27



その薄暗い部屋にいるのは自分一人だけだった。目の前のパソコンの画面には相変わらず化学反応式のようなものが表示されている。
「ふう……」
少し疲れを感じ、コーヒーでも飲もうかと立ち上がった時だった。
「……相変わらず研究熱心だな」
突然ドアが開くと低い男の声が聞こえた。顔を見なくても声の主は分かる。
「……『早く完成させろ』と催促にでも来たのかしら?」
「そう簡単に出来る代物じゃねえ事は分かってるさ」
男が苦笑すると近寄って来た。
「だったら何の用?あなたとのんびりお喋りしている時間はないんだけど」
「つれない事言ってくれるじゃねえか」
いきなり顎に手をかけられたかと思うと唇を奪われる。
「……!!」
反射的に男の身体を突き飛ばしたものの、その反動で足元がふらつき床に倒れてしまった。男がすかさず覆い被さって来るとアッという間に身体を押さえつけられてしまう。
「イヤッ!!止めて!!」
抵抗の言葉は男の欲望を駆り立てただけだった。冷たい瞳に捕らえられ金縛りにあったかのように動けなくなってしまう。その様子にいやらしい笑みを浮かべると、男の手と舌が身体中を這い回り始めた。
「イヤーッ!!」



「……!!」
ハッと気がつき飛び起きると、そこは見慣れた自分の部屋だった。勿論、他に誰もいない。枕元の灯りを点け時計を見ると午前2時を指していた。
「夢…?」
思わずそう呟くものの夢にしてはあまりに鮮明で、実際に経験したかのような恐怖感に呼吸は荒く心臓が激しく脈打っている。
昨夜のコナンとの事が歪んで夢に現れたのだろうか?
しかし、昔、あの冷たい瞳にどこかで見つめられた気がする。更に不思議な事に夢の中の自分は今の自分より僅かだが年齢が上に見えた。
「一体…?」
哀は震える身体を両手で強く抱き締めた。



「おはよう、哀君」
午前7時。階段を上がってリビングへ行くと阿笠が声をかけて来る。いつもの穏やかな空気に哀は思わずホッと息をついた。
「ん?どうしたんじゃ?」
「え…?」
「何だか顔色が悪いようじゃが?」
「そ、そんな事ないと思うけど……」
阿笠に余計な心配はかけたくない。哀は慌てて笑顔を取り繕った。
「急いで朝食作るから待っててね」
「そんなに慌てんでも……コナン君もまだ上がって来ておらんしの」
阿笠の口から出たコナンの名前に哀の足が止まる。
「……ねえ、博士」
「ん?」
「コナン君と私って……どちらが先に博士にお世話になっていたの?」
「ど、どうしたんじゃ、急に?」
「その……たいした意味はないんだけど……そういえば聞いた事なかったなって……」
『コナン君の本命は哀だ』……昨日の歩美の言葉が蘇る。
この約十年の歳月、コナンとは一つ屋根の下で家族同然に過ごして来た。歩美の言う事が事実なら果たして何がきっかけで彼が自分をそういう目で見るようになったのか哀には心当たりがなかった。少なくとも表面上はコナンはそんな素振りを見せた事はない。
(それに……)
もしそういう対象として見てくれているなら尚更隠し事などして欲しくないという思いもある。何故あそこまで強引な手段をとってまでコナンが自分を偽る必要があるのか哀には見当すらつかなかった。
唯一考えられる可能性は自分の失った記憶に関係がある場合だろう。小学校一年生という少々信じられないほど幼少期のものではあるが、その中にすべての鍵があるとしたらコナン達が自分の失った記憶について積極的に話さない事も納得出来る。
相手がコナンでは絶対無理だが阿笠だったら遠回しに聞けば何か分かるかもしれない……そんな思いが哀を駆り立てていた。
「それは……じゃな」
阿笠が口を開きかけた時だった。「……博士、おはよう」という声が聞こえたかと思うとコナンがリビングへ入って来た。
「おはよう、コナン君」
阿笠がホッとしたように挨拶を返す。
「……ん?何話してたんだ?」
「あ……」
コナンと目が合った瞬間、その瞳に夢に出て来た男の冷たい瞳が重なり哀は言葉を失った。
(コナン君じゃない……あなた……誰なの……?)
突然、視界が歪み哀は頭を押さえた。思い出そうとすると血の凍るような恐怖に襲われる。それはまるで封印された記憶を解く事に警告を発しているような強烈なものだった。
次の瞬間、哀は意識を失いその場に倒れこんだ。
「哀!?」
「哀君!?」
オロオロする阿笠をよそにコナンは哀の身体を抱き上げるとソファに寝かせ、脈をとった。
「博士、窓を開けてくれ!」
「わ、分かった!」
クッションを足の下に入れ衣服を緩める。手際のよさは医師並みだ。
「お、おい、新一君……」
「心配すんなって。おそらく脳貧血だ」
「医者に診てもらわんでもいいのか?」
「大丈夫。頭は打ってねえし脈もしっかりしてっからよ」
「……」
「博士…?」
「さっき哀君に聞かれての、『コナン君と自分はどちらが先にわしに世話になっていたのか』とな。自分の失った記憶が気になり出したようじゃ」
「そっか……ずっと気のない素振りを通して来たからな」
「……新一君?」
「歩美にバラされちまったんだよ、オレの気持ち。本当、女って奴は……」
かつて父、優作に『女性を甘くみると痛い目に遭う』と言われた事を思い出しコナンは苦笑した。
「ん……」
その時、哀の眉がぴくっと動いた。
「……哀君?わしじゃ、阿笠じゃ。分かるか?」
「博士…?」
「哀、大丈夫か?」
「コナン…君……」
「まあ、今日は一日、学校休んで家でゆっくりしてろ」
「でも……」
「履修科目届出の締め切りを気にしてんのか?おめえの興味ありそうな分野は大体分かってっからオレが出しておくよ。心配すんな」
「……」
「……哀?」
「ううん……何でもないわ」
一言そう呟くと哀はそのまま目を閉じてしまった。



