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「『乱暴されそうになった』って……」
杏香の話にコナンは自分でも気付かないうちにそう呟いていた。
「どうした?」
「アイツとジンは……恋人同士だったんじゃなかったんですか?」
「本当にお前は女というものが見えていないようだな」
「え…?」
「たった一人の姉を殺した人間に憎しみを抱くのは当然だが、その相手が一度でも本気で愛した男だったら……女ならもっと複雑な感情を抱くはずだ。違うか?」
「……」
ずっと哀とジンの間には男女の関係があったものだとばかり思っていたコナンは思わず言葉を失った。
(もしかして……アイツがジンの事を思い出したのは……)
コナン自身は振りのつもりだったが、哀にそんな事は分からなかっただろう。襲われる恐怖感が引き金となり記憶が蘇ったのではないだろうか?
(オレは…何てバカな事を……)
この約十年、哀の記憶が蘇る事を期待していなかったといえば嘘になる。しかし、よりによって彼女にとって最も忌まわしい存在だったであろうジンの事を真っ先に思い出させてしまった事にコナンは自責の念を抱かずにはいられなかった。
「……工藤?どないしたんや?」
横に座る平次に突付かれハッと我に返る。
「な、何でもねえよ……」
歯切れの悪い答えに納得する相手とは思えなかったが、平次は「……そっか」とだけ呟くとそれきり何も追及して来なかった。
「せやけど……それやったらジンっちゅう男は何でそないにあの姉ちゃんに拘っとったんや?恋人やったいうんなら分かる話やと思っとったんやけど……いくら組織を裏切った人間ちゅうてもあの執念は異常やったで」
「ジンは元々東洋人の女を嫌っていたからな。そんな奴がシェリーに惹かれ、拒否された。その結果は……分かるだろう?」
「プライド傷つけられたっちゅうとこやな?」
「恐らくな。まったく……莫迦な男だ」
「……」
ジンの存在自体を切り捨てるような杏香の物言いに絶句してしまった平次に代わってコナンが再び口を開く。
「そういえば……米花アクアマリーナで会った時、『あと少しのところで助けられなかった』と言ってましたよね?もしかしてオレが明美さんを看取った時……」
「ああ。もっともあの時はお前の事をただの子供だと思っていたがな」
杏香は苦笑すると再び話を過去に戻した。



明美から杏花に連絡が入ったのは十億円強奪事件から十日後の事だった。事件後、組織は杏花をはじめとする監視役に対し彼女と接触する事を一切禁じていた。明美が警察に捕まった場合、万が一にも組織の存在が明るみになる事を懸念したのだ。更に明美の方も自宅がある高層マンションには戻らずビジネスホテルを転々としていたようで、ずっと音信不通状態だったのである。
指定された喫茶店で待ち合わせた後、明美に連れて来られたのは『パークアベニュー・ひばり』という名の小さなマンションだった。どうやら組織の目を盗んで借りたらしい。
「……驚いた?」
「ああ…よくばれなかったな」
「今はインターネットとか色々発達してるからね。そのお陰で直接不動産屋さんに行かなくても借りられたわ。大家さんも家賃を一年分前払いしたら何も言わなかったし」
得意げにウインクする明美に杏花は思わず苦笑した。
「……それで?二人っきりで話したい事って何?」
「例の件……組織で噂になっているぞ」
「そう……」
明美が中心となって実行された十億円強奪計画は成功したものの引きずりこんだ男に現金を持ち逃げされてしまっていた。
「さすがに犯行直後だから私自身はそんなに動けないけど……手は打ってあるから心配しないで」
「手は打ってあるって……どういう事だ?」
「探偵を二人雇ったの。人捜しの名目でね」
「探偵だと?大丈夫なのか?」
