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このままこの男のものになってしまうのかと半ば諦めかけた時だった。
突然、ドアが開けられたかと思うと「ほう……お前にも女なら誰でもいい時があるとはな」という女の声が聞こえた。廊下を照らす明かりが逆光となり女の顔は分からない。
からかうようなその口調に男は明らかに不機嫌な顔になると、彼女の身体を撫で回していた手を止め、女を睨み付けた。
「……何が言いたい?」
「東洋系の女には興味ないと豪語していたお前がどういう風の吹き回しだ?ジン」
女の台詞にジンと呼ばれた男が皮肉な笑みを浮かべる。
「フッ……貴様のような女でも嫉妬する事があるんだな。何なら後で可愛がってやってもいいんだぜ?」
「嫉妬だと?笑わせるな」
「何だと……?」
「自惚れるのも程々にしろ。お前のような男、こちらから願い下げだ」
切り捨てるような女の態度に男の形相が激しく歪んだかと思うと、身体を押さえ付ける力が弱まった。
(今だわ…!)
体当たりで男を突き飛ばすと廊下へ向かって駆け出す。が、瞳に映った女の顔に驚きのあまり立ち尽くしてしまった。
「柚木先生…!?」



「……!!」
自分の叫び声で哀は目覚めた。
「夢……?」
時々見る悪夢だった。その内容に嫌でも浩平との出来事を思い出す。
一人弓道場に残された後の事はあまりよく覚えていない。帰宅した際フサエに食欲がないと伝えた事だけは微かに記憶にあるものの、そのまま自室に閉じこもってしまいコナンとも阿笠とも顔を合わせていなかった。哀にしては珍しい事だが、着替えもせずにベッドに入り込みそのまま眠ってしまったらしい。
「博士に心配かけちゃったわね……」
心配性の養父を思い哀は思わず苦笑した。
時計の針は午前3時半を指している。夜明けまで時間はあるがとてもこのまま眠りに就けるとは思えず、哀は溜息をつくと部屋を後にした。
キッチンで水を一口飲み、微かに街灯が差し込むだけの真っ暗なリビングへ入って行くと思いがけず「哀?」と声を掛けられる。
「コナン…君……」
いきなり目の前に現れたコナンの姿に哀の心臓が激しく脈打った。彼の顔を正視する事が出来ず慌てて顔を反らす。
「食欲ないって聞いたが大丈夫か?」
「え、ええ……博士、心配してた?」
「ああ、さすがのフサエさんも呆れてたぜ。『年頃の女の子なんだから色々あるわよ』ってな」
「そう……」
「……哀?」
「え…?」
「何かあったのか?顔色悪いぞ」
「べ、別に……」
コナンに下手な誤魔化しが通用しない事は哀にも分かっていた。しかし、だからといって浩平にキスされたなどと打ち明ける訳にもいかない。
「夢を……見たの」
絞り出すようにそれだけ呟く。
「嫌な夢でも見たのか?」
「え、ええ……最近よく見るんだけど……」
「どんな夢だ?」
「長い銀髪の男の人に襲われる夢……氷のように冷たい瞳で私を見るの……」
「長い銀髪…!?」
「その人に睨まれると金縛りにあったみたいに動けなくなって……それから……」
「……」
哀の夢に出て来る男がジンである事は明白だった。十年近く時が経ってもなお彼女を苦しめる過去にコナンの胸が痛む。
「……ねえ、コナン君」
「ん?」
「コナン君に聞いても分からないかもしれないけど……昔、私と関わった人の中に長髪の男の人っていたのかしら?」
「……気になるのか?」
「ええ……正直な話、その人に関する記憶って私にとって決していいものではないと思うの。でも……」
「でも?」
「実は……その人と一緒に柚木先生が出て来て……」
「柚木先生が…!?」
「夢に理屈なんて通用しない事は分かってるわ。でも……その男の人と柚木先生が私と過去、何か関係があったような気がして仕方ないの」
「……」
哀の言葉にコナンは考え込んだ。夢とは言えジンと一緒に現れるという事は柚木杏香は組織と関わりがある人間と考えて間違いないだろう。彼女の口から漏れたベルモットの口癖もそれを物語っている。しかし、なぜ杏香は自分から己の正体を知らしめるような言葉を口にしたのだろうか?
