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柚木杏香は黒のツーピースにストッキング、おまけに黒のローファーというまるで葬式帰りのような、およそこの流行りのスポットに似合わない服装だった。手には白い百合の花束を抱えている。
「随分雰囲気に合わない格好ですね、先生」
コナンはさりげなく哀を自分の後ろに庇うと杏香に話しかけた。
「確かにな。しかし……この場所がいくら変わろうが、あいつがここで死んだ事に変わりはない」
杏香はフッと寂しそうに微笑むと二人が座っているベンチの横の道を歩いて行った。
気になる事があるとジッとしていられないのは探偵の悲しい性だろう。コナンは思わず立ち上がると杏香の後を追った。
「コナン君?」
哀が慌てて追いかけて来る。
二人が追いついた時、杏香は海沿いのプロムナードから二本ほど奥の道と交差する小さな広場の片隅に持ってきた花束を捧げ、手を合わせていた。
「恋人が亡くなった場所とか……ですか?」
「恋人か……残念ながらそんなロマンティックな話ではないさ。私にとって大切なやつだった事には違いないがな。もっとも……それに気付いたのは皮肉な事にあいつを失った後だったが……」
「先生……」
杏香の寂しそうな横顔に哀が言葉を失う。
「気にするな。もう十年も前の事だ」
「十年……」
コナンは思わず呟いた。組織を壊滅させたのが約十年前の話である。海里の母が亡くなったのが『十年くらい前』、そして杏香が花を手向ける人物が亡くなったのが『十年前』……繰り返される『十年』というキーワードが引っ掛かってならない。
「十年前だとこの辺りは輸送用のコンテナが並んでいたはずですが……事故か何かで亡くなられたんですか?」
「殺されたのさ」
「えっ!?」
さすがのコナンも絶句した。
「あと少しのところで助けられなかった……生まれてはじめて己の無力さを呪ったものだ」
杏香が自嘲的に微笑む。
「今日がその方の命日なんですか?」
「いや……命日はもう少し先だ。しかし、人間なんていつどうなるか分からないからな。来られる時に来ておこうと思っただけさ」
「そんな……まるで明日死んでしまうみたいな言い方……」
「人の命なんて儚いものだ。いつ最期を迎えてもおかしくはない。違うか?」
「それは……」
コナンは言葉を失った。あの時……ジンにAPTX4869を投与された時、自分は死んでいてもおかしくはなかったのだ。思わぬ副作用で生き延びた方が奇跡と言えよう。
「あの……」
それまでコナンと杏香の会話を黙って聞いていた哀が口を開いた。
「ん?」
「どんな方だったんですか?その亡くなった方……」
「……気になるか?」
「え?あ、その……十年も経っているのにわざわざ亡くなった場所にまで足を運んで来られるなんて先生にとって印象深い方だったんじゃないかなって……すみません、立ち入った事を聞いてしまって……」
「構わんさ。そうだな……見かけによらずタフなやつだったな」
「タフ……ですか?」
「ああ。何にも知らないようで実は色々と手を回していたようだし……守りたいものがある人間は強いな。思い知らされたよ」
「守りたいもの……」
杏香の言葉にコナンは思わず哀を見た。
「そういえば……灰原、身体の方はもういいのか?」
「あ……はい、お陰様で」
「そうか」
杏香が哀に微笑む。彼女と知り合ってまだ一週間そこそこだが、ここまで穏やかな笑顔を見たのは初めてだった。
「じゃ、また月曜日にな」
一言そう呟くと杏香はさっさと立ち去ってしまった。



