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「父さんは亡くなった母さんの敵をとるためだって言ってる」
海里は一言そう呟くと歩美から視線を逸らし、休めていた手を再び動かし始めた。
「敵!?」
突然飛び出した物騒な言葉に元太が驚きのあまり思わず叫ぶ。
「敵って……哀が?」
歩美は恐る恐るその言葉を口にした。さすがに声が震えている。
「そこまでは分からない。オレはただ彼女を見張っていれば母さんの敵がとれるって父さんに聞かされてるだけだから……」
「……」
「じゃあ昨日、おまえの親父が灰原達を襲った連中の車を追跡してったのは……」
押し黙ってしまった歩美に代わり元太が口を開いた。
「彼女を尾行してたオレが父さんに連絡したからさ。灰原が何者かに拉致されたってな」
「って事は……あいつらはおまえら親子の知り合いじゃないんだな?」
「少なくともオレはあんな連中は知らない」
「心当たりは?」
「ある訳ないだろ」
「そっか……」
「ひょっとして黄君達が日本に来たのも亡くなったお母さんの事が絡んでるの?」
元太と海里の会話が切れると再び歩美が口を開いた。
「多分な。他に理由は考えられないし」
「お母さんが亡くなった時の事で何か知ってる事ある?」
「いや……詳しい事は何も知らないんだ。父さんにはあまり聞かないようにしてるしな」
「どうして?気にならないの?」
「そりゃ、気にはなるけど……父さんも話したがらないし、いつか話してくれるのを待とうと思ってるんだ」
「ねえ黄君、ちょうどいい機会だしお母さんの事、思い切ってお父さんに聞いてみる気ない?」
「え…?」
歩美の唐突な申し出に海里は驚いて目を丸くした。
「だって黄君のお母さんの死因が哀にあるかないかで話は全然変わって来るでしょ?もし哀が昔作ってた薬のせいで亡くなったなら標的は哀って事になるけど、そうじゃないとしたら黄君達と私達の目的一致するかもしれないじゃない?敵対する組織が同じならお互いに協力した方が得策だと思うの」
「手を組むって事か?」
「うん」
「もしオレの母さんの死因が灰原さんにあるとしたら君にとっては辛い事になるぜ」
「その場合は仕方ないね。過去はどう足掻いても変えられないから」
しばし考え込んでいた様子の海里だったが、一言「分かった」と呟く。
「商談成立ね」
「しかし……君は本当に真っ直ぐな女の子だな」
「え?」
「君と灰原さんがかなり親しい間柄だって事は知ってるさ。でも……彼女の過去をすべて受け止める覚悟までしてるとは正直思ってなかったからな」
「言ったでしょ、哀は私の親友だって」
その時、緊張した雰囲気を破るようにグーッという大きな音が元太のお腹から聞こえた。
「もうっ!元太君ったら……!」
「わ、悪ぃ、何か旨そうな匂いがして来たからよお」
元太の言葉に海里は苦笑すると蒸し上がったばかりの蒸籠と醤油の入った小皿を差し出した。蓋を開けると中には小籠包が8個入っている。
「い、いいのか?」
「父さんが作ったものに比べるとまだまだだけどな」
「やったぜ!いっただっきま〜す!」
早速箸を手に取り熱々の小籠包を口に含む。
「やっぱここの点心は最高だな!ホラ、歩美も食えよ!」
「い、いいよ、私は……」
しかし部活の練習でしごかれたお腹は正直で、香ばしい匂いにお腹が鳴ってしまう。思わず顔を赤らめる歩美に海里は「心配しなくても毒なんか入ってないぜ?」と微笑んだ。
「じゃ……」
遠慮しつつ口にした小籠包は形こそいびつなものの、その味は紛れもなく以前食べた『上海映月楼』の味そのものだった。
「美味しい…!黄君、凄いね!もうお父さんと同じ味が作れるなんて!」
「べ、別にそんな大層な事じゃ……」
「……」
思わず笑顔になる歩美に海里の横顔が赤くなる様子を元太は見逃さなかった。



「先週の土曜日に米花アクアマリーナで先生が献花していた場所……実はあの場所はオレが十年前、ある女性の死を看取った場所でもあるんです」
コナンは杏香の目を真っ直ぐ見つめると言った。
「オレは……あと一歩のところで彼女を助ける事が出来ませんでした。今でも苦い思い出の一つです」
「……」
「先生もあの場所で大切な方を亡くされたそうですが……もしかしたらオレが看取った女性と先生が花を手向けていた人は同一人物なんじゃありませんか?」
表情一つ変えず押し黙ったままの杏香にコナンは思い切って話の核心に踏み込んだ。
「仮にそうだとしてそれがお前に何の関係があると言うのだ?」
「その人の『守りたいもの』が灰原、いえ、宮野志保だったとしたら今のオレと同じですから」
「今の言葉……自分の正体が工藤新一だと明かしているようなものだな」
「やはりご存知だったんですね、オレ達の事……」
「最初はとても信じられなかったがな」
「オレと違ってアイツが幼児化したのは明美さんが亡くなった後の話です。一体どういう経緯でそれを知ったんですか?」
「……」
「不可解な点は他にもあります。あなたが明美さんと親しかったならアイツの存在も当然知っていたはずです。それにも関わらず当時オレ達に接近して来なかったあなたがなぜ今になってアイツに近付いて来たんですか?」
「近付くも何も私はこの学校の教師として採用された、そこへ灰原が入学して来た……それだけの話だ」
