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いつの間に眠ってしまったのか眼鏡をかけたままパソコンの前で突っ伏している自分に気付きコナンは苦笑した。
「ん……」
上半身を起こした弾みで肩から毛布が滑り落ちる。見覚えのあるその柄に寝起きでぼんやりしていたコナンの頭が一気に覚醒した。
「やべっ…!」
慌ててマウスを動かしスクリーンセーバーだった画面を元のデスクトップに戻すと検索サイトのトップが現れる。どうやら眠っている間に余計なものは見られていないようだ。
「ふう……」
「随分安心した様子だけど……何コソコソ調べてたの?」
背後から突然掛けられた声にビクッとして振り向くと部屋の入口に哀が立っていた。
「べ、別に大した事じゃねーよ」
「そうかしら?昨日はコナン君が好きな推理小説の発売日だって事くらい私だって知ってるわ。それなのに一晩中パソコンに向かってるなんて……」
「その……ファンサイト見てたのさ」
「前に『探偵左文字』シリーズの新刊が出た時、平次お兄さんにネタばれされて烈火のごとく怒ってたコナン君が本を読む前にサイト覗くなんて信じられないけど?」
「だ、だから……」
思わず言葉に詰まるコナンに哀が寂しそうに微笑む。
「……私には話せない事?」
「哀……」
せつない哀の表情にコナンは正直に話してしまいたい衝動に駆られる。しかし、謎がまだ多く残っている今の段階で滅多な事は口に出来ない。
重苦しい沈黙に耐え切れず、強引に話題を変えようとした時だった。「哀ちゃん、コナン君は起きた?」という声が聞こえたかと思うとフサエが階段を下りて来た。哀がなかなか戻って来ないので心配してやって来たのだろう。
「あ……フサエさん、おはようございます」
「おはよう……あら?二人ともどうしたの?」
場のぎこちない雰囲気を読みとったのかフサエが心配そうな表情でコナンと哀を見る。
「別に何も……フサエさん、私、朝食の支度の続きしてますね」
哀はそれだけ言うと階段を上がって行ってしまった。
「……あなたも辛いわね」
哀の姿が見えなくなるとフサエが独り言のように呟く。
「オレは大丈夫ですから……」
「私にまで強がる必要はないのよ」
「……」
言葉を飲み込むコナンにフサエは「さ、朝ご飯にしましょう」と優しく微笑むと先に階段を上がって行った。



いつもと同じ時間に阿笠邸を出発し、途中何事もなかったかのような顔で歩美と合流したコナンと哀だったが、さすがに長い付き合いだけあり、二人の間に流れる重苦しい空気は消せなかったようだ。
「コナン君、哀と喧嘩でもしたの?」
一歩後ろを歩く哀と会話を交わしていた歩美が小走りでコナンの元へやって来ると耳打ちする。
「別に喧嘩なんか……」
「ふ〜ん、じゃあどうして哀があんなに元気ないのか説明してくれない?」
コナンとは別の意味で哀を大切な存在と捉えているだけあり、歩美のコナンに対する姿勢は常に厳しい。
「ちょっと気になって調べてた事があったんだけどよ、それをアイツに見られちまって……」
「何調べてたの?」
「その……一連の事件の事でな。だからアイツに話す訳にはいかねえだろ?」
コナンが正直に答えると歩美は盛大に溜息をついた。
「な、何だよ?」
「……コナン君って頭いいくせにどうしてそういうところ不器用なのかしらね。アダルトサイト見てたとでも言って誤魔化すぐらい簡単でしょ?」
「アダルトサイトって……あのなあ」
「嘘も方便、違う?」
「……」
「女の子に言い負かされるとは……情けねえな」
歩美の台詞に絶句するコナンに追い討ちをかけるように皮肉まじりの声が聞こえたかと思うと赤井秀一が姿を現した。
「あ、赤井…!」
『捜査官』という言葉をギリギリで飲み込む。
赤井はコナンに「久し振りだな」とだけ言うと哀の方に振り返った。
「……元気そうだな、哀ちゃん」
「ご無沙汰してます」
赤井の事をアメリカに住む親戚と信じて疑わない哀は軽く頭を下げると笑顔を見せた。
「ねえ、哀、この人は……?」
「歩美とは初対面だったわね。この方は赤井秀一さん。私の遠縁の方なの」
「はじめまして、吉田歩美です」
「吉田……歩美?」
元気に自己紹介する歩美に赤井が一瞬眉をひそめる。その様子をコナンは見逃さなかったが、哀と歩美は全く気付いていないようだ。「小学校時代からの親友なんです」と嬉しそうに付け加えている。
「ところで……」
しばし、哀と歩美のほのぼのした会話に付き合っていた赤井だったが、コナンと目が合うと真剣な表情で黙って頷いた。赤井の意図に気付きコナンも頷いてみせる。
そんな男二人の様子を不審そうに眺めていた歩美だったが、何かを察したようだ。「ね、哀、ちょっと二人っきりで話したい事があるんだけど……」と言うと半ば強引に哀の腕を引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと、歩美…!」
コナンと赤井の事が気になるのだろう。学校へ向かい歩き出した後も何度もこちらを振り返っていた哀だったが、歩美の話に気をとられたようで次第にその姿は小さくなっていった。
「それにしても……日本に来るなら来るでメールの一つぐらいくれよな」
赤井と二人きりになるとコナンの口から思わず嫌みがこぼれた。
「ジョディ先生に聞いてなかったら哀の前であんたの正体、大声で言ってたかもしれねえぜ?」
「ほう……伝説の女優の血をひく人間らしくない台詞だな」
「……」
ニヒルな笑みを浮かべる赤井にコナンは言葉を失う。
「日本に来たのはやっぱり組織の残党絡みか?」
「ジョディ・スターリングに聞いたのか?」
「ああ。もっとも、川上っていうマッドサイエンティストが殺された事件で奴らが再び動き出した事は分かったがな」
「そいつは感心だな」
「……で?FBIは奴らの事、一体どこまで掴んでるんだ?」
「どうやら黒幕は日本にいるらしいって事ぐらいだな」
「ひょっとして……オレがメールで送った人間の中に黒幕がいるのか?」
意味深な言い方にコナンは勢い込んで尋ねたが、赤井はポケットから煙草を取り出すとライターで火を点け、その先を続けようとはしない。
「おい…!」
「そうカリカリするなよ。それより……類は友を呼ぶと言うがお前の友人も危なっかしい連中ばかりだな」
「は…?」
赤井の意図が全く読めずコナンは目を丸くした。



