「小学生らしからぬ行為じゃない?窓の外を見る度に溜息ばかりつくなんて」
昼休み。給食を食べ終え帝丹高校の方角を見つめていたコナンはからかうような哀の声に「うっせー」とだけ返すと彼女の方に振り返った。同時に歩美、元太、光彦の姿が瞳に飛び込んで来るが、幸い三人は昨夜のテレビ番組の話題に夢中でコナンと哀の会話にはまったく関心を払っていない様子である。
「工藤君の事が気になる?」
「そりゃ……アイツにはオレと違って監視役がいねえし……」
「監視役とは失礼ね。フォローする人間が傍にいるだけ感謝して欲しいくらいだわ」
「別にフォローなんかしてもらわなくたって……」
「あら、そんな事言って後で泣いても知らないわよ?」
「……」
「……江戸川君?」
心ここにあらずといった感じのコナンに哀は「……どうやら他に何か気になる事があるみたいね?」と探るような視線を向けた。
「そ、そんな事……ある訳ねーだろ?」
相変らず鋭い哀にコナンは必死に笑顔を取り繕うと「心配事があるとすればアイツが『江戸川コナン』だった時に解決した事件を自慢したりしねえかって事くれえかな?」と、小さく肩をすくめた。
さすがに哀に素直に白状するのも憚られ適当に誤魔化したものの、コナンの心に一番引っ掛かっているのは新一の傍に蘭がいるという事だ。新一がもう一人の自分である以上、彼が蘭とよろしくやっている状況は好ましい事だと頭では理解出来るものの、その一方『江戸川コナン』として小学生ライフを送っている自分を思うと素直に喜べない。
どうやら哀はコナンのそんな心境に気付いていないようで、「自分が信用出来ないっていうのも皮肉だけど……そうね、彼の事はあなたが一番よく分かっているでしょうし、心配するなって言う方が無理でしょうね」と納得するように呟いた。
「……おめえな、こういう場面、普通だったら『心配しなくても大丈夫よ』とか慰めるもんじゃねえ?」
「そんな無責任な事言えないわよ。あなたの目立ちたがり屋なところは半端じゃないし」
「……」
拗ねたように頬を膨らませ黙り込むコナンに哀はクスッと微笑むと「でも……あなたは以前のあなたじゃないんでしょう?」と、諭すように呟いた。
「え…?」
「『江戸川コナン』として生きるようになってからあなたの忍耐力や思考力は随分成長したはずよ。違う?」
「それは……」
「あなたのお母さんも驚いてたわよ。『自己顕示欲の塊だった新ちゃんがねえ〜……随分辛抱強くなったもんだわ』って」
「……おめえ、一体、母さんとどんな会話交したんだよ?」
「気になる?」
「……」
尋ねたところではぐらかされるのがオチだろう。コナンは哀から視線を逸らすと再び溜息とともに窓の外を見つめた。



放課後。久しぶりの高校生活を終え、下足場へと歩いていた新一は「あ、新一!」という元気な声に立ち止まった。振り返ると蘭が手を振って駆けて来る。
「今、帰り?」
「ああ、オレは帰宅部だからな」
「帰宅部ねぇ〜……本当、サッカー辞めなきゃ良かったのに」
「サッカーは探偵に必要な体力をつけるためにやってただけって言っただろ?」
「はいはい」
「それよりさ、蘭、久しぶりに一緒に帰らないか?」
「でも……私、空手部の練習が……」
真面目な彼女らしくサボるという行為に抵抗があるようで蘭はそのまま言葉を飲み込んでしまう。しかし、せっかくの復帰初日、新一は蘭とゆっくり会話する時間を確保したいという己の欲望を抑えられなかった。
「空手の大会終ったばっかなんだろ?」
「そうだけど……」
「眼鏡のボウズも心配してたぜ?『蘭姉ちゃん、空手の練習と家事の両立で無理ばっかしてるんだ。大丈夫かなあ?』ってよ」
「コナン君が?」
「ああ。アイツのためにも少しは息抜きしろよ。第一、おめえの実力なら一日くらい練習休んだって大した事ないって」
「……」
蘭はしばし迷うように口を噤んでいたが「……今日、夕食の買い出しをして帰らないといけない日なの。荷物持ち担当してくれる?」と笑顔を向けた。
「おう」
「ちょっと待ってて。部活休むって連絡して来るから」
「カバン忘れて来るんじゃねえぞ」
「失礼ね、そんなにドジじゃないわよ!」
蘭は一瞬怒ったように頬を膨らませたが、すぐに笑顔になると廊下を慌てて引き返して行った。その後ろ姿に新一の表情も自然緩む。
「……ったく。ニヤニヤしちゃって」
