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「じゃ、土曜日10時、米花アクアマリーナのセントラルプラザで待ち合わせね」
歩美に見送られ哀がマンションの入口へ現れたのは夜の7時になろうかという時間だった。
「遅くなっちゃった……急いで帰って夕食作らないと」
「フサエさん、パリだったっけ?」
「ええ、昨日から一週間」
「博士とコナン君だけならそんなに気にする必要ないんじゃない?きっと哀の帰りを大人しく待ってるよ」
「そうは思うけど……」
かすかに聞こえる女二人の会話にコナンは思わず苦笑した。
コナンが平次から連絡を受け、歩美のマンションに到着したのは30分ほど前の事だ。昨夜の件もあり、さすがに哀と直接顔を合わせる勇気はなく入口で待機していたのである。
「じゃ」と言って家路につく哀を追跡しようと歩き出した時だった。「コナン君?」という聞き慣れた声に呼び止められる。いつの間にか歩美がすぐ後ろに立っていた。
「……なるほど?さすがのコナン君も哀の事が気になって尾けてたって訳?」
「ま、まあ…な。昨日、ちょっと家で言い争っちまったから……」
下手に事件や組織の事を歩美に話す訳にはいかない。コナンは作り笑いを浮かべると「じゃな」とその場を立ち去ろうとした。しかし、「ちょっと待って」と行く手を遮られてしまう。歩美の目は真剣だ。さすがにこの状況では抜け出せないと判断し、コナンはメガネを自動追跡モードに切り替えた。こうしておけば哀の移動速度に急激な変化があった時など非常時には機械が勝手に教えてくれる。
「哀に相談されてさすがの私も驚いたけど……コナン君、哀に何も言ってなかったんだね」
「何も…って?」
「……とぼけちゃって。ま、幼馴染として忠告しておくけど、いい加減、コナン君の気持ち、哀にはっきり伝えないとダメだよ。後悔しても知らないから」
「あん?」
「弓道部の主将の村主君、どうやら哀に気があるみたいなの」
「村主…?」
コナンは歩美の言葉に記憶を手繰り寄せた。
「そういえば……昨日の朝、校門の前で待ち伏せしてたヤツがいたな……」
「随分余裕だね〜、相手は弓道の全日本ジュニアチャンピオンでティーンズ雑誌に紹介されるほどの人物なのに」
「バーロー、オレだってサッカーじゃ一応……」
「あのねえ、関東地方限定有名人のコナン君とはレベルが違うんだから。村主君のファンって全国規模でインターネットのファンサイトも下手なアイドルよりたくさんあるんだよ。それなのに凄く謙虚で礼儀正しくて……憧れちゃうなあ〜」
「おめえが憧れたって仕方ねえだろ。大体、なんでそんなヤツが哀に目ぇつけるんだよ?昨日初めて会ったんだろ?」
「村主君にとっては初めてじゃなかったみたいだね」
「あん?」
「どうやら村主君の親友が杯戸中サッカー部のキャプテンだったらしくて、試合の応援に行った時、偶然哀を見かけて一目惚れしたんだって。今回、哀が弓道部に入る事になって、杯戸中出身の子の間では今後どうなるんだってもっぱら噂になってるみたいだよ」
「そういえば……中学最後の試合相手は杯戸中だったな……」
「はっきり『好きだ』って言われて気持ちが動かない女の子なんていないし……もし告白されたら、哀、どうするんだろ?私だったらOKしちゃうな、きっと」
「……」
ワクワクする歩美の様子にさすがのコナンも不安になる。
「……おい、歩美、哀のヤツ、その村主って野郎の事でおめえにどんな相談したんだ?」
「……気になる?」
「そりゃ……今のアイツにとっちゃオレはただの同居人だからな……」
「やっぱりね〜」
拗ねたように呟くコナンに歩美がにんまり微笑む。
「コナン君の本命は哀だったんだ」
「歩美、てめえ……かまかけやがったな!?」
「コナン君、昔っから恋愛方面は信じられないくらい鈍かったけど……まさかこうもあっさり引っ掛かってくれるとはね」
「……」
見た目はともかく実際は十歳も年下の歩美に見事にはめられ、コナンは言葉を失った。
「感謝してよね?今まで哀に変な虫がつかなかったのは私達三人が『哀にはコナン君がいるからダメだよ』ってさりげなく言ってたお陰なんだから」
おそらくその噂が広まり、逆に自分に言い寄ってくる女の子もなかなかいなかったのだろう。工藤新一だった時に比べファンレターをもらったり告白されたりする事が少なかったのはそのせいか……と、コナンは妙に納得してしまった。
「残念だけど哀は自分がコナン君の事どう思っているか分からないって。無理ないよね、哀はあの事件以前の記憶を失くしちゃってるんだもん……あ、そうそう、一応、哀にはコナン君の本命は哀だよって伝えておいたから。後はコナン君の努力次第って事で」
「おめえな……オレが否定するとは考えなかった訳?」
「確かに……気がなさそうな演技は上手いよね。でも、あの事件以来コナン君が哀を見る目が変わった事に私が気付いてないとでも思ってたの?」
「……」
昔から三人の中では一番ませていた歩美の事だ。これ以上悪あがきしても無駄だろう。コナンはハアッと溜息をつくと「……で?アイツ、本当は何を相談したんだ?」と話題の矛先を変えた。
「哀から色々聞かされたけど……コナン君、本当は今でも探偵になりたいんじゃないの?」
「なっ!?」
突然、歩美の口から『探偵』という単語が飛び出しコナンは言葉を失った。
「確かに危険な目に遭った哀には言いづらいかもしれないけど……デリケートな子だから下手に嘘つくより正直に言った方がいいんじゃないかな?頭ごなしに反対するような事はしないと思うし」
「そりゃ……」
『そうだけどよお』という言葉を慌てて飲み込む。
「それより……おめえ、アイツにオレが探偵になりたいんじゃないかって言っちまったのか?」
「え?言っちゃいけなかった?」
「いや……そういう訳じゃねえけど……」
歩美の問いにコナンは言葉を濁すしかなかった。



(だっせ〜!!)