「いきなりメールで屋上に来いだなんて……哀を誤魔化すのも大変だったんだからね」
歩美が頬を膨らまして不満そうに呟くと、元太は彼女に同意すると言いたげにうんうんと頷いた。
「大体、昼飯くらいゆっくり食わせろよな!」
「おめえら……一昨日のオレの話、聞いてなかったのかよ?」
「え?」
「一昨日の話?」
渋い顔の自分達に構わず話を続けるコナンに歩美と元太は合点がいかないというふうに顔を見合わせた。そんな二人にコナンは思わず溜息をつく。
「まさか黄に真っ向からぶつかっていくとは思わなかったぜ」
「そ、それは……」
ギョッとして言葉を失う元太とは対照的に歩美は「だって正面突破が一番タイムロスがないでしょ?」と、しごく当然のような顔できっぱり言い切った。
「でも……どうして私達と黄君が話した内容、コナン君が知ってるの?」
「おめえ、まさか覗いてたんじゃねえか?」
「バーロー、んな訳ねえだろ?」
呆れたように元太を半目で睨むとコナンは「赤井捜査官に聞いたんだよ」と付け加えた。
「赤井捜査官?」
「おめえも今朝会っただろ?」
「まさか……哀が遠縁って言ってたあの男の人?」
「ああ。FBIの捜査官で、哀の異父兄妹さ。もっとも、哀には兄だとは言ってねえがな」
「ただの親戚じゃないとは思ったけど……お兄さんだったんだ」
「……ったく、危ない真似しやがって……もし黄が敵だったらどうするつもりだったんだよ?」
「『どうするつもりだった』って……コナン君、それ、どういう事?」
「黄の父親、黄悠大は元FBI捜査官で、赤井捜査官の古い同僚なんだってよ」
『敵を欺くにはまず味方からと言うだろう?』と悪びれもなく言い放った赤井を思い出し、コナンは思わず顔をしかめた。
「十年前、例の組織を追う過程で妻を殺されたらしい。息子の事を考えて辞職したらしいが、組織の残党が動き出したという情報を掴んだFBIが臨時任務として日本での調査を依頼したそうだ。組織に顔を知られちまってる赤井捜査官やジョディ先生より動きやすいからな」
「ジョディ先生って……昔、帝丹高校にいた眼鏡をかけた胸のでっかいあの先生か?」
「ああ、あの人もFBI捜査官さ」
相変わらず変な事だけ覚えている元太にコナンは苦笑した。
「でも……良かった。黄君、何となく悪い人じゃないと思ってたから……」
「けどよお、オレ達の捜査は全くのムダ骨だった、って事だろ?」
「そうとは限らないさ。とりあえずおめえらが昨日黄から聞いた話を聞かせてくれねえか?」
「え?あ、うん」
歩美と元太は昨日の海里との会話を思い出すように話し始めた。



放った矢が的の中心にかなり近いところを射た事に哀は思わず微笑んだ。
「凄い上達ぶりだね」
控えの下座でその様子を見守っていた浩平が驚いたように呟く。
「村主君と柚木先生のおかげよ」
「いや、君の努力の賜物さ」
「……あら?柚木先生は?」
いつの間にか弓道場は哀と浩平だけになっていた。
「ついさっき帰られたよ」
「え?」
浩平の言葉に時計を見た哀は針の示す時刻に驚いた。
「もう6時!?いけない、私、帰らないと……!」
慌てて道具室に弓を片付けようと走り出した哀の手首を浩平が掴む。
「村主君……?」
次の瞬間、浩平の唇が哀のそれに触れた。
「ヤッ…!!」
反射的に身体をねじって顔をそむけると、浩平が哀の身体を解放する。心臓が激しく高鳴り、思考回路が切断されてしまった哀は思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
「やっぱり……哀さんは江戸川君が好きなのか?」
「え…?」
突然、浩平の口からコナンの名を出され、哀の頭は更に混乱してしまう。
「普段冷静な君がそこまでパニック状態になるなんて……好きな男がいる証拠だろ?」
「……」
黙っているのを肯定と受け止めたのか浩平は寂しそうな笑みを浮かべると無言で弓道場を立ち去って行った。