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杏香に促され、弓道場へ入って行くと20人くらいの生徒が射場で熱心に練習していた。
「この学校にしては小規模なんですね」
「他の部活動と違ってスポーツ特待生は取っていないからな」
「そうなんですか?」
「道場でも開けば別だが……野球やサッカーと違って弓で食べていく事は難しいだろう?」
杏香は哀に「ここにいろ」と言うと控えの下座を指差し、自分は空いている的の前に立った。射法八節の作法にのっとって弓を引く。彼女の放った矢は見事に的の中心を射た。
「凄い……」
わざわざ師範など呼ばなくても杏香がいれば充分ではないだろうか?
ぼんやりとそんな事を考えていた哀は突然、「お前もやってみないか?灰原」と声をかけられ、驚きのあまり一瞬言葉を失った。
「私が…?そんな……無理です」
「ものは試しと言うだろう?」
「……」
何となく断れない雰囲気に哀は立ち上がると杏香から弓と矢を受け取った。作法を教えてもらいながら弓を構える。36センチ四方の的は哀の目にはとても小さく映った。28メートルも離れているというのだから当然だろう。
「矢が曲がっているぞ、水平に保て」
「は、はい」
初めてなんだから出来なくて当然ね……そう自分に言い聞かせ、深呼吸すると少しだけ落ち着きを取り戻した。全神経を集中させると弓を引く。哀自身、驚いた事に弓を放れた彼女の矢は、中心からはほど遠いものの的に中していた。周りにいる部員達から驚きの声が上がる。
「お前なら出来ると思っていたが……ここまでやるとはな」
「え…?」
「いや……」
杏香は哀から弓と矢を受け取るとさっさと立ち去ってしまう。入れ違いに部員の一人が彼女の傍へやって来た。
「あの…これ、弓道部の入部案内です。良かったらもう少し見学して行って下さい」
「あ……」
哀は案内書を受け取ると薦められるまま控えに正座し、杏香や部員達の練習に見入った。



「弓道部に入部したいだと!?」
夕食後。リビングでくつろいでいる阿笠に話を切り出すとコナンが驚いたように哀に詰め寄った。
「光彦と化学部に入るんじゃなかったのかよ?」
「そのつもりで化学室へ行ったんだけど……ちょっと気分が悪くなっちゃってね、一人でブラブラしていたら柚木先生が声をかけて下さったの」
「柚木先生が?」
「ええ。見学だけのつもりだったんだけど……やってみたいなと思って」
「今から始めたところで周りは上手いヤツばっかじゃねえのか?」
「それは……でもみんな『初めてにしては筋がいい』って言ってくれたし……」
「……」
コナンの記憶に初めて哀に会った日の事が鮮明に蘇る。彼女の射撃の腕はさすがに元組織の人間というだけあって正確なものだった。拳銃と弓という違いはあるものの、その気になって練習すれば上達も早いだろう。
「練習は毎日だけど放課後1時間半だけだから夕食の支度とかにも支障ないと思うし……」
「別に飯の事なんか……」
「お金がかかる事も分かってるわ。だから無理にとは言わないけど……」
「わしゃ反対などせんぞ。哀君が自分から何かやりたいなどと言ってくれるのは初めての事じゃ。逆に嬉しいわい」
「そうね、いつも私達に気をつかって自分の事は後回しだものね。哀ちゃん、私も応援するわ」
「博士…フサエさん……」
阿笠とフサエが賛同してしまっては反対する理由がない。コナンは哀に「良かったな」とだけ言い残すと地下の自室へと降りていった。