「そんな話が信じられるとでも思っているんですか?」
「……何が言いたい?」
「最近アイツを狙って何者かが動き出しています。時を同じくして先生がオレ達の前に現れた……これが果たして偶然と言い切れますか?」
「……」
「もしかしてアイツを弓道部に誘ったのも何か目的があっての事なんじゃ……?」
「……探偵というのは奇妙な人種だな。そんなに他人の事に興味があるのか?」
「質問しているのはオレなんですけど」
コナンが詰め寄っても杏香が動じる様子は全くない。それどころか信じられない台詞が彼女の口から飛び出した。
「A secret makes a woman woman……」
「なっ…!」
「それが答えだと言ったらどうする?」
杏香は不敵な笑みを浮かべると絶句するコナンを残し、弓道場から出て行ってしまった。



「コナン君!」
背後から突然声を掛けられハッとして振り返ると光彦が駆けてきた。
「良かった、何度呼んでも気付いてくれないから心配しました。何かあったんですか?」
「別に何も……」
反射的に否定しようとする自分にコナンは苦笑した。
「何も話してくれないのね……」
昔、哀がまだ記憶を失う前、彼女に言われた一言が蘇る。
哀が過去を失ってしまい自分と同じ境遇を分かち合える人間がいなくなってしまったせいか、コナンは以前に比べ一人ですべてを抱え込む事は減っていた。しかし、それはあくまで相手が阿笠や平次といった『協力者』だけに対しての事であり、歩美、元太、光彦の三人に対してはずっと一歩距離をおいて接して来たのである。
「もうおめえらにも変な気を遣う必要ねえんだよな」
「コナン君…?」
「いや、名探偵ともてはやされた『工藤新一』も実はたいした事なかったんだと思ってさ」
「え…?」
「いくら手強い相手といっても明美さんの名を出してオレの正体を告げれば落とせると思ってたんだが……とんだ自惚れだったみてえだ」
「柚木先生の事ですか?」
「手がかりを掴めるどころか逆に謎が深まっちまった。情けねえがあの女の本心がまったく掴めねえ」
クソッと口惜しそうに髪を掻き毟るコナンの様子に光彦が微笑む。
「コナン君、人間は神様じゃないんですから。いくら名探偵でも見えないものがあって当たり前だと思います。そんなに落ち込まないで下さい」
「光彦……」
「本音を話してくれるのは嬉しいですが……弱音を吐くなんてコナン君らしくないですよ」
「オレらしくない……そうだな」
光彦の台詞にコナンが苦笑した時だった。携帯電話が鳴り一通のメールが届く。差出人は元太だった。
「……どうやらアイツらから話を聞くのは明日になりそうだ」
「え…?」
「黄の店で夕飯食べて帰るから今夜はこっちに来られないってさ。ったく、アイツら大丈夫か?」
「元太君はともかく歩美ちゃんは大丈夫でしょう。美味しい物につられて言いくるめられるなんて事はないと思います」
「そりゃ……」
「元太君達の話は明日聞くとして……ボクが村主君から聞いてきた話はどうしましょう?やはり明日みんな揃った時の方がいいですか?」
「いや、簡単でいいから聞かせてくれ。哀達が襲われた時の状況が知りたい」
「分かりました」
すでに哀が帰宅している阿笠邸で話をする訳にもいかず二人は通りすがりのファーストフード店に入った。店は学生で混みあっており、あまり人に聞かれたくない話をするにはもってこいである。注文したアイスコーヒーと烏龍茶を手にテーブルにつくコナンと光彦に興味を示す者は誰もいなかった。
「村主君の話では学校を出たのは午後5時半頃だったそうです。下足場で灰原さんを見かけ一緒に帰る事になったみたいで……」
コナン、哀、浩平の微妙な関係を知る光彦は思わず言葉を切った。
「……どうした?」
「コナン君は気にならないんですか?」
「あん?」
「その……自分の好きな女の子に他の男が接近して来て、しかも一緒に下校なんて……」
「気にならないと言えば嘘になるが嫉妬する程の話でもねえよ。積極的なのは村主の方で、今のところ哀は特に関心ある訳じゃねえみたいだしな」
コナンの言葉に光彦は苦笑した。
「やっぱり……コナン君は大人ですね。ボクだったらそんなふうに冷静でいられませんよ、きっと」
「……で?外車に乗った男達にスーパーの裏手の路地で襲われたって哀は言ってたが」
「村主君の話と一致しますね。どうやら待ち伏せされたみたいです」
「待ち伏せされた……?」
「ええ、停まっていた車から男達が降りてきていきなり襲われたと言ってましたから」
「……」
光彦の言葉にコナンは顎に手を掛け考え込んだ。
「なぜ奴らは待ち伏せなんて真似が出来たんだ?」
「え…?」
「哀はしっかり者だからな、毎朝最低二ヶ所の広告に目を通してその日立ち寄る店を決めてるんだ」
「それって灰原さんが下校途中に寄る店はコナン君も知らないって事ですか?」
「ああ。オレにも予測つかない事を奴らは一体どうやって……?」
「共犯者でもいたんじゃないですか?」
「共犯者?」
「きっとそうですよ、灰原さんと村主君を尾行していた人間が仲間に知らせて先回りさせたんです!」
「……」
光彦の推理は筋は通っているものの今ひとつ釈然としない。コナンは無言でアイスコーヒーを一口飲むと再び考え込んだ。