「ええ。個人経営の小さな事務所に依頼したから。組織までは辿り着けないはずよ」
「金について組織は何と言ってるんだ?」
「手段は問わないからなるべく早く引き渡せとしか言われてないわ」
「そうか……」
「そういえば……志保にも話したんだけど、私が行った探偵事務所にちょっと不思議な男の子がいたわ」
「不思議な男の子……?」
「ええ、『江戸川コナン』っていったかしら?小学校一年生くらいだと思うんだけど……何か変わってるのよね。子供のくせに落ち着いてるっていうか大人っぽいっていうか……あと、誰かに似てると思ったんだけどはっきり思い出せなくて……」
「そんな事より……明美、金を持ち去った男が潜伏しそうな場所に心当たりはないのか?お前が動けないなら私が……」
「ありがとう。でも……あなたの正体を私が知ってるって組織に気付かれる訳にはいかないでしょう?」
「それは……」
確かに明美の監視役である杏花が実は彼女を影で手助けしているとバレたら二人とも命はないだろう。
「杏花には感謝してるわ。大学に入った頃から私の行動を随分見て見ぬ振りしてくれたものね。もう……充分よ」
「明美……」
「……ごめんなさい、そろそろ行かないと。探偵事務所に連絡取らないといけないし」
「……」
明美が立ち上がると玄関へ向かう。杏花は大人しく彼女の後に続くしかなかった。



「兄貴、十億を受け取ったら本当にあの姉妹を組織から抜けさせてやるんですかい?」
バタンというドアが閉まる音がしたかと思うと、ジンの腰巾着、ウォッカの声が聞こえてくる。
都心で組織が拠点にしているビルの地下一階。仕掛けておいた盗聴器から聞こえてくる会話に杏花は耳を澄ませていた。
「馬鹿を言うな。組織がシェリーを手放す訳ないだろう。それに……」
「それに……?」
「俺はまだあの女を味わってねえしな」
いやらしい笑い声に杏花は思わず顔をしかめた。
「あの女、金を取り戻したようですが……」
「ああ。今夜10時、米花町の港で落ち合う事になっている」
「しかし……シェリーを連れて行かねえと素直に渡すとは思えませんけど……」
「そん時はバラしても構わねえって指示だ」
(……!?)
ジンの思わぬ台詞に杏花は自分の耳を疑った。さすがの組織も有数の頭脳であるシェリーを繋ぎ止めるため実の姉の命を奪う事はないと思っていたのだ。
(どうする……?)
明美が今夜潜伏しているホテルは知らないし落ち合うにしても時間がない。
(……後をつけるしかなさそうだな)
杏花は潜んでいた部屋を後にするとジンの愛車ポルシェ356Aが眠る車庫へ急いだ。監視カメラの死角をくぐり抜け手袋をはめると車に発信機を取り付ける。一般的にも入手可能な単純なものだが、接近して追跡する訳にはいかない以上他に方法がない。
杏花は自分の車の運転席に乗り込むとジンとウォッカが動き出すのをじっと待った。



発信機の反応が途絶えたのはちょうど杯戸町から米花町に差し掛かる交差点で信号待ちに引っ掛かった時だった。
(……気付かれたか)
用心深いジンの事だ。無線や携帯電話に入るノイズ音で発信機を見付け潰してしまったのだろう。
米花町の港というだけではあまりに漠然としているが、かと言って立ち止まっている訳にはいかない。杏花はハンドルを切ると港へと車を走らせた。
細い路地に車を停めるとコンテナが並ぶ隙間を駆け抜けて行く。夜の港は想像以上に人気がなく明美とジンがどこで落ち合ってもおかしくなかった。
(どこだ……一体どこだ……!?)
焦っても仕方がないと分かってはいても逸る気持ちを抑えられない。走っても走っても似たような景色が続き、もはやどこを走っているかさえ分からなくなっていた。
さすがに息が切れ、思わず立ち止まった杏花の耳に船の汽笛に紛れるように発砲された銃声が飛び込んで来た。
(まさか…!)