杏香との会話の内容が内容だっただけにコナンはそのまま呑気にアクアマリーナを散策する気にはなれなかった。
「オレ、帰るけど……おめえはどうする?」
「……私も帰るわ」
歩美が帰ってしまった今、哀もアクアマリーナに留まる気にはなれなかった。
バス停へ行くとちょうど循環バスが発車するところで二人は慌てて飛び乗った。並んで座ったものの無言のまま時が流れる。黙って車窓を見つめる哀の横顔をチラッと見るとコナンは心の中で呟いた。
(コイツは……そんなにタフじゃねえ……)
先程、杏香の口から出た『タフ』という言葉がコナンを苦しめていた。
自分達の運命から逃げる事が決して正しいと思っている訳ではない。しかし、過去を知ればおそらく哀は己を責めるだろう。今の哀にその重い十字架を背負わす事が果たして正しい事なのだろうか?
それに正直に話すにしても果たして何から話せばいいのか分からない。彼女の過去をすべて知っている訳ではないし、自分達が経験して来た『現実』が常識の範囲をあまりに逸脱している。
哀は哀でコナンが何やら複雑な考え事をしていると敏感に読み取ったのだろう。流れる景色をぼんやりと見つめるだけで話しかけてくる事はなかった。
バスを降り、阿笠邸までの道中も二人の間に会話はなかった。玄関の鍵を開け「ただいま」と家の中へ入っていくが、いつも返って来る阿笠の「おかえり」というのんびりした声が聞こえて来ない。
「あれ……?」
「……どうやら知り合いの博士の所へ行ってるみたいね。『夕食はいらない』ですって」
先にリビングへ入った哀がテーブルの上に置かれていたメモを見ると呟いた。
「二人だけなら夕食ピザでもとるか?」
「遠慮するわ。お昼が中華だったから夜はあっさりしたものが食べたいし……」
「……それもそうだな」
「リクエストある?」
「いや、任せる……悪ぃ、ちょっと部屋行ってるから何か手伝える事あったら呼んでくれ」
「あ……」
哀が何か言いたげにコナンを見つめる。
「……さっきの話の続きか?」
黙って頷く哀にコナンはフッと微笑んだ。
「おめえの事はそれなりに理解しているつもりだ。その上で聞くが……哀、おめえ、真実に耐えられるか?」
「え…?」
コナンの真剣な表情にさすがの哀も戸惑いの色を隠せなかった。
「おめえの失った記憶はおめえにとって辛いものの方が多いと思う。おまけに世界的レベルのトップシークレットも含まれているしな。精神的プレッシャーは半端じゃねえぞ」
「覚悟は……しているわ」
「……」
「学校で授業受けていても……既視感って言うのかしら?これ、前に習ったんじゃって思う事が結構あるの。特に英語や理科でね。それに……最近よく変な夢を見るし」
「変な夢?」
「ええ……白衣を着て何かを研究している自分の夢……なぜか夢の中の私はもう少し大人なんだけど……」
さすがに身体が縮んだ事までは想像が及ばないらしく哀は不思議そうに呟いた。
「過去を受け止めるのは苦しいかもしれないわ。でも……私、コナン君が独りで苦しんでいる様子を黙って見ている方が辛いの。コナン君、自分では気が付いていないと思うけど時々凄くせつない顔してるから……」
「哀……」
ただの同居人を上手く演じてきたつもりでいたコナンは思わず苦笑した。
「……分かった。だが少し時間をくれねえか?まずオレ自身の頭を整理してからでないと上手く説明出来る自信ねえんだ。大体、おめえについてオレが知ってる事なんてほんの一部だろうし……でも、オレが知ってる範囲の事はいつか必ず話すからよ。オレとおめえの出会いも含めてな」
「約束よ」
「ああ」
哀は静かに微笑むとそれ以上何も言わなかった。



コナンは自室へ入るとパソコンを立ち上げた。
(とりあえず今日服部から聞いた情報を整理しないとな)
平次によると東都大学教授、川上晋吾を殺害した犯人の手がかりは全く掴めていないらしい。もっとも事件が黒ずくめの組織の残党が引き起こしたものなら何か掴める方が奇跡だろう。証拠を残さず、目的を遂行し、霧のように姿を晦ますのは彼等の常套手段である事はコナン自身が身をもって知っている。
殺害に使用された拳銃は被害者の体内から検出された弾丸からベレッタM92である事が判明した。約十年前、ジンを殺害した犯人が使用したものはH&K PSG1というライフルだったが、今回の事件は近距離から発射された事もあり同一犯か否かは断定出来なかった。
組織の残党である可能性が否定出来ない黄親子については海里の母親がニューヨークで約十年前亡くなった事、父親である黄悠大がどうやら自分と哀の正体を知っている事、一昨日の夜にこの家の様子を窺っていたのは海里に間違いない事、以上三つが新たに分かった事実だった。
(あとは……)
柚木杏香については警察の情報網をもってしても学園のホームページに書かれている経歴以外何も掴めていないらしい。「証人保護プログラムでも受けてんのとちゃうか?」などと平次は冗談で言っていたが、ここまで過去が見えないとその可能性もゼロとは言えない。今日、偶然、彼女にとって大切な人物が十年前、現在は米花アクアマリーナとなっている場所で亡くなった事が明らかになったが……
(一応、十年前の地図を見てみるか)
コナンはポスターでカモフラージュされた書棚から一連の資料を取り出した。



「……ああ、オレだ。ああ……さすがお前が見込んだだけの事はあるな」
黄悠大は息子から受話器を受け取ると唇の端に笑みを浮かべた。
「江戸川コナン……今日乗り込んで来たぜ」