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「ねえ、哀、この後何か予定入ってる?」
クレープの最後の一欠片を口に含むと歩美が身を乗り出した。
「特に何もないけど……」
「じゃ、お昼一緒に食べない?」
ニッコリ笑って「ジャーン!」と効果音を口にすると手帳から一枚の紙片を取り出し、哀に差し出して来る。
「『上海映月楼』の割引チケット!黄君にもらったの」
「ランチは対象外って書いてあるけど……」
「本当はね。でも、特別に適用してくれるってv」
「ふうん……」
哀は歩美にチケットを返すと「いつの間にか随分仲良くなったのね」と呟いた。
「あ……この前、学校帰りに元太君がどうしても食べたいって言うから付き合ったの。その時黄君とも色々話したから……」
『上海映月楼』を訪れた本来の目的を言う訳にもいかず、歩美は曖昧に笑ってみせた。もっとも、元太の食欲に付き合わされる事は昔から度々あったせいか哀は全く疑っていない様子だ。
「中華ばっかり連続になっちゃっうけどいいの?」
「哀がイヤなら他の店にするけど……今月お小遣いピンチだから出来れば付き合ってくれると嬉しいな」
「……そういえばテニスシューズ、予算オーバーだったわね」
「そうなんです……」
わざわざ渋い表情をつくってみせる歩美に哀は思わずクスッと微笑んだ。
昼食には時間が早いし、今いる場所から米花アクアマリーナまでさほど遠くない事もあり、二人は歩いて移動する事にした。残念ながら桜は散ってしまったが、美しい新緑と穏やかな日差しが散歩にはうってつけだ。
「……あ、この道、知る人ぞ知るアクアマリーナへの近道なの」
歩美の案内で細い路地へ入った二人だったが、突然、その行く手を塞ぐかのように大きな黒塗りの外車が停車すると男が三人降りて来た。
「あなたは…!」
哀の表情に緊張が走る。一昨日、下校途中に襲ってきた男達に間違いなかった。
「灰原哀、オレ達と一緒に来るんだ」
「……」
とっさに歩美を庇おうとした哀だったが、逆に歩美の背後に回されてしまう。
「あのねえ……この私がいるのに『はい、そうですか』って素直に哀をあんた達の元へなんか行かせるとでも思ってるの!?」
「お嬢ちゃん、あんたに用はないんだ。怪我したくなかったら大人しくしてるんだな」
勇ましく自分を睨み付ける歩美に男は苦笑すると懐から拳銃を取り出し、黙って地面に向かって発砲した。サイレンサーでも付けているのか、音は聞こえなかったものの弾丸がコンクリートを抉り煙が立ちこめる。その様子に歩美は思わず息を呑んだ。
「……分かったわ。言う通りにするから歩美に手を出さないで」
「哀!!」
「この人達の狙いは私よ。歩美、私、あなたを巻き込みたくないの」
「でも…!」
「お願い」
いつにない哀の厳しい口調に歩美が言葉を失う。そんな彼女に哀は黙って頷くと男の方に向かって歩き出した。
(どうしよう……このままじゃ哀が……)
コナンに連絡を取りたくても携帯電話や探偵バッジを取り出そうものなら相手は遠慮なく発砲してくるだろう。
何も出来ないもどかしさに歩美が唇を噛んだ時だった。黒い影が横切ったかと思うと、突然グワッという悲鳴とともに男が地面に倒れ込んだ。
「黄君…!」
「離れてろ!!」
海里はそれだけ言うと男達に向かって行った。中国拳法だろうか、屈強な体格の男達を相手に互角の戦いを展開している。素人目にもその実力はかなりのもので、哀と歩美は大人しく海里と男達の乱闘を見つめた。
「……二人とも大丈夫か?」
数分後、男達を完全にノックアウトすると海里が二人の傍へやって来た。
「う、うん……ありがとう」
「でも黄君、どうしてここに……?」
「偶然だって言っても信じてもらえる訳ないか……実は今朝から灰原さんの後をつけてたんだ」
「え…?」
「一昨日、灰原さんを襲った連中がまた狙って来るかもしれないからガードしてやって欲しいって頼まれたからな」
「そんな危険な事……一体誰が……?」
「赤井さんだ」
「赤井さんがどうして……?」