ふいに呆れたような声が聞こえたかと思うといつの間にか園子が腕を組んで新一を見つめていた。
「園子、おめえも一緒に帰るのか?」
「そうね、蘭を散々泣かせたあんたをとっちめたいのはやまやまだけど……私、今日、ちょっと用事があるのよね」
「用事ねぇ……襲撃の貴公子とデートってか?」
「な、なんであんたが真さんの事知ってるのよ!?」
「あ、その……眼鏡のボウズが言ってたんだ。『園子姉ちゃんにもやっと春が来たみたいだよ』ってな」
「あの生ガキ……今度会ったらただじゃおかないんだから……!!」
顔を真っ赤にして左の掌を右手の拳で殴る園子の姿に新一はもう一人の自分に降り掛かるであろう災難を想像し、心の中で同情した。
「それにしても……工藤君、あんたも他人の恋愛事情に茶々を入れてる場合じゃないでしょう?」
「あん?」
「蘭との事、いい加減はっきりさせなさいよ」
「蘭との事?」
ずっと傍にいて自分と蘭の気持ちが通じ合っている事は分かっている。しかし、それを知るのは『江戸川コナン』で『工藤新一』は全く知らない以上、合点がいかないといった表情を浮かべるしかない。幸い園子はそんな新一の演技にすっかり騙されているようで「……本当、名探偵が聞いて呆れるわね。あんた、蘭の気持ちに気付いてないの?」と、新一の胸を人差し指で突付いた。
「蘭はあんたの事が好きなのよ。変なとこ意地っ張りだからなかなか口には出さないけど、蘭にとってあんたは初恋の人なんだから」
「オレが蘭の…?」
「あんたにとっても蘭は初恋の人なんでしょ?麻美先輩から聞いてちゃーんと知ってるんだからね」
「麻美先輩って……中学の時の?」
「そうよ。ある事件で再開した時詳しい事情を教えてくれたの。あんたの本音も含めてね。もっとも蘭はそれが自分の事だって気付かなかったみたいだけど」
「ハ、ハハ……」
「そんな子いたっけ?」という蘭の台詞が鮮やかに蘇り新一は思わず苦笑した。
「蘭はあんたが行方不明の間、ずーっとあんたの事ばっか気にかけてたのよ。今度はあんたがその想いに応える番じゃなくて?」
園子の真剣な表情に新一が言葉を失ったその時、「新一、お待たせ!」という元気な声とともに蘭が戻って来た。
「あれ、園子?」
園子はそれまで新一を睨みつけていた表情をコロッと変えると「さすがの蘭も今日は部活サボって一緒に帰るんだ〜v」と、冷やかすような視線を親友に投げた。
「う、うん……あ、ねえ、園子も一緒に帰ろうよ。三人で帰るの久しぶりだし」
「何野暮な事言ってんのよ。熱々な二人の邪魔をするほど身の程知らずじゃなくてよ」
「熱々な二人って……ちょっと園子、新一と私は別に……!」
真っ赤になって反論する蘭を無視するように「じゃ」と手を上げると、園子はさっさとその場から立ち去ってしまった。



久しぶりに一緒に帰るせいか蘭はいつもより饒舌になっている様子だった。もっとも、その話す内容は『江戸川コナン』として傍にいた新一は当然の事ながら大方知っている内容ばかりである。
未知の事に対しては他人より興味を示す新一だが、逆に既に知っている事実を止めどなく話題にされるのは苦痛以外の何物でもない。しかし、『工藤新一』と『江戸川コナン』が実は同一人物である事を話せない以上、蘭が振って来る話題のほとんどは新一にとっては初耳という事になり、嫌でも適当に返事を返したり相槌を打ったりしなければならなかった。退屈で仕方ない胸中を蘭に悟られなかったのは母、有希子から受け継いだ女優の遺伝子のお陰だろう。
「そういえば新一、食事はきちんと採ってる?」
スーパーを出て家路へとついた時、蘭が思い出したように呟いた。
「今までは一人だったから適当に済ませてたと思うけど、育ち盛りのコナン君が同居する事になったんだもん。栄養のバランスとかきちんと考えないと……」
ふいに蘭は言葉を切ると「そうだ!私、作りに行こっか?」と、両手をパチンと合わせた。
「部活もあるし毎日っていう訳にはいかないけど……コナン君も私が作る料理『おいしい』って言ってくれてたし……ね!」
蘭の笑顔に新一は内心の複雑な思いを抑えると「……蘭、おめえの好意は嬉しいけどよ、その心配はいらねえからさ」と肩をすくめた。
「え…?」
「オレもコナンも食事は博士の家で世話になってるんだ」
「博士の家?……って事は哀ちゃんが作ってるの?」