音が聞こえた方向に再び走り出す。目の前が開け、明美の姿を捕えた瞬間、彼女は脇腹を押さえて倒れ込んだ。
「明美……!!」
駆け寄ろうとした杏花は別の方向から聞こえた「雅美さん!?」という声に慌ててコンテナの陰に身を潜めた。眼鏡をかけた幼い少年と高校生くらいの少女が明美に駆け寄って来る。少年が明美の身体を支えると「蘭姉ちゃん、早く救急車を!!それにおじさん達にも!!」と叫んだ。
「う、うん、分かった!!」
少年の声に蘭と呼ばれた少女が身を翻す。
(明美……)
遠目で見ても助からない事は一目瞭然だった。傍へ行ってやりたいのはやまやまだが、どこかで組織の人間が事の顛末を見守っているかもしれない。杏花はグッと自分の思いを押さえ込むと、かろうじて聞こえてくる少年と明美の会話に耳を澄ませた。少年の口から紡ぎ出される言葉はとても小学生のものとは思えないものだった。明美も驚いたのだろう。「あ、あなたは一体!?」と目を見開いて少年を見つめている。
「江戸川……いや……工藤新一、探偵さ」
(工藤…新一……?)
どこかで聞いた事がある名前だがはっきり思い出せない。
その後も二人の会話は続いたが、突然、明美の左手が少年の右手を強く掴んだ。
「頼んだわよ……小さな探偵……さ……」
それが最期の言葉となった。眠るように目を閉じると力を失った明美の手が地に落ちる。
「……」
少年に気付かれないようそっとその場を後にした杏花の頬をいつの間にか涙が一筋伝っていた。



「……なるほど。それでオレの正体を」
「ああ。もっともいくらお前の口から『工藤新一』という名前を聞いたとはいえ、さすがにその後しばらくは半信半疑だったがな。まさか人間が幼児化するなどとは思えないだろう?」
杏香の常識的な意見にコナンは苦笑した。
「それで……あなたと明美さんの事は組織にばれなかったんですか?」
「ああ。明美との約束を守るためにも平静を装ったさ。姉を殺された志保が黙っているとは思えなかったからな。案の定、組織に造反してガス室に閉じ込められた。上の意見はバラバラだったさ。さっさと殺してしまえという奴もいれば志保の頭脳を惜しむ奴もいた。中には薬漬けにして意思を奪ってしまえという輩もいたな。まあ、そのお陰で処分が延びていたんだが……」
「……」
「その隙を狙って志保を逃がそうとガス室へ向かったら姿が消えていたんだ。ダストシュートが少し開いているのを見て私は確信した。志保が研究していたAPTX4869の奇妙な副作用をな」
「組織を抜け出したアイツを追いかけようとは思わなかったんですか?」
「下手に近付けば幼児化の事実を組織に悟られるだけだ。それに、組織を去る前にどうしてもやらなければならない事もあったしな」
「やらなければならない事…?」
突然、コナンの言葉を遮るかのようにどこかでリーンという鈴の音が鳴った。反射的に杏香がろうそくの火を吹き消しコナンと平次が土間へ向かう。
「誰だっ!?」
勢いよく引き戸を開けた瞬間、目の前に現れた意外な人物にコナンは目を丸くした。
「赤井捜査官…!」
「どうやらお前の方が先にこの女に辿り着いたようだな」
赤井は煙草の火を消すと土間へ入って来た。
「ほう……写真より美人だな」
「……聞いていたのか?」
「ああ。まさかこんな所でもう一人の妹の話が聞けるとは思わなかったがな。それにしても随分古典的な仕掛けをしたもんだ」
赤井の言葉に外を覗くと建物の外壁に沿って地面から数センチのところにピアノ線が張り巡らされている。その線は建物の中に繋がっており、先端には小さな鈴が取り付けられていた。どうやら誰かがこの線に触れると鈴が鳴る仕組みになっているようだ。
「最先端の技術に頼る人間には単純な仕掛けの方が効果的だからな」
杏香の答えに赤井は面白そうに「なるほど」と呟いた。
「あんたが志保を守ろうとしてくれている事には感謝する。しかし、勝手に動かれるのは迷惑だ」
「……指示に従えとでも言うのか?」
赤井と杏香、二人の間に緊張した空気が流れる。コナンはその様子を息を殺して見守った。