「赤井さんとオレの父さん、古い知り合いなんだ。江戸川君から灰原さんが誘拐されそうになったって聞いて心配してるみたいだな」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと海里はそれ以上何も語ろうとはしなかった。その様子に歩美はホッと胸を撫で下ろす。襲われれば襲われるほど哀が自分の過去から逃げられないと自覚する事は歩美にも容易に想像はついた。が、すっかり怯えてしまっている今の哀を刺激したくはなかったのである。哀の方も海里にそれ以上尋ねても無駄だと判断したのだろう。「そう……」とだけ呟くとそれ以上突っ込む事はなかった。
「それにしても……」
「黄君、強いね」という歩美の言葉は海里の右腕から流れる血に飲み込まれてしまった。
「……大変!怪我してるじゃない!」
「これくらい平気だ」
「ダメだよ!黄君、お父さんみたいな料理人になりたいんでしょ?」
海里が驚いたように目を丸くする。
「オレ……君にそんな事話したっけ?」
「聞かなくても分かるよ。お店が休みなのにお父さんと同じ味を作ろうと頑張ってた黄君を見れば……」
歩美はポシェットから綺麗にアイロンがけされたハンカチを取り出すと海里の腕に巻き付けていった。海里の顔は徐々に茹でたタコのように赤く染まっていく。
「はい、出来上がり!」
「あ、ありがとう……」
「家に帰ったらちゃんと消毒してね」
「あ、ああ……」
すでに海里は耳の後ろまで真っ赤な状態だが当の歩美はまったく気付いていないようだ。その様子に哀は思わずクスッと微笑んでしまう。
「歩美、あなたも自分の事は見えていないみたいね」
「え…?」
面白そうに笑う哀に歩美は首を傾げた。
「どうやら黄君、あなたの事……」
次の瞬間、突然哀の身体を何かが貫いた。
「……!!」
「哀!?」
意識を失った哀を歩美が慌てて支える。
「誰だっ!?」
緊張して周囲を見回した海里の目にその人物は映った。背後に数人の男達を引き連れている。
「心配する必要はない。今撃ったのは麻酔銃だからな」
「お前は…!」
「大人しくその娘を渡せばお前達には何もしない。ただし邪魔すると言うなら……」
「……!!」
ベレッタM92の冷たい銃口が歩美と海里を真っ直ぐ捉えていた。



「……ったく」
緊迫する雰囲気を破ったのは平次だった。
「同じ目的で動いとる人間がいがみおうとってもしゃあないやろ?敵はぎょうさんおるかもしれへんし、せっかく頭数あるんやったら協力した方がええんとちゃうんか?」
平次の言葉にしばし黙り込んでいた赤井と杏香だったが意地を張り合うのも大人げないと判断したのだろう。赤井が「……そうだな」と呟き、靴を脱いで部屋へ上がると杏香も無言で腰を下ろした。その様子にコナンと平次も慌てて部屋へ戻る。
「志保を狙っているのはやはりあの組織の残党なのか?」
杏香の正面に腰を下ろすと赤井が早速本題に入った。
「ああ。水曜日にあの娘を襲った連中の中に見た事がある顔があったからな。もっとも……当時は末端の小者だったが」
「そいつらを操ってる奴に心当たりはないのか?」
「……目星は付いている。だからこそ私はあの学校に潜入したんだ」
「まさか……黒幕は米花総合学園にいるとでも言うのか?」
「……」
「柚木先生、もしかして……」
赤井と杏香の会話にコナンが口を挟もうとした時だった。自動追跡モードに設定してあったメガネが警告音を発する。コナンは受信範囲を縮小すると急いで哀の発信機の動きを追った。
「工藤、どないしたんや?」
「アイツに……何かあったみてえだ」
「なんやて!?」
「大丈夫だ。歩美と出掛けるって言ってたから念のため博士にも追跡頼んであるからよ。時速約70q……このルートは電車やバスじゃねえな……車か…!?」
「せやったら早よ追い掛けんと……!」
「ああ、運転頼めるか?」
「当たり前や!ほんなら……」
「待て」
立ち上がろうとしたコナンと平次を止めたのは赤井だった。
「その必要はない」
「え?」
「黄からメールが入った。志保と海里君を保護したとな」
「どういう事ですか?」
「敵が仕掛けて来るとしたらこの週末だと思ったからな。黄にも応援を頼んだんだ」
「そう……ですか」
「お前を信用していない訳ではないが……念には念を、と思ってな」
