「……コラッ!いい加減に起きなさいってば!」
突然、布団をガバッと剥ぎ取られコナンはハッと我に返った。目の前には腰に手をあて渋い顔で自分を睨む幼馴染の姿がある。
「ら、蘭……姉ちゃん……」
「『蘭姉ちゃん』じゃないでしょ?さっさと朝ご飯食べて支度しないと遅刻だよ!」
「う、うん……」
眠い目をこすりつつ身体を起こすと読みかけの本が布団から落ち、コナンは慌てて枕元に隠した。普段から小学校一年生にしては難しい本を読んでいると思われているだろうが、さすがに原語のホームズシリーズを読んでいる事がバレたら言い訳するのも苦しい。
「着替え、そこに置いてあるからね」
自分の支度もあるせいかこちらの行動に気付かず部屋を後にする蘭にコナンはホッと息をついた。枕元の伊達メガネを掛け布団をたたむと洗面所へ向かう。
鏡に映るのは勿論、小学校一年生の『江戸川コナン』。
「……ったく。何なんだよ、あの夢」
この一週間、何度同じ夢を見ただろう?『工藤新一』が『江戸川コナン』に取って代わられるかのような悪夢。暗示のように繰り返し見る夢にどうも気分がすっきりしない。
黒ずくめの組織を壊滅させて早一ヶ月が過ぎようとしていた。警察が証拠品として押収した組織のコンピューターには勿論APTX4869のデータも含まれていたが、さすがに一般人のコナンに手が出せるはずはない。父、優作の力を借りデータを受け取る事が出来たのがちょうど一週間前の話だ。それ以来哀は学校を休み解毒剤の開発に没頭している。哀には「無理はするな」と言ったものの、いざ『工藤新一』に戻れる日へのカウントダウンが始まると興奮する気持ちを抑えられなかった。
(灰原のヤツ、早く完成させてくれねえかな……)
コナンは大きく溜息をつくと蛇口をひねった。



「あ、コナン君、おはよう!」
コナンの姿を認めた瞬間、歩美が嬉しそうに大きく手を振った。
「よぉ」
「おはようございます」
「あれ、元太は?」
「元太君、寝坊しちゃったみたいで後から走って来るそうです」
「そういえば昨日は……」
元太が好きなテレビゲーム『ネオ・ファイナル・クエスト』の発売日だったはずだ。おそらく深夜までゲームに熱中し起きられなかったのだろう。
「……ったく、元太のヤツ、しょーがねーな」
呆れたように肩をすくめるコナンを「ねえ」と歩美が突付いた。
「コナン君、哀ちゃんは?」
「灰原?」
「もう五日も学校休んでるんだよ?本当にただの風邪かなあ?」
「ボクも疑問です。コナン君、博士から何か聞いていませんか?」
「べ、別に……」
正直な事を話す訳にもいかずコナンが曖昧に微笑んだその時だった。「……心配してくれてありがとう。もう大丈夫だから」という声が聞こえたかと思うと哀が姿を見せる。
「哀ちゃん…!」
「おはようございます。身体、大丈夫ですか?」
「ええ。風邪はとっくに治ってたんだけど心配性の博士がうるさくてね」
下手な詮索を入れられないようごく自然に話を流す手腕はお見事としか言いようがない。
「あら?小嶋君は?」
「あ、元太君なら……」
光彦の説明を遮るようにバタバタと四人がいる方向へ駆け寄って来る足音が聞こえたかと思うと「……な、何とか追いついたみてえだな……」と、息も絶え絶えに元太がやって来た。
「元太君!」
「これで少年探偵団五人全員、久しぶりに揃いましたね」
「灰原、お前、やっと風邪治ったのか?」
「小嶋君、人の心配をするより自分が寝坊しないように気をつける方が先なんじゃない?」
哀のきつい指摘に元太が言葉を詰まらせる。
「アハハ、確かに灰原さんの言う通りですね」
「うるせー!」
相変わらず一言多い光彦に元太が殴りかかる。その様子にコナンが溜息をついた時だった。
「……解毒剤、出来たから」
何でもない事のようにサラリと言われ、コナンは一瞬自分の耳を疑った。
「え……お前、今何て……?」
「あなたまで寝ぼけないで頂戴。APTX4869の解毒剤、やっと完成したわ。今後の事も相談したいし今日の帰り、博士の家へ寄ってくれる?」
「あ、ああ……」
「じゃ、よろしくね」
それだけ言うと哀はさっさと歩き出してしまう。あれだけ待ちわびた解毒剤だが、いざ出来たと言われると現実感が伴わずコナンはその場に立ち尽くした。
「コナン君、何ボーっとしてるの?おいてっちゃうよ」
「お、おう……」
歩美の声にハッと我に返りコナンは慌てて四人の後を追った。



