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ここはどこだろう……?
暗闇が支配する空間には自分の他に誰の姿も見当たらない。
「……コナン君?」
哀は思わず幼馴染の名を口にしたが返事はなかった。
「博士?フサエさん?」
自分を本当の娘のように可愛がってくれる二人からも返事はない。
「歩美?元太君?光彦君?」
いつもは賑やかな三人組からも何の応答もなかった。
「お願い、誰か返事して……!!」
哀の叫び声は空しく闇に吸い込まれるだけだ。
「みんな……どこへ行っちゃったの……?私……また一人ぼっちになっちゃったの……?」
不安が募り涙が零れたその時だった。
「シ……ホ……」
遠くから女性の声が聞こえる。どこかで聞いた事がある懐かしい声だ。
(誰……?それに……)
自分は哀だ。『シホ』とは一体誰の事なんだろう……?
「シホ……」
しかし、声の主は明らかに自分に話しかけてきている。
「誰……?」
哀は思い切って尋ねてみたが返事はなかった。相変わらず「シホ」と呼びかけて来るだけである。だが、暗闇の中、たった一人という状況は変わっていないにもかかわらず、その声は哀に不思議な安心感をもたらした。
(良かった……私、一人じゃない……)



目覚まし時計の音に目を開けるとそこはいつもの自分の部屋だった。
「夢……?」
元々寝起きが決していい方ではない哀だったが、今朝はいつもに比べ頭がぼんやりしている。しかし、ここ最近、冷たい瞳の男に襲われる夢で目が覚める事が多かったせいか気分は悪くなかった。
ベッドから起き上がりカーディガンを羽織ると洗面所へ向かう。阿笠邸はプライベートルームが地下にある関係上、1階と地下、合計二箇所に洗面所と浴室がある。誰が決めた訳でもなかったが、暗黙の了解で1階は阿笠とコナンが、地下はフサエと哀が使うようになっていた。
冷たい水で顔を洗うと頭がすっきりする。自室へ戻り部屋着に着替えると階段を上がっていった。
「おはよう、博士」
「おはよう、哀君。どれ、何か手伝おうかのう?」
「そんなにたいそうな物を作る訳じゃないからいいわ」
その時「おはよう」という声が聞こえたかと思うとコナンが顔を出した。
「……珍しい事もあるわね。嵐が来そうで怖いわ」
「あん?」
「いつも朝食ぎりぎりまで自分の部屋で本を読んでるコナン君がここ数日呼びに行かなくても上がって来てくれるから」
「さ、最近読みたい新刊がないからな。それに明後日フサエさんが帰国するまではおめえも朝、忙しいだろ?」
「防犯カメラが夜間撮った画像をチェックするために決まってんだろ?」など正直に言えるはずもなくコナンは曖昧に笑ってみせた。木曜の夜、この家の近くで海里を見かけてから朝一番でカメラの記録をチェックするのがコナンの日課になっていた。阿笠が開発した防犯カメラは熱を感知するタイプの物で、30度から40度の熱を有するものがこの家の前を通りかかった時の画像をパソコンに取り込む仕組みになっている。もっとも、このシステムが使用出来るのは米花町2丁目が夜間そんなに人通りがない地域だからに他ならなかったが……
(……特に異常なしか)
撮影された写真を素早くチェックしプログラムを終了した時だった。
「ねえ、コナン君、一つ聞いてもいいかしら?」
ふいに背後から声をかけられ、振り向くと哀が立っていた。
「お、おめえ……脅かすなよ!」
「脅かすって……私、別に……」
驚きのあまり思わず大声を出したコナンに哀の方がオロオロしてしまっている。
「あ、悪ぃ、プライベートなメールをチェックしてたからつい……で?何が聞きてえんだ?」
「私の亡くなった家族についてなんだけど……」
「オレの知ってる範囲の事なら話せると思うが……何だ?」
「私の家族に『シホ』っていう名前の人はいたのかしら?」
「……!!」
突然、哀の口から出た名前にコナンはギョッとして言葉を失ってしまった。阿笠に至っては読みかけの新聞を落としてしまっている。
「……どうしたの?」
「い、いや、別に……でもどうして急にそんな事……?」
「夢を見たの。女の人が遠くから私を呼ぶ声……その人、私の事を『シホ』って呼んでたの。おかしいわよね、私の名前は『哀』なのに……だから、ひょっとしたら私にはお姉ちゃんか妹がいて、お母さんが私達を呼んでいる夢でも見たのかなって思って……」
「……」
「コナン君、何か知ってる?」
「おめえに……お姉さんがいた事は確かだ。だが……名前までは知らねえ」
「お姉ちゃんもやっぱり事故で死んだの?」
「悪ぃ、そこまでは……博士も多分知らねえと思うぜ?」
「そう……」
哀の表情には明らかに落胆の色が見られた。しかし一旦『宮野明美』の名を出したら全てを話さないと説明出来ないだろう。心が痛んだが今はまだ嘘を突き通すしかなかった。
「……哀、遅刻するから飯にしようぜ」
コナンは哀の肩を優しく叩くとキッチンへ向かった。



