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「君の名前は灰原哀といっての、数年前にご両親が事故で亡くなられ、遠縁であるわし、阿笠博士が引き取ったんじゃ」
医師の許可もあり、翌日から哀に彼女の失くした記憶を話す事になった。しかし、すべてを話すのは今の哀の状態を考えると到底無理な事、そしてこれから一緒に生活していく事を考慮しコナンと阿笠の間で新たに作られた記憶もあった。
「ここにいる江戸川コナン君もわしの遠縁の方の息子さんでのう、事情があって今後は同居する事になった。君と同じ帝丹小学校に通っておる。この女性はフサエ・キャンベル・木之下さん。わしの……その……」
「奥さんってところさ。籍は入ってないけどな」
阿笠が言い淀んでいるのを見かねたコナンは横から口を出した。阿笠が照れたようにコホンと咳払いする。
「わしとフサエさん、コナン君、哀君。4人家族という訳じゃ」
「昨日の人は?」
「昨日の人とは……えーっと、どの人の事かの?」
「赤井秀一っていうお兄さん。私に一番近い親戚だって言ってたけど……」
「確かに赤井さんは君にとって一番近い親戚じゃ。じゃが仕事柄なかなか君を引き取る訳にはいかなくてのう……さすがに君が記憶喪失になったと聞いて駆けつけて来たようじゃが……もし君が今後は赤井さんと暮らしたいというならそれも選択肢の一つじゃ」
「……」
阿笠の言葉に哀は黙ってしまった。
「なあに、退院までまだ日はある。わし達と暮らすか赤井さんと暮らすかじっくり考えて決めればよい事じゃ。それに哀君がひょっこり記憶を取り戻す可能性もゼロではないしの」
「はい……」
阿笠と哀の会話にコナンは蘭が一時的に記憶喪失になった時の彼女の言葉を思い出していた。
『私だって……私だって出来るなら記憶を失くしたいわよ……お姉ちゃんが殺された事や組織の一員となって毒薬を作った事……みんな忘れてただの小学生の灰原哀になれたらどんなにいいか……そしてあなたとずっと……ずっとこのまま……』
あの時は誤魔化されてしまったが、あの言葉は哀の本音だったのではないか?だとすると哀はあの頃から自分を異性として意識していた事になる。
(本当……自分の事は見えてねえよな)
せっかく自分が哀への想いを自覚したかと思ったら今度は哀がコナンへの想いも含め、すべて失くしてしまったという皮肉な現実にコナンは苦笑するしかなかった。
「大体こんなところじゃが……他に何か聞いておきたい事はあるかの?」
「服部平次っていうお兄さんは……?」
「平次君は大阪の有名な高校生探偵じゃ。彼のお父さんとわしが知り合いでの、時々東京に来ては顔を出しておる」
「探偵……」
「ん?どうしたんじゃ?」
「昨日……お見舞いに来てくれた三人の子達が『少年探偵団』って言ってたから……」
「アイツらの探偵ごっこと一緒にしたら平次兄ちゃん怒るぜ?」
「『探偵ごっこ』とは失礼じゃありませんか、コナン君」
突然、病室の扉が開くと、歩美、元太、光彦の三人がコナンを睨んでいた。
「お、おめえら!学校はどうしたんだよ!?」
「何言ってんだ?今日はこの前の授業参観日の振り替えで休みだぜ?」
そういえば仕事を持つ親のために土曜日が授業参観日で登校した事があった。コナンにしても哀にしても参観に来る親がいるはずもなく全く無関心だった事もありすっかり忘れていた。
「ねえ、コナン君。お天気もいいし哀ちゃん連れて中庭に行かない?」
「え…?」
一瞬迷ったコナンだったが、見通しの良い場所を選べば問題ないだろう。
「哀、気分転換にどうだ?」
「え、ええ……」
「んじゃ、オレと光彦で車椅子借りてくるからよ」
「おう」
元太と光彦が元気よく病室から出て行く。



中庭にやって来ると心地よい日差しが五人を包んだ。
「眩しい……」
哀が目を細める。ずっと病室にいたのだから無理はあるまい。
「傷、大丈夫?痛くない?」
「ええ、ありがとう。大丈夫よ」
二つのベンチの間に哀の車椅子を固定し三人はベンチに腰を下ろした。
「コナン君、座らないの?」
「ん?ああ、病室じゃ椅子に座る事が多かったからな。ちょっと身体を伸ばしたくてよ」
本当はいざという時すぐ行動が取れるための用心だったが正直に言う訳にはいかない。
コナンは周囲に神経を配りつつ哀と歩美の会話に耳を傾けていた。
「ねえ哀ちゃん、学校にはいつから来れるの?」
「まだ分からないの……それに……私、アメリカへ行くかもしれないし……」
「アメリカ!?」
「ええ、私の……一番近い親戚の赤井さんって人がアメリカで暮らしているらしくて……一緒に暮らさないかって言ってくれて……」
「けどよお、博士だって親戚には違いねえんだろ?」
「それは……」
哀が口を閉ざしてしまう。
「哀ちゃん?」
「……分からないの」
「え?」
「阿笠博士も赤井さんもとても親切にしてくれるわ。だから……こんな事言ったら罰が当たるかもしれない。でも……今の私には果たして本当にこの人達に自分が甘えてしまっていいのか分からないの」
「哀ちゃん……」
「それに……自分が一体どんな人間だったのか分からなくて……怖いの……私を引き取る事で博士や赤井さんに迷惑がかかるかもしれないと思うと……」
哀は唇をギュッと噛み締めると俯いてしまった。
(灰原……)
コナンは哀が無意識のうちに組織の影に怯えていた日々を忘れられないでいる事に心を痛めた。
「歩美は哀ちゃんにアメリカなんか行って欲しくないな」
その時、哀の迷いを断ち切るように歩美がきっぱりと言った。
「え…?」
「哀ちゃんがアメリカに行きたいなら仕方ないけど……そうじゃないなら行って欲しくない。だって歩美は哀ちゃんがお姫様でも悪い魔法使いでも歩美の親友だって思ってるから」
「歩美…ちゃん……」
哀が目を丸くする。しかし、それ以上に反応したのは歩美の方だった。
「哀ちゃん、今、歩美の事…!?」
「え?わ、私、何か気に触る事……?」
「違う違う!哀ちゃん、歩美の事ずっと『吉田さん』としか呼んでくれなかったからすっごく嬉しい!」
「……」
哀は困ったような表情を浮かべていたが、歩美の無邪気な笑顔に静かに微笑んだ。
「そうだ!灰原さん、これからはボク達の事も名前で呼んで下さいよ」
「オレ達も灰原の事『哀』って呼ぶからよ!」
「ありが……」
「おめえらはダメだ!」
哀の台詞を遮ったのはコナンだった。
「どうしてダメなんですか?コナン君は灰原さんの事『哀』って呼んでるじゃないですか」
「灰原がいいって言ってんだからいいじゃねえか!」
「とにかく!ダメなものはダメだ!」
いつにないコナンの強い口調に元太と光彦は面白くなさそうに口を噤んだ。