阿笠邸に着いたコナンを出迎えたのは意外な人物だった。
「おかえりー、新ちゃんv」
「か、母さん……どうして……!?」
「『どうして』はないんじゃない?解毒剤が完成したっていうから飛んで来てあげたのに」
不機嫌そうに頬を膨らませる有希子にコナンは「父さんは?」と話の矛先を変えた。
「優作なら今頃ロスのホテルに缶詰にされてるんじゃないかしら?本当は一緒に来る予定だったんだけど家を出る時運悪く編集者に見つかっちゃってね」
「ハハ……」
相変わらず編集者泣かせの父に思わず苦笑する。
「ま、とりあえず江戸川文代がいれば小五郎君の家から『コナン君』を引き取る事は出来るから問題ないでしょ?」
「とりあえずって……」
「念には念をって事よ」
哀がクールな視線をコナンに投げる。
「マウス実験では100パーセント成功してるわ。でも、万一失敗した場合の事を考えると今の段階で『江戸川コナン』の存在を完全に消してしまうのは得策じゃない……あなたのお父さんとも相談して小学校には一時親元に帰ったって博士に連絡してもらう事にしたの。そうすればどう転んでもあなたの居場所がなくなる訳じゃないでしょう?」
「……なるほどね」
自分の知らない所でいつの間にか話がどんどん進められていた事に不満を感じない訳ではなかったが拗ねたところで仕方ない。何よりテーブルの上の小瓶に入ったカプセルを見た途端、元の身体に戻れるという実感が湧き上がり興奮を抑える事が出来なかった。
「で……おめえはどうすんだよ?」
「え?」
「『灰原哀』の存在さ。さすがに二人同時に親元へ帰った事にするのは無理があるような気が……」
「バカね、私があなたと同時に飲めるはずないでしょ?」
「飲めるはずないって……じゃ、オレはモルモットかよ?」
「分かってないのね。私にはあなたの体調が安定するまできちんと見届ける義務があるの。万一私が先に死んでその後あなたに何かあったらどうするつもり?」
「それは……」
「なんなら私が先に飲んでもいいのよ?ただし、もし私が死んでしまったらあなたは一生『工藤新一』に戻れないかもしれないけど」
「……分かったよ」
哀の言う事は正論でコナンは「オレが先に飲めばいいんだろ?」と肩をすくめた。
「じゃ、7時頃に変装して探偵事務所へ行くから。蘭ちゃんに気付かれないようなるべく荷物をまとめておくのよ」
「ああ」
「ウフッv久しぶりに女優魂に火が点くわ〜」
「……」
やる気満々の母にコナンは溜息をつくと阿笠邸を後にした。



コンコンッというノック音に哀はキーボードを打つ手を止めた。ドアが開き有希子が「ちょっといい?」と哀の許可を待たずに部屋へ入って来る。
「一つ聞きたい事があるんだけど」
「何でしょう?」
「ねえ哀ちゃん、あなた、これでいいの?」
「え…?」
「新ちゃんが元の身体に戻ってお終いでいいのかなーっと思って」
「お終いも何も……工藤君があんな身体になったのは元はと言えば私のせいです。その責任を取るのは当然の事で……」
哀の言葉を遮るように有希子は「そういう意味で聞いてるんじゃないんだけどなあ〜」と、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。どうやら自分の胸中はこの伝説の女優にはお見通しのようで哀は思わず苦笑する。
「時の流れを無理矢理ねじ曲げようとすれば人は罰を受けます。私にとってその罰が失恋で済むなら可愛いものではないでしょうか?」
「罰ねぇ……私はあなたが『宮野志保』の存在を葬るだけで充分だと思うけど?」
「どうして…!?」
愕然となる哀に有希子が満足気に微笑む。
「引っ掛かった〜!哀ちゃんったら意外と素直なのねv」
「あ……」
かまを掛けられた事に気付いても今更で哀はフッと息をついた。
「本当は私自身も元の身体に戻って自分の罪を償うべきだって事は分かっています。でも……」
「哀ちゃんが志保ちゃんに戻ったらAPTX4869の事は公になっちゃうわよねぇ〜」
「……」
「新ちゃんの身の安全を思って元の身体に戻らない道を選択した……違う?」
「あの……工藤君にこの事は……」
「分かってる。落ち着いたら自分の口から話すといいわ」
有希子の優しい眼差しに哀は黙って頷いた。



「やーっぱり哀ちゃん、新ちゃんの事が好きみたいね〜」
リビングに戻り阿笠の正面に腰を下ろすと有希子はフウッと大きく息をついた。
「すまんのう、有希子さん。嫌な役目を押し付けてしまって……」
「あら、別に嫌な役目なんかじゃなくてよ。私自身も気付いてた事だし。それより博士が女の子の恋心に気を配るなんてね〜」
「いや、気付いたのは二週間前に遊びに来たフサエさんなんじゃが……」
「な〜んだ。でも納得v」
クスッと笑う有希子に阿笠が苦笑する。
「それで……その事に関係して君達夫婦に頼みがあるんじゃ」
「優作と私に?」
「その……新一君が元の身体に戻れば当然以前のような生活に戻るじゃろう。その……蘭君との関係も含めての。いくら叶わぬ恋と覚悟を決めているとはいえ哀君にとっては辛いと思うんじゃ。図々しい事だと分かってはおるが、新一君の体調が安定したらしばらく哀君をロスで預かってくれんかの?」
阿笠の言葉に有希子は考え込むように顎に手を掛けた。
「優作はとやかく言う人間じゃないし、私は昔から娘が欲しかったから哀ちゃんに来てもらうのは大歓迎だけど……」
「やっぱり……無理かのう?」
「今、哀ちゃんが日本を離れちゃったら面白くないじゃない。恋のレースは新ちゃんが元の身体に戻ってからが本番だと思うし」
「……どういう意味じゃ?」
首を傾げる阿笠に有希子は「すぐに分かるわv」と鮮やかなウインクを投げた。