心の中で自分に悪態をつきつつコナンは阿笠邸へ向かって夜道を走った。哀の発信機が示す場所はとっくに家の中だ。今頃阿笠と夕食でもとっているだろう。
江戸川コナンとして生きる事を選んだ日から普通の学生としてサッカー以外は目立たないように生活してきた。本当は事件に関わる事も避けたかったが、犯罪が増加する一方の世の中で日本警察の救世主と言われた頭脳が放っておかれるはずはなかった。コナンとしても自分達を狙う勢力が現れた時警察の力を頼らざるを得ない事は否定出来ず、情報を流してもらえる事もあり、自分の名前は一切表に出さないという条件で手を貸してきた。APTX4869のデータを盗んだ人物が幼児化という現象にたどり着く可能性が充分に考えられる状況でコナンが探偵として華々しく活躍したなら『江戸川コナン=工藤新一』という事実を突き止められるのは時間の問題だからである。哀の正体も知られ、記憶を失くしているとはいえ開発者である彼女に危険が及ぶかもしれない。
勿論、コナンが自分の夢を偽り『探偵』という言葉を禁句にしているのは、記憶を自然に取り戻さない限り哀に自分達の過去を納得させ、受け止めさせるのはあまりに酷だという判断もある。しかし、その一方で鋭い哀が自分の嘘を見破るであろう事も予想していた。だから哀の方から距離を置くように仕向け、適当に時期を見計らって平次のような刑事になりたいとでも言って誤魔化すつもりだったのである。元来の自分の性格から考えるとよく我慢出来たものだと感心するが、哀と自分の安全を守るためには他に方法がなかった。
ところがその矢先、歩美の口から『探偵』という言葉が哀に突き付けらてしまった。あの三人にとっては幼い頃の経験はあくまで『探偵ごっこ』であり、まさか『探偵になる』という発想に結びつくとは思っていなかった。おまけに歩美には哀に対する自分の想いまでバレてしまう始末である。皮肉な結果をコナンは恨めしく思う事しか出来なかった。
阿笠邸の近くまでやって来た時だった。
「……!?」
近付いて来る人間の気配を察しコナンは思わず物陰に身を潜めた。どうやら誰かが家の中の様子を窺っているようだ。注意深くその人物を視界に捕らえたコナンは驚きのあまり言葉を失った。
(黄……海里!?)
海里の方はコナンに気付いていない様子で、何やら無線でやりとりしたかと思うと立ち去って行く。
(アイツ、一体……!?)



「ただいま」
「……おお、噂をすればコナン君も帰って来たようじゃ。ああ、こっちは大丈夫じゃ。おやすみ」
リビングに入っていくと阿笠が電話を切ったところだった。
「……フサエさんか?」
「ああ、君と哀君の事を心配しておったぞ」
「ったく、博士も口が軽いな。余計な心配かけるなよ」
コナンは苦笑すると阿笠の研究室にあるデスクトップの前に座った。
「どうしたんじゃ?」
「ちょっと……な」
マウスとキーボードを操作するとパソコンの画面に防犯カメラが捕えた海里の姿が映った。
「……ん?米花総合学園の制服じゃないか?」
「黄海里、上海出身のクラスメイトさ」
「君が視線を感じると言っておった例の留学生か?」
「ああ。たった今、この家の様子を窺ってたんだ。やっぱり何かありそうだな。一応、画像を服部と赤井捜査官にメールで送っておくか……あれ?博士、哀は?」
「哀君なら君とわしの夕食を支度してくれて今は部屋じゃ。歩美君のところで軽く食べて来たから何もいらないと言っておったが……」
「そっか……」
さすがに自分から哀の部屋へ出向く勇気はない。コナンはフッと微笑むと「じゃ、オレも飯にするか」と呟き、キッチンへ向かった。