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「哀、何か手伝う事あるか?」
防犯カメラのチェックを終えたコナンがキッチンへ入って行くとちょうど朝食の準備が終わったところのようだった。
「結構よ、病み上がりの人をこき使うほど薄情じゃないわ」
「もう大丈夫だって。何すればいいんだ?」
「じゃあサラダ運んでくれる?冷蔵庫にあるから」
「おう」
「博士のサラダは卵抜きだから間違えないでね」
「分かってるって」
相変わらず厳しく食事制限されている阿笠にコナンは苦笑する。
昨日、静岡へ行った事はコナン、平次、阿笠だけの秘密で哀も病欠を疑っていない。こういう時、母、有希子の血をひく演技力はありがたいものだった。
「それはそうと……何かいい事でもあったのか?」
「え?」
「朝にしては手のこんだメニューが並んでるからよ」
「本当……コナン君って鋭いわね」
哀はクスッと笑うと「実はね、柚木先生が弓かけを譲って下さったの」と嬉しそうに微笑んだ。
「柚木先生が?」
いきなり要注意人物の名前が出て来てコナンは緊張する。
「私の預金じゃ弓具を全部揃えるのは難しかったから悩んでたんだけど……昨日、柚木先生に『どうかしたのか?』って話しかけられて相談したら『お古でいいなら使え』って言って下さったの」
「へえ…良かったじゃねえか」
「初心者向けのアドバイスも色々して下さって……柚木先生と話しているとなんだか優しい気持ちになるの。まるで亡くなったお母さんやお姉ちゃんと話してるみたいに……不思議よね」
「……」
「あ、この話、博士には内緒ね。『どうしてわしに一言も相談してくれなかったんじゃ?』って怒られちゃうから」
「あ、ああ……」
コナンの複雑な思いに気付くはずもなく哀はエプロンを外すとリビングでテレビを見ている阿笠を呼びに行ってしまった。



その日は歩美と元太も朝練がないらしく、久し振りに5人揃っての登校となった。
「コナン君、もう大丈夫なの?」
「あ、ああ。何とかな」
「心配する必要ないわ。ここのところサッカー部の朝練サボってたバチが当たっただけだから」
「哀ったら……『コナン君、病院からなかなか戻って来ないの。本当にただの風邪かしら?』なんて心配してたくせに相変わらず本人の前では手厳しいんだから」
クールに言い放つ哀に歩美がすかさず突っ込む。
「べ、別にそういう訳じゃ……」
優しい言葉をかけてもらった訳ではないが、昨夜や今朝のメニューを見るだけでも哀が自分の体調を気にかけている事は充分推測出来る。だからといって仮病だと打ち明ける訳にもいかず、コナンとしては少々心苦しい状況だった。
「……ま、今日は大事をとって部活は休むつもりだけどよ、もうすっかり元気だからさ」
哀と歩美を安心させるつもりで言った台詞だったが、その言葉に敏感に反応したのは元太だった。
「コナン、お前、今日サッカー部休むのか?」
「あ、ああ」
「そいつはちょうどいいや。実は今日、帝丹高校柔道部と親善試合やる予定になっててよお、副審を一人ウチから出さなくちゃいけないんだ。おまえ、柔道のルールは知ってるだろ?」
「ルールくらいは一応……けどよお、そんなのオレじゃなくても……」
「公正さを保つために審判は柔道部以外の人間じゃないとダメって決まりになっててよ、しかもルールが分からないとダメだろ?そんなヤツなかなかいなくて困ってたんだ。じゃ、今日の午後4時、柔道場だ。頼んだぜ!」
「お、おい、元太……」
すでに元太の耳にコナンの声は全く届いていない。
(……ったく)
『放課後は柚木杏香の事を調べるつもりなんだ』などと打ち明けられるはずもなくコナンは思わず溜息をついた。



「一本!それまで!!」
米花総合学園柔道部と帝丹高校柔道部の親善試合は点取り試合で行われていた。
全国から猛者が集まっているとはいえ一年生しかいないという弱点はカバー出来ないようで、先鋒は勝ったものの、次鋒、中堅が続いて敗れ、勝負の行方は副将の元太に左右される状況になってしまった。
「小嶋、頑張れよ!」
「内股一本、頼むぜ!」
「お、おう……」
仲間の声援を受け元太が青畳に上がる。
付き合いの浅い部員達は気付いていないが、コナンには元太の緊張が極限に達しているのがすぐに分かった。個人戦なら平気なくせに仲間の勝敗が関わる団体戦になるとプレッシャーに弱いところは昔から変わっていない。
「始め!!」
審判の合図とともに気合いを入れ構えを取るものの、案の定、緊張のせいで動きが鈍い。開始から約一分、得意の内股を仕掛けたものの逆にすかされ、技ありを取られてしまった。
「……くそっ!」
ポイントリードされた事により焦りが生じたのだろう。元太が繰り出す技はすべて浅く、効果、有効止まりだった。おまけに相手に研究されているようで、内股は完全に封じられ、逆に相手のいいポイント稼ぎになってしまっている。
試合終了30秒前、内股から巴投への連続技でなんとか技ありを取り、ポイントは並んだものの勝負は判定に持ち込まれた。主審の「判定!」という声とともに三本の旗が上げられる。
主審と帝丹高校の副審が白、コナンが赤を上げ、善戦空しく元太は敗北してしまった。



