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「……という訳で川上教授が最近どんな研究をしていたかご存知ありませんか?」
帝丹大学医学部研究棟にある古橋の研究室。相手に自己紹介と事件の概要を簡単に伝え、早速、本題に切り込む美和子の様子をコナンは大人しく見守っていた。
「川上が最近研究していた事ですか……親しかったとは言え私は薬学のプロフェッショナルではありませんからねえ……」
古橋は研究の手を休めると自らネル・ドリップでコーヒーを抽出し二人をもてなした。
「あ…どうぞお構いなく」
「ああ、ちょうど私も休憩にしようと思っていたところですから。これでも珈琲にはうるさい方でして」
日頃、哀の淹れるおいしいコーヒーを飲んでいるせいかすっかり舌が肥えてしまったコナンだったが、勧められたものは確かに美味しいと言えるものだった。
「ただ……長年研究したかった事にやっと着手出来ると喜んでいましたけどね」
「『やっと着手』…ですか?」
「ええ、具体的にどんな研究かは知りませんが。何でも自分の研究に投資してくれる人物が現れたと言っていました」
「投資……お金のかかる研究だったのでしょうか?」
「まあ、我々の研究にお金がかからない方がおかしいですけどね」
古橋が苦笑する。
「川上教授に投資を申し出た人物に心当たりはありませんか?」
「さあ……その事については、彼も多くを語りませんでしたから」
「そうですか……」
「ただ……研究課題は言っていましたよ」
「えっ…!?」
これにはさすがのコナンも驚いて身を乗り出した。研究の詳しい内容も投資した人物も知らない古橋が研究課題を知っているとは想像していなかった。
「それが……不思議な事に病名でも薬品名でもなかったんですよ。だからあいつが研究課題について触れた事を記憶しているんですけどね」
「その研究課題、教えて頂けませんか?」
「うーん……はっきりとは覚えていませんが……自動車メーカーみたいな名前でしたよ」
「自動車メーカー……」
古橋の言葉にコナンは思わず考え込んだ。



「どう?何か気になる事はあった?」
研究棟を出ると、美和子がコナンに話しかけてきた。
「正直……もうちょっと古橋教授が何か知ってみえると思っていたんですが……」
「そうねえ。自動車メーカーみたいな名前なんて言われても……おまけに確実な記憶でもなさそうだし……」
「いえ、おそらく単語の中に自動車メーカーの名前が入っているのは間違いないと思います」
きっぱり言い切るコナンに美和子が目を丸くする。
「自分の専門外の分野にも関わらずはっきり覚えているのはその単語が有名だからに他ありません」
「なるほどね」
「ただ単語の一部となると雲を掴むような話ですが……日本語とは限りませんし」
「手がかりがあってないようなものね」
コナンの台詞に美和子が苦笑した時、彼女の携帯の着メロが鳴った。
「はい、高木……ああ、服部君?」
電話の相手はどうやら平次のようだ。
「そう……ご苦労様。ええ、コナン君にも伝えるわ」
「……高木警部、服部の方は?」
「ダメね。川上教授に送金していた人物は偽名を使っていた上、いつも現金で振込んでいたようだわ」
「そうですか……」
想像の範疇の結果ではあったが少なすぎる手がかりに思わず溜息が出る。
「……あ、そろそろ本庁に戻らないと。コナン君、家まで送るわ」
「はい」
歩いて帰れない距離ではなかったが、いつもなら夕食が終わっている時間である。コナンは美和子の好意に素直に甘える事にした。



阿笠邸の前で車を止めると「また力を借りるかもしれないからその時はよろしくね」と美和子がニッコリ微笑んだ。
「そういえば……ボクの方もお願いしたい事があるんですが……」
「あら?あなたの力になれるなんて光栄ね。何かしら?」
「ちょっと調べて欲しい人物がいまして……」
コナンは学生鞄から手帳を取り出すと挟んであった二枚の写真を美和子に手渡した。
「一人は黄海里。クラスメイトで、上海から来た留学生です。もう一人は柚木杏香。ボク達のクラスの副担任で弓道部の顧問をしています」
「何か引っかかる事でも?」
「黄君は……視線を感じるんです。こちらの様子を伺っているような……まあ、ボクの勘みたいなものですが」
「探偵の勘?」
「そんなところです。柚木先生についてはあまりに情報がないのが不自然で……」
「どういう事?」
「米花総合学園に来る前の経歴に関する情報が他の教師に比べて圧倒的に少ないんです。ハーバード大学に在籍していたようなんですけど、それ以外学園のホームページにも紹介されていなくて……」
「確かに……ちょっとミステリアスな雰囲気の女性ね。分かったわ、何か掴めたら連絡する」
「ありがとうございます」
「それじゃ」
美和子はウインクしてみせると車を発進させた。



「ただいま」
コナンが玄関を開けると驚いた事にリビングは真っ暗で、主人である阿笠の姿も哀の姿もなかった。フサエについては今日から一週間の予定でパリへ行くと聞いているが、それ以外は何も聞いていない。
「哀!?博士!?」
慌ててメガネの電源を入れると哀の発信機はコナンの部屋で応答していた。
「……脅かしやがって」
コナンはホッと息をつくと地下へと降りていった。部屋のドアを開けると哀がベッドに座って雑誌に目を落としている。コナンの姿を認めると一言「おかえりなさい」と口を開いた。
「博士は?」
「知り合いの博士から連絡が入って出かけたわ。『今夜は帰れないかもしれない』ですって」
「そっか」
コナンは持っていた学生鞄を床に置いた。
「遅くなって悪かったな。まさか博士がいないとは思わなかったからよ。夕飯はもう食ったのか?」
「まだだけど……」
「じゃあ着替えたらキッチン行くから……」
そう言ってブレザーを脱いだコナンだったが哀が一向に動こうとしない。
「おめえな、いくらオレが男だからって着替えの時くらい気ぃ使えよな。大体、雑誌読むなら自分の部屋で……」
「……」
「哀…?」
「今日……サッカー部のコーチとしてヒデが来たわ。歩美や元太君、光彦君まで部活さぼって見に行ったみたい……」
「……ったく。ま、あいつらにとってヒデはヒーローだから仕方ねえか」
「コナン君にとっては違うの?」
「え?」
哀がコナンを真剣な表情で見つめる。
「コナン君の夢って本当にJリーガーになる事なの?」
「哀……」
「私……コナン君の事が時々分からなくなるの。無邪気にサッカーの話してたかと思うと急に怖い顔で考え事してるし……今日だってヒデが来るの分かってたはずなのに部活に出ないどころか午後からいなくなっちゃうし……」
「きょ、今日は急に用事が出来ちまって……」
「RX−7……」
「……?」
「小学生の時からコナン君を時々学校に迎えに来る車……運転席の女性、警視庁の高木美和子警部よね?」
哀が見ていた雑誌に目を向けると、『輝く女性』というコーナーで美和子が紹介されている。
「ねえコナン君、学校抜け出して一体何してるの?」
「それは……」
今の哀に下手な誤魔化しは効かない。コナンはフッと苦笑すると彼女の横に腰を下ろした。
「そんなにオレの事が知りてえなら……教えてやるぜ?」
「えっ…?」
突然、コナンは哀の身体を抱き寄せると彼女の唇を強引に塞いだ。