「おはよう、コナン君、哀」
1年A組の教室へ入ったかと思うと早速歩美の元気な声が聞こえる。
小学校時代は毎日五人仲良く登校したものだが、中学に入学した頃から部活動の朝練が行われる日の登校はバラバラになっていた。
「よぉ」
「おはよう、歩美」
「コナン君ったら!また朝練サボり!?」
「人聞き悪い事言うなよ。オレの場合、朝練に参加するかしねえかは自由なんだからよ」
「はいはい……ったく、哀がマネージャーをしていた中学時代は朝練にも出てたくせに」
「うっせーな……」
「ま、その様子だと仲直りしたみたいだね」
「『仲直り』って……あのなあ、別に喧嘩してた訳じゃねえんだし……」
渋い顔のコナンを尻目に歩美は「良かったね、哀」と微笑むと、哀の腕を引っ張り窓際へ連れて行ってしまった。ここから先は女同士の話といったところだろう。
「……ったく」
思わず溜息をついた時、コナンの携帯が鳴った。メールが一通届いている。
「服部のやつ……早いじゃねえか」
コナンは苦笑するとメールを開いた。



「6時間目の化学実践、どうやら今日は休講のようです」
理工系学館の二階にある化学室へ移動しようとした哀にそう話しかけて来たのは光彦だった。
米花総合学園の講師の中には一部大学の教授も含まれており、特に必須科目以外はその占める割合も高い。結果、自由選択の授業に関しては休講になる事もあり、その場合は与えられた課題をレポート提出する事になっているのである。
「ボクは図書館でレポートを仕上げるつもりですが、灰原さんはどうしますか?」
「そうね、図書館の方が資料も多いし……私もそうするわ」
普通の高校ならせいぜい『図書室』だが、さすがに新設校だけあって『図書館』として別棟になっている上、所有する書籍の数も半端ではない。そのため休講の場合は図書館を利用する生徒が多かった。
哀は光彦の案内で化学書がある二階へ向かった。どうやら光彦はすでに何度も足を運んでいるらしくさっさと二人分の席を確保すると「灰原さん、こっちです」と先に立って歩いて行く。
「入学案内に書いてあった事、誇張でもなさそうね」
「ええ、これだけあると一体どれを選んだらいいのか分かりません」
しばし書庫を眺めていた哀だったが、やがて一冊の本を手に取った。
「私、これにするわ」
「随分難しそうな本ですね」
「そう?何か……見た事があるような気がしたから」
「あ、先に始めてて下さい。ボクはもう少し時間がかかりそうなので」
相変わらず気を遣う光彦に苦笑すると哀は席へ戻った。
椅子に座りページをめくっていると「灰原さん?」と声を掛けられる。
「村主君……?」
「もしかして灰原さんも化学実践を選択したとか?」
「え、ええ……」
「そうだったんだ。偶然だなあ……あ、ボクも今からレポート仕上げようと思ってるんだけど一緒にいいかな?」
「私は構わないけど……」
「あ……江戸川君が一緒かな?」
「コナン君は化学実践は選択してないわ。円谷光彦君っていうC組の友達が一緒なの」
「円谷……光彦?どこかで聞いた事がある名前のような……」
「村主君も化学には元々興味あったの?」
「そうだね、小さい頃から『絵で見る化学の世界』なんて本も読んでいたし」
「光彦君、小学生の頃から色々な化学コンクールで入賞してたから多分雑誌か何かで名前を見たんじゃないかしら?」
その時、噂の当人が5、6冊の本を抱えて戻って来た。
「あれ?灰原さん、こちらは……?」
「光彦君も一度会ってるわよね。弓道部の主将で村主浩平君。彼も化学実践を選択したんですって」
「そうなんですか。円谷光彦です。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
(歩美ちゃんが言ってた『コナン君に強敵出現』って話……まんざら大袈裟でもないようですね)
浩平と握手を交わす光彦がそんな事を考えているとは哀は知る由もなかった。