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「……どうじゃった、学校は?」
コナンが一人リビングでコーヒーを飲んでいると阿笠が声をかけて来た。哀は帰宅後まっすぐ自分の部屋へ行ってしまい、フサエはデザインの打ち合わせで留守。コナンと阿笠にとっては一番『本音』で話が出来る貴重な時間である。
「ん?……大学みたいな高校って感じか?」
「これ、はぐらかすでない、わしが尋ねておるのは……」
「分かってるって。怪しい奴はいなかったかだろ?本当、博士は心配性なんだから……哀の台詞じゃねえけど完全に禿げちまっても知らねえぞ」
「余計なお世話じゃ」
「担任は小野坂太一。ワイドショー好きの博士なら知ってるよな?」
「おお、あの辛口男か」
「まあこの人物に関しては放っておいても大丈夫だろう。問題は……」
コナンは持っていたコーヒーカップをテーブルに置くと考え込む時の癖で顎に手を掛けた。
「副担任の柚木杏香。表情は乏しいし無口だし……何を考えているか全く分からねえ。あの学校に教師として採用されたからにはそれなりの人物だとは思うが……ま、後でネットで調べてみるさ」
「ふむ」
「それから……」
「おいおい、一人だけじゃないのか?」
「黄海里っていう留学生がちょっと……な。視線を感じるんだ。まあこっちはそう簡単に調べられねえだろうけど……」
「留学生と言っても生徒には変わりないからのう」
「ああ。第一まだ初日が終わったばかりだろ?そうそう簡単に動けねえし、今挙げた二人以外に気になる人物が出て来る可能性の方が高い。当面は気が抜けねえな」
「……」
「……博士?」
「わしとしては君と哀君が帝丹高校へ進んでくれた方が気が楽だったんじゃが……」
阿笠の言い分はもっともだった。学生のほとんどが都心から集まっている帝丹高校の方が心配の種は遥かに少ない。
「そりゃオレだっててっきり帝丹へ進学する事になるものと思ってたさ。けどよぉ、哀のヤツが『博士に迷惑かけたくない』って聞く耳持たなかったじゃねえか」
「哀君は優しい子じゃからのう」
相変わらず阿笠の涙腺は脆いらしく早くも目がうるうるしている。
「……ったく、これじゃ先が思いやられるな。じゃ、オレ、夕食までちょっと調べて来るからよ」
コナンは思わず苦笑するとコーヒーカップを手に立ち上がった。



翌日の午後は特別に部活動の時間に当てられた。スポーツ特待生とスポーツ受験枠の生徒に関してはあらかじめ所属する部活動が決まっているが、学校推薦枠、一般受験枠の生徒はどの部活動をしても自由だった。ただし、この学校の方針としていわゆる『帰宅部』は認められていない。そんな訳で部活動が決まっている生徒にとっては今日が活動初日、決まっていない生徒にとっては見学日という事になる。
「それじゃ私は部活行くけど……哀はどうする?化学部見学に行く?」
「ええ、光彦君と約束したしね」
「そっか。じゃあね」
歩美が笑顔で手を振るとラケットを手に教室を出て行く。
「……じゃ、オレもそろそろ」
「未来のJリーガーとしては今までと違って上手な人が多いから楽しみなんじゃない?」
「まあ…そうだな」
コナンは欠伸を噛み殺しながら立ち上がると体操服の入ったバッグを担いだ。そんな彼を哀が複雑な表情で見つめている。
「……どうした?」
「……何でもないわ。じゃ、私も行くから」
教室を後にし、理工系学館の二階にある化学室へ向かうと光彦が哀を待っていた。
「あ、灰原さん」
「随分早いのね」
「ボクは化学部に入るって決めてますからね。迷わずここへ直行したせいでしょう」
「それで?光彦君の知的レベルにこの学校の化学部は追いついているのかしら?」
「それは今からじっくり拝見しますよ」
小学校や中学校でも化学部で活躍していた光彦だったが、そのレベルは彼にとっては物足りないものだった。「ボクは将来ノーベル賞を取るような化学者になりたいんです」というのが彼の口癖である。そんな光彦のこの新設進学校の化学部への期待は相当なものだろう。
運動系のクラブと違って元々化学部に入る事が決まっている者はいない。部活顧問の教師もそれを承知なのだろう。
「それでは早速だが五人から六人くらいで一つのグループになってくれ。今からアミノ酸に関する実験を行う」
学生の興味を惹くのは座学より実験だ。最新の実験器具や設備に光彦の目は早くもキラキラ輝いている。高校三年生で習うような高度な実験でも彼の手の早さが衰える事はなかった。
グリシンを使った実験で出来た物質の構造式を教師が黒板に書き出した時だった。
「……!?」
突然、哀は奇妙な既視感に囚われ思わず額を押さえた。
(何?今の……)
「灰原さん、どうしました?頭でも痛いんですか?」
哀の異変に気付いた光彦が心配そうに声をかけて来る。
「……大丈夫よ、ありがとう」
「薬品の匂いに当てられたのかもしれませんね。静かな所で休んだ方がいいんじゃありませんか?」
「ええ、そうさせてもらうわ」
光彦に余計な心配はかけたくない。哀は部活顧問の教師に断ると化学室を後にした。



化学室を出たはいいものの何処へ行ったらいいだろう。
一人ブラブラ校内を歩いていた哀はいつの間にかグラウンドへやって来ていた。中学までサッカー部のマネージャーをやっていた癖が出たのだろう。校舎を出るとついグラウンドへ足が向いてしまう。
サッカー部は紅白試合でもやっているようで、グラウンドではコナンがサッカーボールを追いかけている。全国から来た猛者の間でも彼の技術は群を抜いていた。
(あの調子じゃ最初からレギュラー決定ね)
コナンの将来の夢は本当にJリーガーになる事なのだろうか?中学二年生の頃から哀がコナンに対して感じるようになった違和感は今プレイをしている彼を見る限りでは思い過ごしにも思える。グラウンドを走るコナンを見ているうちに哀は思わず微笑んでいた。
「……っと、ここではマネージャーって訳にはいかないんだから」
自分に言い聞かせるように呟くと来た道とは別の方角へ歩いて行く。辿り着いた先は武道場だった。柔道場では元太が得意の内股を決めている。
「そこの生徒、こんな所で何をしている?」
ふいに声をかけられ、驚いて声の主の方に振り返ると副担任の柚木杏香が立っていた。
「柚木先生……」
「お前……確か私のクラスの生徒だったな」
「灰原哀です。それより先生、その格好…?」
「自己紹介で言わなかったから驚くのも無理ないな。私は弓道部の顧問という事になっているんだ。師範がいるから顧問と言ってもマネージャー的な事だけやっていればいいんだが、せっかく多少心得があるからな。指導もやらせてもらう事にしたって訳さ」
「そうだったんですか……」
「灰原は部活は何にするんだ?」
「それが……まだ決めてなくて……」
「良かったら弓道部の見学に来ないか?」
「えっ…?」
「そんな所に立っていたら女子柔道部に誘われるぞ」
「あ……」
杏香の言う事はもっともである。弓道に興味がある訳ではなかったが哀はとりあえず弓道場へ向かう事にした。