「ああ。灰原の料理に母さんが惚れ込んじまってさ。食費の名目で強引に500万円も預けちまったんだ。灰原も変なところ真面目で『お金を預かった以上、きちんと食べに来て頂戴ね』ってうるさくてよ」
「そう……」
出鼻を挫かれ、すっかり意気消沈してしまった蘭に新一は「け、けどよ、たまには作りに来てくれねえか?」と慌てて言葉を続けた。
「博士のダイエット対策で和食中心のメニューが多くてさ。正直、ちょっと物足りないんだ」
「う、うん……」
「コナンのヤツはオレ以上にガッツリ食いたいと思う時もあるだろうしよ」
「小学生なんだもん。当然でしょ?」
蘭はクスッと笑うと「そうだよね……」と独り言のように呟いた。
「コナン君が新一だなんて……私、何バカな事……そんな事ありえないのに……」
「あ、当ったり前だろ。大体、文化祭の時オレとあのボウズが一緒にいたのをおめえだって見てるじゃねえか」
「そうだけど……新一ならどんなトリックを思い付いてもおかしくないし」
「バーロー、いくらオレでも人間が分身するトリックなんて思いつかねえよ」
そんなトリックがあるなら教えてもらいたいくらいだ。それが可能なら逆もまた可能だろう。
「それにしてもコナン君って本当に新一によく似てるよね。あの思考力、分析力、行動力……どれを取っても小学一年生とは思えないもん」
「ま……アイツはオレの一番弟子みたいなもんだからな」
「生意気なところも新一譲り?」
そういえば園子の『江戸川コナン』に対する呼称は『あのナマガキ』だったなと思い出し新一は思わず苦笑した。同時に「いい加減はっきりさせなさいよ」という台詞がフラッシュバックする。
「……新一?」
ふいに黙り込んでしまった新一に蘭が小首を傾げると彼の顔を覗き込んで来た。
「どうしたの?久しぶりの学校で疲れちゃった?」
「いや、んな事ねーけど……」
告白するならもっとロマンティックなシチュエーションに憧れない訳ではない。しかし、過去そんな事に拘って何度その機会を逃しただろう?何より蘭はあんなに自分の帰りを待っていた。そして自分の本音を知りたがっていた。
新一は決意するようにゴクッと唾を飲み込むと「蘭、オレ……おめえに言いたい事が……」と、彼女の瞳を真剣に見つめた。
「え…?」
「オレ……おめえが好きだ……」
「新一…?」
一瞬、言われた事が理解出来ないと言いたげに目を瞬かせた蘭だったが、「……本当に?」と探るように新一の顔を見つめ返して来た。その何とも愛らしい表情に新一は思わず顔を赤らめると彼女から視線を逸らした。
「こんな事……冗談で言える訳ねーだろ?」
「……」
「で……その……蘭はオレの事、どう思ってる?」
「わ、私……」
時間にすればわずか数秒だっただろう。しかし蘭の答えがなかなか返って来ない事に新一の苛々が募った。
ずっと傍にいて彼女の気持ちを知っているとは言え、元の身体に戻った自分を前に蘭の口からはっきりその気持ちが聞きたかった。
苛々が限界に達し蘭の方へ振り返った新一は彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちている事に驚きのあまり自分の目を疑った。
「蘭…!?」
もしかしたら自分が気付かなかっただけでいつの間にか蘭の心は他の男に傾いていたのだろうか?そんな疑問が新一の頭を過ぎった瞬間、蘭の唇から「私も……私も新一が好き…!」という台詞が零れた。
「蘭…!」
「新一…!」
やっと想いが通じ合った事に感極まり新一が蘭を自分の胸に抱き寄せようとしたその時だった。「あー!新一兄ちゃんだぁ」という聞き慣れた声に慌てて動きを止めるとコナンと哀がこちらを見つめている。二人だけという事はおそらく三人組とは別れた後なのだろう。
「コ、コナン、お前……!」
せっかくの盛り上がりを邪魔しやがって……!そんな新一の苦々しい視線に気付いているのかいないのかコナンは蘭に駆け寄ると「蘭姉ちゃん、どうしたの?新一兄ちゃんに酷い事言われたの?」と心配そうな表情で蘭を見つめた。
「そ、そんなんじゃないよ……」
「でも……蘭姉ちゃん、泣いてるよ?」
「目にゴミが入っただけ。心配してくれてありがとう、コナン君」
「……」
仏頂面の新一とその彼を不審そうに見つめるコナンに哀が意味深な視線を送っている事に気付く者は誰一人いなかった。