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6時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、哀、光彦、浩平は図書館を後にした。
外へ出るなり光彦が大きな溜息をつく。
「……光彦君?」
「すみません……あの……灰原さんはレポート書けましたか?」
「え?ええ、一応」
「そうですか……この学校の授業、思ったよりレベル高いですね。ボク、全然書けませんでした」
「そんなに落ち込まなくても……レポートは次の授業の時に提出なんだし、落ち着いてゆっくり資料を読めば光彦君なら書けるわ」
「そう願いたいですね」
苦笑する光彦の手には3冊ほど本が抱えられていた。
「……村主君は書けましたか?」
「大体はね。でも、まとめるところまでいかなかったから円谷君と同じく宿題になっちゃったな。学校推薦で入学したくせに情けないけど……」
「そうですか」
浩平の言葉に少々ホッとしたように光彦が息をつく。中学時代までは常に哀と学年でトップ争いをしていただけに焦りを感じていたのだろう。
「村主君はてっきり弓道部の特待生だと思っていました」
「残念ながら弓道部にはスポーツ特待生の枠がなかったんだ。あればもっと楽が出来たんだけど」
悪戯っ子のように笑う浩平とは対象的に光彦の表情は硬い。
「全国模試でいつも上位にいる人の台詞とは思えませんね」
「それはお互い様だろ?」
光彦の挑戦的な言葉にも浩平は相変わらず穏やかな表情を浮かべている。
「……どうやらボクも君とはいいライバルになりそうですね。コナン君とは別の意味で、ですけど」
「お手柔らかに願いたいね」
「こちらこそ。あ、灰原さん、ボク、ちょっと職員室へ寄って行くのでここで失礼します」
「では」と礼儀正しく会釈すると光彦が立ち去って行く。その後姿に哀は思わず「……クラス委員は大変ね」と呟いた。
「円谷君、クラス委員なんだ」
「ええ。ま、彼の場合、小学校時代からだから慣れたものでしょうけど」
「小学校時代?」
「ええ、同じクラスのコナン君、歩美、C組の元太君、光彦君、そして私……小学校からずっと一緒なの。いわゆる幼馴染ってところかしら」
「……それにしては随分違うね」
「え…?」
「江戸川君と吉田さんは君の事を名前で呼んでるのに小嶋君と円谷君は名字で呼んでるだろ?」
改めて指摘されるまで気にしていなかったが言われてみれば確かにその通りだ。
「それは……コナン君は同居人だし、歩美は同性だからだと思うわ」
「吉田さんはともかく江戸川君は君を異性として意識しているからじゃないかな?」
「異性として…?」
『コナン君の本命は哀だ』……歩美に言われた言葉が哀の頭に鮮明に蘇る。
「灰原さんは江戸川君の事が好きなの?」
突然、真剣な瞳で浩平に尋ねられ哀は驚きのあまり持っていた本やノートを落としてしまった。
「ど、どうしてそんな事……」
「君の事が気になる人間としては江戸川君の存在は無視出来ないからね」
「それは……」
幼い頃からコナンと自分を見て来た歩美なら『分からない』という気持ちも理解してくれるだろうが、浩平には通じないだろう。返答に詰まった哀は無言のまま屈み込み、落とした本やノートを拾い上げる事しか出来なかった。
「……困らせちゃったかな?」
「違うの……私ね、小さい頃に遭った事故が原因で幼い頃の記憶がないの。だからいつ、どんな形でコナン君達と知り合ったか覚えてなくて……コナン君は気が付いたら当たり前のように傍にいて、いつも優しくしてくれて……だから……」
「ごめん、悪い事聞いたみたいだね」
哀の複雑な思いを汲み取るように浩平は彼女の言葉を遮った。
「それより……僕も君の事『哀さん』って呼んでいいかな?」
「え?」
「あ……嫌なら今まで通り『灰原さん』って呼ぶけど?」
「嫌…じゃないけど……」
コナンと歩美を除き同世代の子達からは今までファーストネームで呼ばれた事がないだけにどうしても照れくさいような、くすぐったい気持ちになってしまう。
否定しない事を肯定と受け止められたのだろう。「僕の事も名前で呼んでくれると嬉しいな」と言うと、穏やかに微笑んで手を差し出してくる。
「あ……」
求められた握手に応えようとした時だった。
「哀!」
ふいに大声で名前を呼ばれ、驚いて振り向いた哀の目にコナンの姿が映った。
「コナン君……」
「王子様登場、か。じゃ、哀さん、僕はこれで」
一瞬、コナンに視線を向けた浩平だったが、肩をすくめると立ち去って行った。
「どうしたの?」
険しい表情で自分に近付いて来るコナンに哀が首を傾げる。