杏香と対峙した一昨日は驚きのあまり何も切り返せなくなってしまったが、どうやらグズグズしている余裕はなさそうだ。
「……コナン君?」
いつの間にか黙りこくっていたコナンは哀の声にハッと我に返った。
「何か知ってるのね?」
「……え?」
「分かるわ、長い付き合いだもの」
哀の鋭い視線にコナンはフッと息をついた。どうもジンが絡むと平静を保つ事は難しいようだ。
「確かに……その男はおめえの過去に深く関わっている人物だ。オレの過去にも……な」
「コナン君にも?」
「ああ」
「という事は……コナン君、その人が誰なのか知ってるのね?」
「ある犯罪組織の大物だった男だ。もっとも……十年近く前に殺されたんだが」
「殺された…?」
「ああ、オレの目の前でな」
「……!!」
さすがに長年普通の少女として暮らしてきたせいか哀は驚いたように目を見開いた。
「おめえが記憶を失ったのもその男に撃たれ重体になった後遺症さ」
「……」
「それより……水曜の下校途中、おめえを狙った連中がいただろ?」
「え、ええ……」
「そいつらはおそらくその男の昔の仲間だ。記憶が戻り出して昔の事が気になるのは分かるが今は奴らから身を守る方が先決……」
コナンは思わず言葉を切った。哀の顔は真っ青で身体はガクガク震えている。
「おい、哀、大丈夫か!?」
「コナン君、私は……私は一体何者なの?」
「哀…!」
「だって……どう考えても普通の生活を送ってたとは考えられないじゃない!小学一年生で犯罪組織と関わりがあって……その上、十年近く経っても狙われるなんて……!」
「それは……」
「お願い、コナン君が知ってる事全部話して!」
「……」
過去に怯えパニック状態に陥った哀にコナンは言葉を失った。
話してしまえば自分は楽になるだろう。しかし、ジンはともかく柚木杏香についてはコナン自身何の情報も持っていない。ジグソーパズルのピースが揃っていない状態で今の哀に話せば却って彼女を混乱に陥れる事になりかねないのだ。
「コナン君……お願いだから……」
幼い少女のように泣き出す哀をコナンは黙って抱きしめた。
「……!?」
「おめえが何者だろうと関係ねえよ。オレも博士もフサエさんもおめえを大切に思ってる。だから……心配すんな」
「でも…!」
「オレが守るから。何があってもオレがおめえを絶対守ってやっから。だから……」
「コナン君……」
優しい言葉と自分を抱き締める強い力に哀は我に返った。同時に昨日の浩平との出来事が鮮やかに脳裏に蘇り心臓を鷲掴みにされるような息苦しさが彼女を襲う。
(私……)
胸を締め付ける罪悪感が彼女にその『想い』を自覚させた。
(私……コナン君の事が好きだったんだ……)
哀の瞳から涙が零れた。



「……気分はどうだ?」
キッチンから戻って来るとコナンは手にしていたマグカップを哀に差し出した。
「ありがとう」
受け取った瞬間、ほのかに甘い香りが哀を包み込む。ホットココアなど普段の彼女ならまず飲まない事はコナンも分かっているはずで、彼のそんな気遣いが嬉しかった。
「もう……大丈夫だから。そろそろ部屋へ戻るわ」
「眠れそうもねえなら付き合うぜ?」
「……遠慮しとくわ。博士が変な想像したら困るし」
「確かにな、オレもまだ命は惜しい」
激昂する阿笠を想像し二人はどちらからともなく笑い出した。
「ねえ、コナン君」
「あん?」
「一つだけ聞いてもいい?」
「あ、ああ」
「十年近く前って言えばコナン君も小さかったはずだけど……どうしてそんな小さな頃に犯罪組織と関わったの?」
至極もっともだが厄介な質問だ。コナンはフッと苦笑すると「……ある探偵の意思を継いだってところかな」と呟いた。
「ある探偵?」
「オレの遠縁で兄貴みたいな存在だった男さ。たった一人で組織に立ち向かおうとして行方不明になっちまった……」
下手に話を進めればどうしても『工藤新一』という名前を出さざるをえなくなる。話を切り上げるように「好奇心で危ない事に首突っ込んで……自業自得だな」と言うと、コナンはソファから立ち上がった。
「自業自得だなんて……そんな言い方酷くない?コナン君にとって大切な人だったんでしょう?」
「あん?」
「だって……コナン君が探偵になりたいのはその人の影響じゃないの?」
「それは……」
「私がその人と同じ時を過ごしてたら……きっと憧れたでしょうね。もしかしたら好きになってたかもしれないわ」
「哀……」
「……なんてね」
哀はクスッと笑うと「ご馳走様」とマグカップを手に立ち上がった。
「そういえば……おめえ、明日……っと、もう今日か、何か予定入ってるか?」
「都合がつけば歩美に会いたいなって思ってるけど……」
『一個だけ約束してくれる?この先、哀の本当の気持ちが分かったらその時は一番最初に私に教えてくれるって』……ニッコリ笑ってそう言った親友の顔が哀の脳裏に浮かんだ。
(約束したものね……)
一人苦笑する哀にコナンが「何だ?」と首を傾げる。
「秘密よ。女同士の……ね」
「……ったく、なんで女って生き物は秘密が好きなんだ?」
「えっ?」
「いや……こっちの話」
事がはっきりしない間は下手な事を言って不安にさせる必要もないだろう。
コナンは哀を促すと地下へと降りて行った。