「哀さん」
そう呼ばれた哀は最初まったく反応出来なかった。
「……哀さん?」
再び声をかけられ、ようやく自分が呼ばれている事に気付いて振り向くと村主浩平が立っていた。
「村主君」
「『浩平』でいいよ……っていうか君にはそう呼んでもらいたいな」
照れたように笑うが浩平の視線は哀を捕らえて離さない。相変わらず穏やかな表情だが、その瞳に強い意思のようなものを感じ、哀は顔を背ける事が出来なかった。
「今、帰り?」
「え、ええ……」
「哀さんの家、米花町2丁目だったよね?途中までご一緒しても構わないかな?」
「あ……私、途中でスーパー寄って夕食の材料を買って行かないと……」
「荷物持ちにはなると思うけど?」
そこまで言われてしまっては断る事も出来ず哀は浩平と共に下足場を後にした。
「阿笠家では夕食作りは哀さんの担当?」
「え…?」
「ああ、昨日吉田さんに聞いたんだ。君が阿笠さんという方にお世話になってるって」
「歩美ったら……」
幼い頃からの親友の性格を考えれば浩平に尋ねられれば素直に答えてしまう事は容易に想像がつくものの、思わず溜息が出る。
「吉田さんを責めないで欲しいな。君の事が知りたくて僕の方から頼み込んで色々教えてもらったんだ」
「責めるも何も……別に秘密にしてる訳じゃないし」
「遠縁の方らしいね」
「ええ、でも本当の娘みたいに可愛がってくれるわ……博士もフサエさんも……だからせめて自分に出来る事は積極的にお手伝いしようと思ってるの」
「フサエ・キャンベル・木之下さんか……そういえばここの制服をデザインされた方なんだって?」
「モデルを頼まれた時はまさか自分がこの学校に通う事になるとは思ってなかったけどね」
哀は思わず苦笑する。
「そういえば弓道はどう?面白い?」
「ええ、ただちょっと出費が大きいのが痛いけど」
「ああ、最初はそうかもね」
「でも、個人で揃えなきゃいけない物の中では一番高価な弓かけを柚木先生が譲って下さって助かったわ」
「柚木先生が?意外だな」
「そう?」
「弓道の腕は凄いし、要所要所でアドバイスはしてくれるけどあんまりご自分から生徒に色々働きかけて来られる方ではないからね。どちらかと言うと一線を引いてるって感じがするな」
確かに浩平が言うように柚木杏香にはどこか人を寄せ付けない孤高な雰囲気がある。しかし、哀はその眼差しに暖かいものを感じずにいられなかった。
米花町で一番大きなスーパーの裏手の路地へ入った時だった。突然、道路脇に止まっていた黒塗りの大きな外車から数人の男達が降りて来たかと思うと哀と浩平を取り囲んだ。
「……!?」
「な、何ですか!?」
浩平が哀を庇うように自分の背後に回す。
「小僧、俺達が用事があるのはそのお嬢さんだけだ。とっとと失せろ」
「この状況で『はいそうですか』と僕が立ち去るとでも?」
「米花総合学園の生徒といえばそこそこ頭はいいはずだが……どうやら少し痛い目にあわないと分からないようだな」
男の一人が浩平に向かって来る。
「哀さん、逃げろ!!」
哀の身体を突き飛ばし、突進して来る相手の攻撃を避けると浩平が叫ぶ。
「でも……」
このまま自分が留まっていても何の力にもなれない事は百も承知だったが、だからといって浩平一人残して逃げる訳にもいかない。道を一歩表へ出れば繁華街だが、助けを呼びに行きたくても相手は三人いる。途中で捕まってしまうのは必至だろう。
「誰か…!誰か来て!!」
哀は繁華街に向かって大声で叫んだ。
「コイツ…!!」
男の一人が哀に掴みかかって来る。
「哀さん!!」
浩平が哀と男の間に割って入ったが、みぞおちを殴られたらしく身体を折り曲げその場に倒れこんでしまった。
「村主君…!!」
助け起こそうとした瞬間、背後から鼻と口を白い布で覆われる。
「……!?」
クロロホルムか何か強力な薬品が染み込ませてあったのだろう。次の瞬間、哀は完全に意識を失った。