江戸川文代に変装した有希子が毛利探偵事務所に現れたのは丁度夜7時のニュースが始まろうとした時だった。さすがに伝説の女優と謳われるだけの事はありその演技力は健在で、「本当に長い間お世話になってしまって……」と、大袈裟にペコペコ頭を下げる女の正体を小五郎も蘭もまったく疑っていない様子である。
「いやぁ〜、私の方こそ息子が出来たみたいで楽しかったですよ」
調子よく笑う小五郎に対し蘭の表情は寂しげだ。この数ヶ月、弟同然に可愛がっていた人間が突然いなくなるのだから無理はあるまい。
「良かったね、コナン君。お父さんやお母さんと一緒に暮らせる事になって」
必死に笑顔を取り繕う幼馴染の姿に胸が痛み、さすがのコナンも言葉を口にする事が出来なかった。
「それでは私どもはこれで……」
「……あ、ちょっと待って頂けませんか?」
立ち去ろうとする二人を引き止めると蘭が奥の部屋へ走って行く。戻って来た彼女の手には一枚の封筒が握られていた。
「これ……以前お預かりしたコナン君名義の通帳と印鑑です。お返しします」
「そんな……残金はお礼代わりに受け取って頂ければ……」
「そういう訳にはいきません。それに下手にお金があると父が無駄遣いするだけですから」
「そうですか……それでは後日改めてお礼を送らせて頂きますわ」
「コナン君、また遊びに来てね」
「う、うん……」
もうこれで『江戸川コナン』として蘭の前に現れる事はないかもしれないだけに罪悪感を抱かない訳ではなかったが、今はまだ真実を明かす訳にはいかず、肯定の返事を返す事しか出来ない。
「バイバイ、蘭姉ちゃん」
コナンは蘭に手を振ると有希子とともにビルの階段を降りて行った。



「フ〜、第一段階クリアね」
阿笠邸に到着し、変装を解くと有希子がホッとしたように呟いた。
「サンキュー、母さん」
「それにしても新ちゃんのお子様演技もすっかり板についたわね。な〜んか元の身体に戻っちゃうの、つまんないなあ」
「何バカな事言ってんだよ」
「だって〜、小さな新ちゃんと一緒にいると私まで若返った気分になれるしv」
相変わらず能天気な母にコナンが溜息をついた時だった。「お疲れ様でした」という小さな声が聞こえたかと思うと哀がコーヒーカップを載せたトレーを手にやって来る。
「お仕事の後はミルクたっぷり砂糖抜きでしたよね?」
「わぁ、哀ちゃん気が利く〜v」
「あれ?灰原、オレの分は?」
「あなたは何もしてないでしょ?自分で淹れて頂戴」
「……分かったよ」
肩をすくめキッチンへ向かおうとしたコナンを引き止めたのは「あら…?」という有希子の怪訝そうな声だった。
「どうした?母さん」
「小五郎君ったら……この通帳、全く手を付けてないじゃない」
「え…?」
「ホラ」
手渡された通帳には『お預け入れ 一千万円』と記載されているだけで現金が引き出された様子はなかった。
「新ちゃんの活躍であの事務所もかなり儲かったとはいえ……さすがにちょっと心苦しいわねぇ。ロスへ戻ったら優作に相談するわ」
「あ、ああ……」
おそらく通帳も印鑑も蘭が牛耳っていたのだろう。しっかり者の幼馴染にコナンは思わず苦笑した。
「それはそうと……工藤君、そろそろいいかしら?」
「ああ、いよいよ……戻れるんだな」
「ええ、これでやっと私も肩の荷が下りるわ」
「……っと、薬飲む前に着替えねえと」
立ち上がろうとするコナンの動きを制するように見覚えのあるパジャマが差し出された。
「あなたの自宅から勝手に一着拝借したわ。一足先に博士と準備してるから着替えたら地下へ来て」
それだけ言うと哀はさっさとリビングから出て行ってしまう。
「しっかりしてるところはどっちもいい勝負かぁ……」
「あん?」
「ウフッ、こっちの話v」
企むような笑顔に首を傾げるものの何を聞いても無駄な事は百も承知で、コナンは「じゃ、オレ、着替えてくるから」とだけ呟くとパジャマを手に立ち上がった。