「おはよう、コナン君」
いつもの合流地点へたどり着くと歩美が声をかけて来た。
「……あれ?コナン君、灰原さんはどうしたんですか?」
「ん?あ、ちょっと身体の調子崩しちまって今日は休ませた」
「けどよぉ、今日履修科目届出の締め切りだぞ」
「用紙は預かって来てるからよ」
コナンはそれだけ言うと「おい、おめえらの履修科目見せてくれねえか?」と、三人に切り出した。
「何だよ?」
「おめえらがどんな授業選択したか興味あってな」
一瞬、顔を見合わせた三人だったが大人しく用紙を差し出して来る。「サンキュ」と受け取るとコナンは素早く目を通した。
米花総合学園は大学のようなシステムが取られ、基礎科目以外の選択は生徒個人の判断に委ねられている。授業も各教室ではなく専門の教室で行われる事が多い。コナンとしては哀の選択授業を自分を含めた四人のうちの誰かと必ず一緒になるようにしたかったのである。そういう意味では今日哀が倒れ、履修科目の選択を任されたのは好都合だった。学校へと歩きながらコナンは哀の履修科目を次々と決めていった。
「ねえ、コナン君」
用紙の記載を終えたコナンに歩美が話しかけて来た。
「あれから哀ときちんと話した?」
「いや、昨日はもう自分の部屋に篭っちまってたし、今朝はいきなり倒れちまったからな」
「そう……ねえ、なるべく早くコナン君の口から本当の事言ってあげてよね?」
歩美の心配する気持ちはよく分かるが、そんなに簡単に言えるなら苦労はない。コナンは思わず心の中で溜息をついた。
学校へ到着し、元太、光彦と別れ1年A組の教室へやって来た時だった。一人の男子生徒が廊下から教室の中を見回しているのが目に入る。
「……村主君?」
歩美の言葉にその生徒が振り返る。一昨日の朝、校門の前で哀を待ち伏せしていた顔だった。
「君は…?」
「私は吉田歩美。灰原哀の親友って所」
「あ……そういえば一昨日、灰原さんと一緒にいた……」
「哀しか目に入ってなかった?」
「そういう訳じゃ……」と歩美の意地悪な突っ込みをさりげなくかわすと「E組の村主浩平です、よろしく」と微笑んだ。
「そういえば……君もあの時一緒だったね」
「ああ、オレは江戸川コナン。よろしく」
「君達も帝丹中出身?」
「うん、コナン君は哀の同居人でもあるけどね」
「そうなんだ」
浩平が興味深そうにコナンを見つめる。
「ところで哀に何か用?」
「あ……明日良かったら胸当てや弓掛けを買いに行くのに付き合おうかって誘おうと思ったんだけど……」
「残念ながら哀は今日休み。もっとも明日は私と先約があるからどっちにしろ駄目ね」
「そっか。じゃあ僕はこれで。江戸川君、灰原さんに『お大事に』って伝えておいてくれないか?」
「ああ」と呟くコナンにフッと微笑むと浩平は立ち去っていった。