部屋の明かりも点けずにパソコンの電源を入れるとコナンは思わず溜息をついた。
(とうとう使う時が来ちまったな……)
パソコンが立ち上がるとあるプログラムを起動する。昔、阿笠が作った犯人追跡メガネと発信シールを応用したプログラムだ。追跡機は変わらずコナンのメガネだったが、発信機の方は哀の体内に埋め込まれている。約十年前、形成外科で彼女が銃創を治す手術を受けた時、医師に頼んで取り付けてもらったのだ。心臓を患っている人間にとってペースメーカーがその役割を果たすように、哀がコナンや周囲の人間と離れて行動する時、彼女の安全を確保するために阿笠が開発した物だった。発信機の方は哀の枕を通じ磁気を使って充電される仕組みになっているからバッテリー切れの心配はない。また、追跡機となるメガネの充電機能も以前に比べ格段にアップしていた。
(一生使わないで済むに越した事はなかったが……やっぱそうはいかねえか)
メガネの電源を入れると哀の発信機を確実に捉えている。
「……」
コナンは複雑な思いでメガネに映る光点を見つめた。



「弓道部〜!?」
翌日。登校途中に哀が話を切り出すと歩美が目を丸くした。
「ええ。昨日見学に行って……やってみようかなと思って」
「へえ……哀が運動部に入るなんてちょっと意外だけど……弓道着とか似合いそうだよね」
親友の笑顔に哀は「最初のうちは体操服よ」と苦笑した。
「そうですか……ボクとしては灰原さんと化学部で一緒に研究出来る事を楽しみにしていたんですけど……でも、色々な事に興味を持つ事は素晴らしいですよね。頑張って下さい!」
「ありがとう、光彦君」
「部活っていえば…おい、コナン」
「何だよ?」
「昨日、帰りにサッカー部らしき連中が噂してるのが聞こえたんだけどよお、今日ヒデが来るって本当か?」
「ウソッ!?」
「そうなんですか、コナン君!?」
元太の問いに鋭く反応したのは歩美と光彦で当のコナンは「ああ、そうみてえだな」と興味なさそうに呟いた。
「『そうみたいだな』って…そういう情報はオレ達にも流せよな!」
「情報って……元太、おめえ部活さぼって見に来るつもりかよ?」
「あったり前だろ!オレ達にとってヒデはヒーローだぜ!?」
「コナン君、もしかしたら自分だけヒデに会って後で自慢する気だったんじゃありませんか?」
「バーロー、んな事すっかよ」
「あら、ヒデの大きなポスターを部屋に貼っているあなただったらやりかねないと思うけど?」
「そ、それは……」
哀の冷たい台詞にコナンは言葉を濁すしかなかった。ポスターはカモフラージュで、実はその奥の書棚には組織や組織の残党が引き起こしたと思われる事件に関するファイルが隠されているのである。
返答に困るコナンを救うかのように校門が見えて来た時だった。
「灰原…さん?」
一人の男子生徒が哀に声をかけて来た。背が高く、整った顔立ちに歩美の目が釘付けになる。
「そうですけど……あなたは?」
「あ、これは失礼。杯戸中から来た村主浩平(すぐりこうへい)といいます。実は僕、弓道部の主将なんです」
「え?でも昨日……」
記憶に間違いがなければ弓道部の生徒の中に浩平の顔はなかったはずだ。
「ちょっと用事があって休んでしまったんです。灰原さんが見学に来てくれたと部員がメールで知らせてくれて……正直、驚きました」
「……でしょうね。私自身、驚いているくらいだから」
「ははは、面白い人だな」
「それで?私に何の用かしら?」
「初心者なのにいきなり的を射たそうですね」
「まぐれだと思うわ」
「いえいえ、きっと素質があるんですよ。今から始めたって練習を積めば大会に出る事も夢じゃありません。是非弓道部に入ってくれませんか?」
「別に大会にはこだわらないけど……今日、入部届を出させてもらうつもりよ」
「本当に!?」
「ええ。よろしくね」
「こちらこそ!」
浩平が目を輝かせて「じゃ、放課後」と言うと立ち去って行く。
無言のまま浩平を見送る哀とそんな彼女を複雑な表情で見つめるコナンに「……何か面白い展開になりそうv」と歩美は思わず呟いていた。