「脈拍、心拍数ともに正常ね」
計器に表示された数値を確認するように呟くと哀がコナンに一錠のカプセルを差し出した。
「これが……」
「解毒剤よ」
「……」
過去『死ぬかもしれないけど試してみる?』と彼女に差し出された試作品を躊躇なく飲んだ自分が完成品を前に緊張するのは何故だろう?元の身体に戻れるという興奮なのか、それともこのまま死んでしまうかもしれないという不安なのだろうか?
そんなコナンの複雑な心境を見透かすように「信用出来ない?」と哀が小悪魔のような笑みを浮かべる。
「まさか」
「新ちゃん……」
さすがの有希子も不安なのか心細い表情でコナンを見つめている。
「心配すんなよ母さん、オレ、しぶといからさ」
「心配なんてしてないわよ。私は哀ちゃんの事信用してるし」
「それより……気になるのはアイツらだな」
「アイツらって?」
「元太達さ。これでオレが元の身体に戻ったらアイツらとの関係も消滅する訳だろ?」
「そうねぇ〜、特に歩美ちゃん、新ちゃんにメロメロだものねv」
顔を赤らめオホンと咳払いするコナンに「大丈夫よ」と哀が呟いた。
「『江戸川コナン』の存在が消えてもあなたがあの子達と過ごした日々まで消える訳じゃないわ。それにあの子達、探偵事務所の彼女と面識あるじゃない?近い将来嫌でも付き合う羽目になるわよ」
「そう……だな」
「その時はくれぐれも同一人物だって気付かれないように気をつけてもらいたいものね」
「……分かってるよ」
コナンは覚悟を決めるように哀の手からカプセルを受け取るとベッドに座り、傍に用意されたグラスを取った。
「灰原、頼んだぞ」
「ええ」
カプセルを口に放り込み水を飲み干す。
反応はすぐに現れた。身体が熱くなり心臓が張り裂けそうな勢いで鼓動する。
「新ちゃん!!」
「新一君!?」
「工藤君…!」
心配そうに叫ぶ三人の声を聞いたのが最後、コナンは意識を失った。



「……?」
気が付くと周囲は闇に包まれていた。
(オレは……そうだ、灰原が作った解毒剤を飲んで……)
暗闇に目が慣れて来たのだろう、次第に周囲のものが見えるようになって来た。手をかざすと成人のものと思われる掌が映る。
(どうやら上手くいったみてえだな……)
安堵してホッと息をついた時だった。突然、ポウッと全身が光に包まれたかと思うと下半身から身体が溶け出し、光の帯となって二つの方向に流れて行く。
「なっ…!?」
次の瞬間、強烈な閃光に新一の視界は奪われた。



「新ちゃんッ!」
気が付くと阿笠と有希子が心配そうに新一の顔を覗き込んでいた。
「母さん…?博士……?」
「気分はどうじゃ?」
「あ、ああ……」
少し頭がズキズキするもののそれ以外特に感じる症状はない。上体を起こすと長い手足が目に映った。
「無事元の身体に戻れたみてえだな……」
「え、ええ……ただね……」
複雑な表情の有希子に一瞬首を傾げるがその原因はすぐ明らかになった。
「よぉ、気が付いたみてえだな」
生意気な子供の声に「あん?」とその方向を見た瞬間、新一は思わず絶句した。そこにいたのは存在するはずのない『江戸川コナン』だったのである。



「おい、灰原、一体何がどーなってんだよ!?」
「そんな事、こっちが聞きたいわよ……」
掴みかからんばかりの勢いの新一に哀は参ったと言いたげに両手を広げて見せた。
「薬を飲んで1分27秒後にあなたは『工藤新一』に戻ったの。さすがに少しの間は苦しそうだったけどそれも段々治まって私達がホッとした時だったわ。突然、あなたの身体が強烈な白い光に包まれて……気が付いたら『工藤新一』の横に『江戸川コナン』が出現してたって訳」
「……」
新一は思わず隣に座るコナンを見た。
「江戸川君の方が先に意識を取り戻したから問診してみたんだけど……どこをどう切ってもあなたの分身なのよね。性格は勿論、頭脳、思考回路、行動パターンその他諸々……」
哀はハーッと溜息をつくと「工藤君……あなた、よっぽど変わった体質なのね」と、恨めし気な視線を新一に投げた。
「……って、オレのせいにすんなよな!」
「だって理論は完璧なのよ。実験も100パーセント成功してたわ。あとは服用した本人の体質としか考えられないじゃない」
「本人の体質って……」
「それにしても……困ったわね。あなた達二人が実は一人の人間だと世間にバレたら大変な事になるわ。どんな事があっても隠し通さないと……」
「……どういう意味だよ?」
それまで黙って新一と哀の会話に耳を傾けていたコナンが初めて口を開いた。
「分からないの?あなた達二人は完璧なクローンなのよ。クローン技術に関しては世界中で様々な機関が競って研究してるけど未だその理論は完成してないわ。そんな状況であなた達の存在が明るみになったら……いい研究材料にされる事は火を見るより明らかでしょ?」
「それは……」
「じゃあなんだ?オレは…っていうかオレとコイツはまた秘密を抱えて生きていかなくちゃいけねえのかよ!?」
「そうなるわね」
「そうなるって……おめえな!」
「誰よりも真実を追い求めるあなたにとって周囲の人間を偽り続ける事がどれだけ辛いか私なりに分かってるつもりよ。特に大切な存在である彼女には全てを話して楽になりたいでしょう。でも、あなたの身の安全のため許可する訳にはいかないわ。悪いけど私の指示に従ってもらうわよ、工藤君、江戸川君」
「……」
「……」
有無を言わせない強い口調で言い切る哀に新一もコナンも言葉を飲み込む事しか出来なかった。