「あ、ああ……おめえが掃除の時間になっても戻って来ないって歩美のヤツが言ってたから探してたんだ」
コナンのメガネの自動追跡モードは哀が移動中に5分以上同じ場所に止まると警告音を発するように設定されている。初めて学園内で警告音が鳴り慌てて哀の元まで駆けて来たのだが、それを彼女に言う訳にもいかず、コナンとしては曖昧に誤魔化すより他なかった。
「歩美が?珍しい事もあるわね。光彦君でもあるまいし」
「嵐が来そうで怖いか?」
「そうね」
今朝、自分が言った台詞をそっくり返され哀はクスッと微笑んだ。
「それより……アイツと一体何話してたんだ?」
「何って……化学実践のレポートの事とか、私達五人が幼馴染だって事とか……だけど?」
コナンの真っ直ぐな視線に哀は『君の事が気になる』と浩平に言われた事を言い出せずにいた。
「……そっか」
そんな彼女の心を読んだかのようにコナンは一言呟くとそれ以上追求して来なかった。



「哀君、弓道部の方はどうじゃ?」
阿笠にそう尋ねられたのは夕食の席の事だった。
「やっぱり難しいわね。何とか的を射るようにはなってきたけど……ちょっとでも気を抜いたり他の事考えたりしていると全然ダメね」
「体力より精神力が大切な武道じゃからのう」
「でも、他の部員の子達も顧問の柚木先生も親切に教えて下さるから楽しいわ」
「そうか、それは良かった」
阿笠が嬉しそうに微笑む。
「……そういえばコナン君、主将の村主君が弓具を買いに行くのに付き合おうかって誘いに来てくれたって話、本当?」
「あん?」
「私が体調崩して休んだ金曜日の事みたいなんだけど」
「ああ……そういえばそんな事あったな……」
「教えてくれなくちゃ困るじゃない。村主君に『金曜日の事だけど』って突然言われて何の事か分からなかったわ」
「村主と直接話したのは歩美だからな。勝手に断ったのもアイツだし文句は歩美に言えよ」
ぶっきらぼうに答えるコナンに「そう」とだけ言うと哀は自分の分の食器を持って立ち上がり、食卓を離れキッチンへ洗い物に行ってしまった。
「……なあ博士、ちょっと頼みがあるんだけどよ」
哀が席を離れるや否やコナンは阿笠に小声で話しかけた。
「何じゃ?哀君がおっては話せん話か?」
「まあな。悪ぃが明日、アイツの追跡頼めねえか?」
「それは構わんが……君はどうするんじゃ?」
「ちょっと遠出したくてよ……勿論、日帰りだけどな」
「遠出?」
「ああ、静岡まで行きたいんだ」
「静岡じゃと?」
「詳しい話は帰ってから話すよ。収穫があるかないかも分からねえし」
「ふむ……しかし足はどうするつもりじゃ?新幹線で行っても向こうで困るじゃろう」
「そっちは心配いらねえよ。暇人が運転手やってくれる事になってるから」
悪戯っ子のように笑うコナンに阿笠は首を傾げた。



「うん、確かに金曜日の朝、村主君が教室の前で哀を待ってたよ」
受話器の向こうであっさりと肯定する親友に哀は溜息をついた。
「そういう事は教えてくれなくちゃ。今日、部活の時、急に話を持ちかけられて困っちゃったわ」
「ふ〜ん……ねえ哀、村主君の事、気になるの?」
「そ、そういう訳じゃないけど……」
「なぁんだ。たまにはコナン君にヤキモチさせるのも悪くないと思ったのに」
「歩美ったら……」
明らかにがっかりした口調の歩美に哀は苦笑した。
「勝手に断った事は謝るよ。でも……」
「……勿論、その場にいたとしても断ったでしょうけど。土曜日はあなたと先約があったしね」
「哀……」
電話越しでも歩美の嬉しそうな様子が充分伝わって来る。
「それはそうと……実は困ってるの」
「え?」
「弓具って思っていたより高くて……勿論、今は学校の物を借りているんだけど、いつまでもそうはいかないし……棒矢、矢、弓かけ、かけ下、胸当ては購入しないといけないみたいで……」
「どれくらいかかるの?」
「そうね、少なく見積もっても三万円……かしら?預金でカバー出来るかなと思っていたんだけど、コナン君の誕生日プレゼントもあるし、ちょっと……ね」
「だったらコナン君へのプレゼントは『私自身』にしちゃったら?」
「歩美……」
「じょ、冗談だってば。そうねえ、それくらいなら博士に頼っちゃってもいいんじゃない?」
「『頼る』って……ただでさえもお世話になっているのよ、とてもこれ以上……」
「あのね、博士にとっては哀が甘えてあげるのも一つの孝行なんだよ」
「え…?」
「『ありがとう』って人の好意を素直に受ける事も時には大切なんだから。哀は昔から遠慮しすぎなんだよ」
あっけらかんと言う歩美に哀は「そう……かしら?」と呟く事しか出来なかった。