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口コミの力というものはたいしたもので、初詣や祭りといった時期でもないのに神社の境内には若い女性の姿がちらほら見える。
コナンと平次は本殿を素通りすると社務所へ向かった。中を覗くと巫女装束をまとった女の姿はあるものの柚木杏香の姿は見えない。
「あの……」
お守りを求める女性の列が途切れるとコナンは巫女に話しかけた。
「こちらに柚木杏香さんという方がみえると伺ったのですが……」
「え?あ、はい。失礼ですがあなたは…?」
「江戸川コナンといいます。米花総合学園の生徒です」
「ああ、米花総合の……」
コナンの言葉に巫女がニッコリ微笑む。
「杏香さんなら弓道場にいるわよ」
「弓道場?」
「ええ。お守りが有名になっちゃってすっかり影を潜めちゃったけど、ここは元々奉納射会が行われる神社として有名だったの」
「そうなんですか」
「ところで……」
コナンと巫女の会話を遮ると平次が警察手帳を取り出した。
「刑事さん……?」
巫女の顔に緊張が走る。
「柚木さんについてちょい聞きたい事があるんですけど」
「……何でしょうか?」
「柚木さんはいつ頃からここでお勤めされてはるんですか?」
「どうしてそんな事……」
「米花総合学園の教員の給料は半端な額やない聞いとります。それやのに何でこの神社でも働いてはるのか不思議に思いましてね」
「働いていると言いますか……ここは杏香さんの実家みたいなものですから」
「実家?」
「ええ、杏香さんは先代の宮司の姪にあたる方で長い間アメリカで暮らしてみえたそうなんです。昨年の12月に帰国され、1月から人手が足りない時にお手伝いして下さってます」
「なるほど……つまり現在は土日が中心っちゅう事ですね」
「はい」
「先代の宮司さんっちゅう方は今どちらに?」
「随分前に亡くなられたと聞いていますが……」
「そうですか……」
コナンと平次は巫女に礼を言うと社務所を後にした。
「……どうする?先代の宮司の事、近所の交番で聞いてみるか?そっちからあの先生の事、何か分かるかもしれへんで」
二人きりになると平次が口を開く。
「いや……そんな回り道をしてる余裕はねえからな。直接本人に当たるさ」
「せやけどお前、一昨日あの先生にこてんぱんにやられたばっかりちゃうんか?」
相変わらず遠慮ない親友の物言いにグサッときたものの事実だけに反論出来ない。「だから今日はおめえと一緒に来たんだろ?」とだけ言うとコナンはさっさと歩き出した。
「おい、コラ!ちょー待てや!」
静かな参道に平次の賑やかな声が響き渡りすれ違う若い女性達の視線の的になってしまう。クスクス聞こえる笑い声にコナンは他人の振りをしたい気持ちを抑えるのに必死だった。



『弓道場』という矢印に従って長い参道を歩いていくと突然視界が開けた。さすがに奉納射会が行われる事もあり立派な弓道場だ。水を打ったような静寂の中、矢が的を射る音だけが聞こえてくる。
コナンと平次がそっと覗き込むと柚木杏香が一人、的に向かって弓を引いていた。次々放たれる矢がことごとく的の中心を射る。
「……百発百中いうんはこういう事を言うんやろな」
感心したように呟く平次だったが「ほな行こか」と、さっさと射場へ入って行ってしまう。
「お、おい…!」
少し様子を窺うつもりだったコナンは慌てて平次を追いかけた。
「これはこれは……結構なお手前で」
拍手しながら話しかける平次を杏香の鋭い視線が捕える。
「お前は……」
一瞬首を傾げた杏香だったが、コナンが姿を見せると「……そうか、お前が西の名探偵、服部平次か」と呟いた。
「こないなべっぴんさんにまで名前を知られとるとはオレも捨てたもんやないみたいやな」
軽口をたたきながらも平次の目は笑っていない。
「あんた何者や?」
「……」
厳しい口調の問いかけにも関わらず杏香は沈黙を守ったまま再び弓を構え、視線を的に向けてしまう。
「おい、コラ、無視するつもりか!?」
噛みつかんばかりの勢いの平次を抑えるとコナンは「柚木先生、あなたは……あの組織の一員だったんじゃありませんか?」と切り込んだ。返事こそなかったものの、珍しく的の中心を大きく外した彼女の矢が答えを代弁していた。
「なぜ……そう思う?」
「アイツが言ってました。あなたとジンが一緒に夢に出て来たと……」
「……そうか」
杏香の表情が険しく歪む。
「明美の事より先にあの男の事を思い出すとは……やはり志保にとってジンはそれだけ恐ろしい存在だったという事か……」
「そのようですね。記憶を失った上、もう十年近く経つというのに未だに夢でうなされているようですし……」
「……」
「あなたがあの組織の人間だったんじゃないかと疑った時、明美さんの知り合いだというのも作り話かと思いました。しかし……今のあなたの口振りからするとどうやらあなたにとって明美さんは大切な人だったようですね」
「……」
「歩美の話ですが、アイツはあなたを『まるでお姉ちゃんみたい』と慕っているそうです。おそらくあなたに明美さんの影を見ているんでしょう」
「……」
「教えて下さい。あなたは一体何者なんですか?なぜ……今になってアイツに近付いて来たんですか?」
コナンの真剣な口調に杏香が苦笑する。
「……すべてを話す前に一つだけ聞きたい」
「え……?」
「江戸川…いや、工藤新一、お前に志保を守れるのか?」
杏香の鋭い眼差しが彼女の放つ矢のようにコナンを捕えた。
「……断言は出来ません。ただ……どんな事があってもアイツと共に生き抜いていきたいと思っています。アイツの兄ともそう約束しましたし……」
「赤井秀一か。さすがのあの男もたった一人残った妹の事は心配なようだな」
「どうしてそれを…!?」
哀と赤井の関係まで知られているとは思っていなかったコナンは思わず絶句した。
「こんな所で話す訳にもいかないだろう。ついて来い」
杏香は弓具を射場の片隅に置くとコナンと平次を促した。



