけどさ」
「工藤君ならいないわよ?」
「え?平林果音のボディガードを引き受けたんじゃ……」
「その建築デザイナーの依頼で昨夜から甲府へ行ってるの。表彰式直前には何としてでも戻って来るらしいけど」
「……」
「何?」
「妻の蘭ちゃんにさえほとんど連絡なんてしなかった名探偵が哀ちゃんには……その……何て言ったらいいのか……」
「家の戸締りを頼みたかっただけでしょ?ホームセキュリティがあるとはいえ開けっ放しだった窓もあったし。博士に言いたい事だけ言ってさっさと切ったそうよ」
大して気にする事でもないと言いたげに哀が肩をすくめたその時、「あれ?黒羽君?……哀ちゃん?」という声が聞こえた。振り向くと蘭が驚いたようにこちらを見つめている。
「そういえば妃法律事務所ってこのビルに入っているんだっけ?」
思い出したように耳打ちする快斗の横で哀は蘭に「お久し振りです」と小さく頭を下げた。
「新一から聞いてたけど……哀ちゃん、本当に帰って来たんだ……」
複雑な表情で自分を見つめる蘭に哀が何も反応出来ずにいると快斗が「あれ?蘭ちゃん、その恰好……」と助け舟を出すように声を上げた。
「あ、これ?実は建築デザイナーの平林果音さんからパーティーに招待されたの。お母さんの事務所の内装デザインを手掛けて下さったのが平林さんでね、『妃先生が事務所の写真をホームページに掲載して下さった事がきっかけで私は飛躍出来たんですから』ってわざわざ招待状を持って挨拶に来てくれたんだよ」
「……」
偶然にしては出来すぎている話の展開に哀は思わず快斗を見た。快斗も同じ心境なのだろう、黙って頷くと「蘭ちゃんがいるなら哀ちゃんの事は心配要らないね。じゃ、俺はこれで」と笑顔を向けると車を発進させた。
「相変わらず黒羽君も忙しそうだね。そういえば哀ちゃんはどうしてここへ?」
「フサエさんの代理を務めるはずだった博士が体調崩しちゃってね……」
「フサエさん……?あれ、何か受賞されてたっけ?」
オフレコ案件を勝手に喋る訳にもいかず、哀は「なんでも交流のあるデザイナーが受賞されたそうで、そのお祝いに顔を出す予定だったそうよ」と、詳しい事は知らないと言わんばかりに話を切った。



同時刻。
甲府市内のホテル最上階に位置するスイートルームのクイーンサイズベッドで微睡んでいた新一は、ジャケットに入ったままになっていた携帯が鳴る音にその身を起こした。
内ポケットに忍ばせているのはかつて『江戸川コナン』として使用していた携帯である。元の姿に戻った時に解約しても良かったのだが、小さな身体で生きていた時間を捨てるような感覚に番号だけ変えて手元に残したのだ。この番号を知るのは両親と阿笠のみで妻の蘭にさえ知らせていない。
「はい?」
「相変わらずお盛んなようで」
からかうような声の主に新一は眉根を寄せた。さすが元怪盗キッド、その情報収集力に内心感服する。
「分かってんなら邪魔すんな」
「俺だって女とよろしくやってる所に携帯鳴らす程野暮じゃねーよ。けど早目に連絡した方がいいと思ったんだ。実はちょっと気になる事があってさ」
「気になる事?」
「今夜のパーティー、蘭ちゃんも招待されてるみたいなんだ。しかも招待したのは今、名探偵と懇ろの美女ってんだから何かあるとしか思えないじゃん?」
「……」
快斗の話に新一が黙り込んだその時、バスルームのドアが開くとバスローブ姿の果音がこちらへ向かって歩いて来た。
「悪ぃ、かけ直す」
慌てて携帯を切るこちらの様子に果音は「お友達?」と愉快そうに微笑んでいる。そんな彼女を無視するように新一は「一連の事件の犯人は……あなたご自身ですね?平林さん」とその瞳を正面から見据えた。