正直、面白くないが赤井が妹を心配するのも無理はあるまい。コナンは自分にそう言い聞かせると「それで……アイツは?」と続けた。
「詳しい事は分からないが二人とも意識不明らしい。今、こっちへ向かっているそうだ。話はそれからだな」
冷静に呟く赤井にコナンは黙って頷いた。



黄悠大の車が月夢神社に到着したのはそれから十分後の事だった。哀は意識を失っているだけだが、海里の方は拳銃で撃たれたのか右腕にはハンカチが巻かれ、左肩からも出血している。
「病院へ連れて行かなくていいのか?」
「ああ、麻酔で気を失ってるだけで傷はたいした事ないみたいだからな」
「そうか……」
赤井が哀を、悠大が息子を抱きかかえると、杏香の指示に従い隣の部屋へ横たえる。何となく手が出しづらい雰囲気にコナンは黙ってその様子を見守るしかなかった。
「……で?黄、お前は二人を襲った連中を見たのか?」
コナン達がいる部屋へ戻って来ると赤井が口を開く。
「いや、だが……どうやら黒幕直々お出ましになったようだな」
「ほう……」
「意識を失う直前、海里が言っていた。それと……」
悠大がポケットから弾丸を取り出すと赤井に差し出した。
「これは……」
「ああ。使用された拳銃はベレッタだ。どうやら川上っていう大学教授を殺害したのも奴らに間違いないな」
「黒幕について海里君は他に何か言ってたか?」
「それが……『アイツが黒幕だったなんて……』と言ったきり意識を失っちまったんでな」
「海里君も知っている人物という事か……意識が戻るのを待つしかなさそうだな」
「いえ、その必要はありません」
赤井と悠大の会話を遮るようにコナンはきっぱりと言い切った。
「工藤、お前、黒幕の正体が分かった言うんか!?」
平次が驚いたようにコナンを見つめる。
「ああ、今の話で確信したぜ」
「一体誰なんや!?」
「哀の話だと水曜日に襲われた時、奴らは待ち伏せしてたっていうんだ。アイツの行動は予測出来ねえはずだから待ち伏せするには共犯者が尾行して仲間に連絡し、先回りさせるしか方法はない。だが、もしそんな怪しい奴がいたら黄が気付くはずだろ?歩美達から聞いた話だと黄もアイツを尾行してたみてえだからな。しかし、歩美も元太も黄からそれらしい話は聞いていない。という事は……アイツと一緒にいた村主が知らせたと考えるのが自然だ。もっとも……知らせたというよりはGPSか発信機を使ったんだろうがな」
「村主って……あの色男か!?」
「ああ。自分が一緒にいる時に仲間に襲わせれば容疑者から外れると踏んだんだろう。だが、村主が黒幕だと考えれば哀を拉致した連中の車が学園の方に向かって来たのも納得出来る。奴の家は学園のすぐ近くだからな。おそらくあの豪邸が奴らのアジトってところだろう」
「なるほどなあ」
「それに先週の金曜だったか……哀が体調を崩して倒れた時、歩美が『今日は休み』としか言わなかったのに村主の奴、『お大事に』と言って立ち去ったんだ。オレ達を常に見張っているからこそそんな言葉が出たんだろう」
「せやけどあの色男が黒幕とは限らんとちゃうんか?第一、当時は15歳やで。組織崩壊時はまだ子供やったやないか?」
「これはオレの推測だが……もし村主がオレ達同様APTX4869で幼児化した人間だったとしたらどうだ?」
「なっ…!」
「解毒剤を作りたいのか、あの薬の理論を完成させたいのか……目的は分からねえが、だからこそAPTX4869のデータを盗み川上教授にその研究を依頼したんだ」
「確かに……お前とあの姉ちゃん以外に幼児化した人間がおってもおかしくない話やな」
「黄が驚くのも無理ないさ。同級生だと思っていたヤツが黒幕だったんだからな」
コナンはフッと苦笑すると「……柚木先生も村主が怪しいと踏んであの学校に潜入したんじゃありませんか?」と杏香に視線を向けた。
「さすがだな。私が日本へ来たのは弓道サイトで紹介されていた村主浩平がかつて組織の幹部の一人で行方が分からなくなっていた男によく似ていたからだ。そして、この神社で行われた奉納射会で確信した。奴がコアントローに間違いないとな」
「コアントロー……それが村主のコードネームですか?」
「ああ。かつてジンのライバルと言われた男だ」
「ジンの……ライバル……」