赤を切るか青を切るか――間違ったコードを切れば命はない。しかし、このまま何もしないでいたら間違いなく死んでしまう。
自分達が置かれた状況に改めて苦笑すると、哀は一本のコードに指を掛けた。
「哀ちゃん、青を切る気…!?」
驚いたように声を上げる蘭に哀は「あなたなら赤を切るの?」と彼女を見た。
「確かに……愛する人と同じ選択肢を用意するのもありだと思う。でも……」
「でも?」
「平林さんがそんなロマンティストだとは思えないし……それに……」
「蘭さん……?」
「赤い糸なんて……そんな物、存在しないのよ……!」
自分達夫婦の現状を憂い、泣き崩れる蘭に哀は「あれだけ彼を信じていたあなたがそんな悲しい台詞を言うなんて……工藤君も罪な男ね」とその背中を優しく撫でた。
「でも蘭さん、あなたの選択にも根拠はないわよね?」
「それは……」
「工藤君は青、あなたは赤。だったら多数決でどうかしら?『違ってたらごめんなさい』で済む話じゃないけど、このまま放置する訳には行かないし。全ての責任は私が負うから」
「哀ちゃん……あなた……」
蘭自身、自分の選択に恐怖を感じているのだろう。「……ごめんなさい、どちらを切るかは哀ちゃんに委ねるわ」と呟くとそれ以上何も言わなかった。



タイマーは容赦なくカウントダウンして行く。さすがの哀も鋏を持つ手が震えた。
十年前、組織に追われる日々の中で命の危険に晒されたのは一度や二度ではなかった。FBIの組織壊滅作戦に加わった際は何度自分が死んだと思っただろう。しかし、それは自らの過去にけじめを付けるためであり、命を落とす事があっても仕方ないと思えた。
しかし今回の事件は完全にとばっちりだ。生還出来れば探偵への借りは充分返す事になるだろう。ここにいる人間の数を思えばお釣りが出てもおかしくない話だ。
(差額はしっかり払ってもらわないとね……)
そういえばフサエブランドが創立三十周年を記念した限定バッグを発売するという噂をネットで見た。さすがに学生の身分では手に入る値段ではなく諦めていたのだが、探偵としてそれなりにキャリアを積んで来た新一なら手が届くだろう。阿笠に買ってもらう予定のキーケースとウォレットを合わせればお揃いになる。
この緊迫する場面でそんな事を考えている自分が可笑しくて哀は思わずクスッと微笑んだ。
「哀ちゃん…?」
訝し気に首を傾げる蘭に「吹っ飛んじゃったら私を恨んでくれて構わないわ」と嘯くと哀は一本のコードを鋏で切断した。



「……どうやら小っさい姉ちゃん、賭けに勝ったみたいやなぁ」
新一の携帯に哀から連絡が入ったのは彼と平次がパーティー会場の二階下まで階段を登って来た時の事だった。
「みてえだな……」
レスキュー隊が救助に向かう様子やパーティー会場から避難して来る客達の姿が見え、新一はホッと胸を撫で下ろした。現場の人波に逆らうように階段を登り、パーティー会場の入り口まで辿り着いたその時、「新一……」という弱々しい声に足を止める。
「蘭!無事か!?」
「哀ちゃんのお陰でね……」
蘭の視線の先には「遅い」と言いたげにこちらを睨んでいる哀の姿があった。いつの間にか快斗の姿もある。
「灰原、オメーもしぶといな」
「あなたにだけは言われたくない台詞ね。それより……犯人は確保したの?」
「ああ、服部が山梨県警の上司に連絡してくれた。滞在中のホテルから素直に連行されたそうだ」
「そう……」
「それはそうと……オメー、赤と青どっちを切ったんだ?」
「青だけど?」
「やっぱオメーも赤い糸を信じてんのか?」
「あなた、私がそんな伝説を信じてると本気で思ってる?」
「だったらどうして……」
「知ってるでしょ?『コード・ブルー』って言葉」
「医療機関で使われている隠語だろ?患者の容態が急変した時に医師や看護師を招集するための……って、オメー、ひょっとして……」
「命を救う研究に携わる者としてコード・ブルーは残せなかったの」
哀は次々救助されて行くパーティー出席者達に穏やかな視線を送ると「黒羽君、悪いけど家まで送ってくれる?」と快斗の方に振り返った。
「おい、まだ事情聴取が……」
「さすがに今夜は疲れたから帰らせて頂くわ。警察にはあなたから上手く言っておいて頂戴。それくらいしてもらっても罰は当たらないでしょ?」
さっさと現場を後にする哀の後ろ姿を新一は呆然と見送る事しか出来なかった。



「全く……名探偵の事件吸引体質は相変わらずだね。人使いは粗いし勘弁して欲しいよ」
「よく言うわ。満更でもない顔してるわよ?」
米花シティービルから少し離れた場所に駐車してあった愛車の運転席でやれやれと肩をすくめる快斗に哀は思わず苦笑した。
「爆弾の設計図を探し出した上、わざわざ色黒の探偵さんに連絡を取ってあげるなんて……本当、お人好しなんだから」
「怪盗キッドはハートフルが売りな泥棒なもので♪」
おどけた口調で返したのも一瞬、快斗が「せっかく哀ちゃんに米花町へ戻って来てもらったけど……名探偵と蘭ちゃん、もう無理かもな」と天井を仰いだ。
「あんな状況で不謹慎だって怒られちゃうかもしれないけどさ、実は俺、さっき名探偵を試したんだ」
「試した?」
「そもそも設計図さえあれば俺にだって爆弾解体の指示くらい出せる。あえて言われるがまま名探偵に図面を送ったのはアイツがどう動くか見たかったからなんだ。十年前の事件の詳細は俺も知ってたし、あの時爆弾を解体した蘭ちゃんが会場にいる事を知ったらアイツはどうするかと思ってさ」
「彼……知ってたの?蘭さんもいるって……」
「あの女が蘭ちゃんを招待したからには何かあると思って知らせたんだ。にもかかわらず名探偵が連絡を取ったのは哀ちゃんだった。これが何を意味するのか考えるとさ」
「……」
快斗はふいに真面目な表情になると「哀ちゃん、振り回してゴメン」と頭を下げた。
「わざわざ進路まで変更してもらったのに……」
「謝る必要なんてないんじゃない?」
「え?」
「黒羽君が私をこの街へ呼び戻したのは工藤君に自分を取り戻してもらいたかったからでしょう?」
「そうだけど……でも哀ちゃんをまたこんな危険な事件に巻き込んじゃったのは事実だし。あ〜、俺、阿笠博士に抹殺されるかも」
ムンクの名画『叫び』に描かれた人物のポーズを真似てみせる快斗に哀はクスッと笑うと、「でも……今回の件でどうやら私も自分が救いようのない人間だって思い知らされたわ」と肩をすくめた。
「どういう事?」
「私も工藤君と同類、平穏な暮らしには満足出来ない人間なのよ。今回の事件……大きな爆弾を目の前にして怖くなかった訳じゃないわ。でもあの状況に興奮している私が確かに存在したの。たくさんの人の命を預かるのはプレッシャーだったけど、一か八かの賭けを他の人に譲りたくはなかった――こんな事公言したらただじゃ済まないけどね」
車窓に映る米花シティービルをぼんやり見つめる哀に快斗は「……名探偵が『相棒』と呼ぶだけの事はあるね」と、感服したように微笑むと愛車を発進させた。