案内された場所は神社の敷地内でも目立たない所にある小屋のような建物だった。鬱蒼とした木立に囲まれているせいか真昼だというのに中は暗く、土間の奥に6畳ほどの和室が二部屋ある事しか分からない。夜目がきくのか杏香はさっさと下駄を脱ぐと部屋へ上がって行った。
「どうした?中に仕掛けなどないぞ」
「……その言い方やと表には何かあるっちゅう事か?」
「さあ、それはどうかな?」
不敵に微笑む杏香に絶句する平次をよそにコナンは靴を脱ぐと彼女の後に続いた。ろうそくに火が灯り、やっとそこが茶室のような空間である事が分かる。
「江戸川、お前が言うとおり私は元組織の人間だ」
座布団に腰を下ろすとコナンが切り出すより先に杏香が口を開いた。
「じゃあ明美さんとは組織の中で知り合って……」
「いや、組織の命令で私が明美に近付いたのさ。正体を隠してな」
「な…!」
「学校の中まで黒服の男が尾行する訳にはいかないだろう?」
「なるほど……監視役やったっちゅう事か」
平次が納得したように呟く。
「接触した当初は何の感情もなく友人を演じていたが……幼い頃から孤独だったせいだろうな、明美と過ごすうちに彼女は私にとって大切な存在になっていた……自分でも気付かないうちにな……」
「……」
「あれは……あの事件の三日前の話だ……」



待ち合わせに指定された喫茶店に入って行くと「杏花(きょうか)、こっちこっち!」という元気な声が聞こえてきた。
「ごめんね、急に会いたいなんて……」
「特に予定もないからな。気にする必要はないさ」
「『予定もない』なんて……志保にも言った台詞だけど、杏花もいい加減彼氏の一人くらい作りなさいよ。せっかくの美人が勿体ないわ」
明美がクスッと笑うと紅茶を口に運ぶ。
「……それで?」
「えっ?」
「大切な話って何だ?」
杏花の問いに明美はしばし黙り込んでいたが「……お願いがあるの」と決意するように口を開いた。
「私にもしもの事があったら……志保をお願い。あの子、一人ぼっちになっちゃうから……」
「もしもの事って……まるで明日死んでしまうような言い方だな。どうしたんだ、急に?」
「私……三日後の十億円強奪計画の実行を任されたの」
「……!」
さすがの杏花も驚きを隠せなかった。組織に属する人間とはいえ明美は今まで犯罪とは全く無縁の生活を送っていた。なぜなら明美はあくまで組織有数の頭脳と言われる彼女の妹を繋ぎ止めるための『道具』に過ぎないからだ。その明美になぜそんな任務が言い渡されたのか杏花には理解出来なかった。
「明美、今日はエイプリル・フールじゃないぞ」
心の動揺を抑えつつやっと口にした言葉に明美が微笑む。
「コードネーム、マラスキーノ」
「……!」
「杏花、私、知ってるのよ。あなたが組織の人間だって事……」
「明美……」
「組織が約束してくれたの。この仕事を無事成功させたら私と志保を組織から抜けさせてくれるって。だから……」
「そんな話、信用出来ると思っているのか?」
「いくら志保が優秀でも十億あれば代わりの人材を見つける事くらい組織にとっては容易いでしょ?それに……私、何よりあの男から志保を守りたいの。あの子を見るあの男の目は尋常じゃないわ。このままではいつか食い物にされてしまう……」
「……」
重苦しい沈黙が二人を支配する。
「……止めても無駄なようだな」
杏花がそう呟いた頃には暖かかった紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
「ええ……」
「……分かった。出来る限りの事はしよう」
「ありがとう……」
「しかし……よく分かったな。私が組織の人間だと。私の存在はあの方以外数人しか知らないはずだ」
「志保が言ってたの。あの男に乱暴されそうになった時、助けてくれた女の人がいたって。特徴を聞いてすぐに杏花の事だと分かったわ」
「そうか……」
「……杏花?」
「羨ましいと思ってな。お前と志保の絆が……私には両親の記憶さえないからな……」
「……きっとそのうち現れるわよ。杏花の事、大切に想ってくれる人が」
「……そうだといいな」
明美の笑顔に杏花は曖昧に微笑んでみせる事しか出来なかった。